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118 夜の丘にて騎士と騏驥は(4)

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「今夜は、お越し頂けて良かったです。厩舎地区を離れる前に、こうしてご案内できましたから」

「ダンジァ、その件だが——」

 続いたダンジァの言葉に、シィンは堪らず身を起こす。
 呼応して、発光石に光が戻る。辺りが仄かに明るくなる。

 シィンが続きを言おうとして——けれどやはり言えなくて、どう言えばいいのかわからなくて惑った時。

「シィン様」

 静かに、ダンジァの声がした。
 いつしか彼は、片膝をついてシィンを見つめていた。シィンとほぼ同じ視線の高さから、僅かな灯りのもとでもはっきりとわかるほどの真摯さをたたえた瞳が見つめてくる。

「明日より、シィン様のお側に侍るお許しを頂けましたこと、心より御礼申し上げます」

「…………」

「望んでいることではありましたが、殿下が騎乗なさる騏驥のことについては、自分も多少話を聞いておりましたので……。まさか叶うとは思っておりませんでした。この上ない喜びでございます」

「…………」

「精一杯お仕えする所存でございます」

 声は特別大きいわけではない。けれどそれは真っ直ぐにシィンの胸に入ってくる。染み込んでくる。
 じっとシィンを見つめ、そして頭を垂れる騏驥を見つめ——。
 シィンは、そっとその髪に触れた。
 手触りのいい髪を撫で、前髪を梳き上げる。幾度も。幾度も。

「……顔をあげよ」

 伝えて、彼が顔を上げた後も。幾度も。幾度も。
 そうしていると、ダンジァが心地よさそうに目を細める。無防備なその様子に、愛しさが満ちる。

「正直を言うとな……」

 ぽつりと、溢すように話し始める。

「今夜は、お前に最後のチャンスを与えるつもりだった。引き返すための最後の機会を与えようと——そのつもりで厩舎地区へ来た。いや、そうではないな。わたしはお前を試そうとしたのだ。確かめようとした。わたしへの忠心が心からのものなのか、と」

「……」

「あの日聞いた言葉を疑っているわけではない。あれはわたしにとっても幸せな言葉であった。が……人は間違えることもある。いっときの感傷に流されて、お前がこの後の騏驥としての——」

「いいえ」

 と。
 シィンの言葉を阻むように、ダンジァが声を上げた。シィンは目を瞬かせる。
 王子の言葉を遮るなど、一介の騏驥の身でして良いことであるはずがない。が、ダンジァは謝ることも躊躇することもなく続ける。

「いっときのことではありません。自分はずっとずっと——ずっとずっとシィン様を想っておりました」

 そしてダンジァは、撫でる手を止めてしまったシィンのその手を取ると、じっと見つめてくる。

「騏驥たちの間では、『騏驥は三度生まれる』という言葉があります。一度目はこの世に生を受けた時。二度目は騏驥となった時。そして三度目は——自身にとって『このお方だ』と思える騎士と出会えた時です」

 手に、ゆっくりと力が込められる。
 堰を切ったように、ダンジァは続ける。

「ですが……三度目の生を得る騏驥は稀です。騏驥たちの間では、『そんなのは始祖の血を引く騏驥でなければ無理だ』と言われています。生まれた時から騏驥であり、そして騏驥の側から騎士を選べる、始祖の血を引く騏驥——そんな特別な騏驥でなければ、普通の騏驥にはそんな機会はやってこないのだ、と」

「けれど自分は、シィン様と出会うことができました。しかもお側近くに仕えることをお許しいただき、抱いていた望みを叶えることができました。…………騏驥の焦がれる三度目の生を得ることができました……」

 ぎゅっと、手が握られる。
 彼の想いの強さが伝わってくる。
 微笑んで、彼は続ける。

「それは、とても幸せなことです。もちろん……ずっと暮らしていたここを離れることが寂しくないわけではありません。ですが、シィン様のお側にいられる幸せを思えばそんな寂しさは大したことではございません。シィン様のお側にいることが、自分の幸せです」

 そして、彼は初めて見せるような悪戯っぽい顔で笑った。

「心のままに申し上げれば、自分は暮らす場所などどこでも良いのです。食べ物の好き嫌いはありませんし、どこででも眠れるのですから。ここでも城内でも、どんな山奥でも地の果てでさえ。どこででも……シィン様のお側にいられるなら」

「……ダンジァ……」

「過日……昼も夜も自分にとっての星シィン様は美しいと申し上げました。その時も、今も——そしてもうずっと前から、その気持ちは変わっておりません」

「ダンジァ……!!」

 込み上げてくる想いに突き上げられるように、シィンは自身の全てをぶつけるようにダンジァの胸に飛び込む。広い胸は、そんなシィンを易々と抱きとめ、抱きしめてくれる。
 優しく——けれど息が止まりそうなほど強く。

「——ダンジァ」

 シィンは心の底から愛しい騏驥の名前を呼んだ。
 こんなに切なく、目の奥が熱くなるほどの甘酸っぱさを覚えながら誰かの名前を呼んだことはなかった。

 何を迷っていたのか。自分がこの騏驥を手放すなど、どだい無理だったのだ。
 赤い騏驥であろうがそうでなかろうが、なにがなんでも彼を手元におくつもりだったではないか。
 自由にしてやろうなんて——彼の気持ちを尊重してやらなければなんて——そんなものは、ただの言い訳だ。彼がもし自分の申し出を喜んでいなかったらと恐れていたことへの、ただの言い訳だ。
 あの日の彼の言葉が嘘でなければいいと——夢でなければいいと——ずっとそれだけを願っていたくせに。自分の欲深さと我儘さから目を逸らそうとしていただけだ。

 本当は——本音は——彼が嫌がっていようが側に置きたかった。


 シィンはダンジァの頬を両手で挟むと、間近から彼を見つめる。
 髪の落ちかかっている額が好きだ。男らしい眉が好きだ。知的で、同時に情熱的な瞳が好きだ。高く形のいい鼻梁が好きだ。引き締まった口元が好きだ。頬から顎の精悍さが——声も——肌も——人の姿も馬の姿も、何もかも全てが。
 
 ——誰より何より——大好きだ。
(こんなに胸をざわめかされることはない)

 そんな彼を、視線で自分の側に縫い留めるかのように。

「ダンジァ、もう離さぬ。絶対だ。何をどう言おうが、誤りだったと狼狽えようが困ろうが、もう絶対に絶対にお前を離さぬ」

「はい」

「城から出るな。出さぬ。わたしの側から離れるな。離さぬ。絶対だ。ずっとだ。それでいいのだな。いや——良くなくても離さぬ……」

 胸の中に抱きしめられたまま、ほとんど駄々を捏ねるように散々我儘を口にしたが、ダンジァは躊躇うことなく「はい」と応える。
 目を細め、幸せそうに微笑んで、

 はい——ずっとずっと離さないでくださいませ。——と。

 自分も、シィン様を離すつもりはございませんので。——と。



 そんな言いようは、本当なら騏驥にあるまじきことだ。
 彼なら当然わかっている。
 けれど彼はそう言い、微笑み、シィンを抱きしめる腕に力を込める。

 シィンは自らを束縛する腕の強さに、溶けるような眩暈を覚える。
 自分をこんなふうに抱きしめる者がいるなんて。
 自分がこんなふうに抱きしめられて、こんなにも幸せを感じることがあるなんて。

 シィンは、ダンジァに抱かれるまま、その胸に頬を擦り寄せる。
 温もり。彼の香り——。以前感じたそのままだ。あれは夢ではなかった。あれは”いっときのこと”ではなかった……。

 全身を包む幸せを噛み締め、シィンは熱い息を零す。
 改めてダンジァを見つめると、微笑んで見つめ返される。
 言葉に出来ない喜びが胸に満ちる。
 しかし——その時。

(あ……)

 肝心なことを確かめていないことに気がついた。

『お側に侍る』
『殿下が騎乗なさる騏驥』
『精一杯お仕え』

 ……もしかして彼は、”騏驥として”必要とされているだけ——と思ってやしないだろうか?
 もしくは、”騏驥として”のみ尽くすつもりである——とか。

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