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113 騏驥の嫉妬は

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「…………」

 聞き間違え——ではないだろうか。
 都合のいい聞き間違え。もしくは、空耳。

 それを確かめたくて、シィンはダンジァを見つめる。
 彼の貌から、表情から、さっきの言葉が本当なのかを見つけ出したくて。

 だが、彼はもう何も言わない。
 待っても、あれ以上何も言わない。口を開こうとしない。
 表情も硬く、ただ真っ直ぐに前を見据えたままだ。まるで、シィンの視線を跳ね返すかのように。避けるかのように。

「……ダンジァ」

 堪らず、シィンは彼の騏驥を呼んだ。

「ダンジァ、さ……さっきの、あ、あれはどういう意味だ」

「…………」

「ダンジァ、聞こえているだろう。答えろ」

 しかしダンジァは答えない。答えないまま、目を合わせることもしないまま、ただただ走り続ける。

「っ……ダンジァ!!」

 シィンが声を荒らげると、ダンジァは微かにびくりと腕を震わせた。

「……シィン様。どうぞ安静になさっていてください。医館まであと少しです。これなら夜明け前に——」

「安静にしていられないのは誰のせいだと思っている!? なんださっきのあれは。一体どういうことだ!?」

「…………」

「ダ……」

「お許しください」

 聞こえてきたのは望んでいない謝罪の言葉だった。

「口が滑りました。騏驥として恥ずべき失態を……」

「わ——わたしは謝罪が聞きたいのではない。さっきの、その……あれは……どういうことだと訊いているのだ」

「…………」

 シィンは唇を噛んだ。
 本当は問い詰めたくなんかない。なのにダンジァが答えてくれないから、躍起になってしまう。

「ダンジァ、止まれ!!」

 とうとう、シィンは声を上げた。
 息が上がる。それでもかまわずシィンは続ける。

「止まるのだ、止まってわたしを見よ。でなければ医館へ着いても解毒薬を飲まぬぞ」

「シィン様!?」

「それが嫌なら止まれ。止まるのだ、ダンジァ。…………命令だ」

 言いながら、自らを抱えるダンジァの腕をぎゅっと掴む。
 ほとんど力は入らず、ただ緩く引っ掻くだけのような形になってしまったけれど、シィンが本気だということは伝わったのだろう。もしくは、「命令」に反応したか。
 ダンジァはとうとう抵抗を諦めたかのように、ゆっくりと走る速度を落としていく。
 程なく、その足は完全に止まった。

 朝焼けが、俯き気味の彼の貌をうっすらと照らし、その端整さを引き立たせている。乱れた髪も、彼の精悍さと相まってむしろ美しいぐらいだが、シィンはそんなダンジァの姿に言葉をなくす。

 なぜなら。

「……ダン……お前……」

 泣いているのか?

 シィンはゆるゆると腕を上げると、指先で恐る恐る彼の頬に触れる。
 胸がしくりと痛んだ。
 そんなに——そんなに言いたくないことなのだろうか。
 それを、自分は王子という立場を利用して強制しようとしているのだろうか。

 自分の立場を、影響力を思い出すと「これ以上は……」という躊躇いが湧く。だが同時に「知りたい」という気持ちも変わらず込み上げてくる。
 どちらも、そう——本当の気持ちだ。
 ダンジァが特別で、ダンジァが相手だから——そんなふうに思う。そんなふうに感じる。

 彼と共にいると、どんな時より、誰といる時より安堵すると同時にドキドキするように。
 彼にだけ、そんな気持ちを抱く。
 今までの自分からは考えられなかったような——そんな気持ちを。
 
「ダンジァ……」

 シィンがその名を呼ぶと、ダンジァは頬に触れているシィンの手にそっと自らの手を重ねてくる。
 そしてシィンを見つめ、泣き笑うような表情を見せながら、

「汗です」

 と、ゆっくりと頭を振った。

「涙ではございません。ですが……御手が汚れます」

 そして再び目を逸らすと、シィンの手をそっとそこから離そうとする。
 シィンは「汚れない」と首を振った。

「わたしの為に尽くし、懸命に駆けてくれている騏驥の汗であろう!?  ならば、触れてなんの問題があろう」

「…………」

「ダンジァ——もっとしっかりとわたしを見よ」

「シィン様。もうすぐ医館でございます。すぐに。あと少しで」

「ダンジァ」

「…………」

「……ダンジァ」

 繰り返し名を呼ぶと、その度に彼の貌は苦しそうな気配を増していく。
 辛そうな、切なげな、そんな面差しは、今までの彼とは全く違っていて、だから先刻の彼の言葉は聞き間違いなんかじゃないとわかってしまう。

 しん……と辺りが静まり返ったように感じられた時。

「……騏驥として……あるまじきことです……」

 ダンジァの、小さな声がした。

「……騏驥の分際で騎士の方々の交友に嫉妬など……あるまじきことです。なのに自分は——あの時自分は、身の程知らずにも、シィン様が見知らぬ美しい女性の方と仲睦まじくしていらっしゃる姿に……」

 そこまで言うと、それ以上は口にできないと言うように唇を噛む。
 添えられている手に力が込められ、シィンの手がぎゅっと握り締められる。

「……ダンジァ」

 シィンはその手の強さを心地よく感じながら、彼の騏驥の名を呼んだ。 

「ダンジァ、わたしを見よ」

「シィン様……お許しください」

「咎めているのではない。お前の顔が見たいのだ。夜明けまで時間がないのであろう? ならば疾く——その顔を見せてくれ」

 ……頼む。

 シィンが言うと、ダンジァはびくりと慄くように身を震わせる。
 ややあって、意を決したように——しかしまだどこかおずおずと、シィンを見つめてくる。
 やっと目が合い、シィンはほっと相好を崩す。
 対してしゅんと目を伏せるダンジァに苦笑すると、

「……そんな顔をするな」

 そっと、頬を撫でた。
 
 
 ——嫉妬——。

 それは確かに、口にし辛い感情だろう。ただでさえ。騏驥なら尚更に。
 ツォをはじめとする今回の事件に関わった者たちも皆、それぞれに妬みを抱えていた。それが原因になった。
 けれど——。

(なんと甘美な……)

 この騏驥が、自分とウェンライの様子を誤解して嫉妬していたのだと思うと、彼の苦悩をいたわしく思いつつも、同時に、この上ない悦びを感じてしまう。

 嫉妬。
 ——嫉妬。

 この騏驥が。

 ——わたしの騏驥が。

 噛み締めるように胸の中で繰り返し、シィンはうっとりと熱い息を零す。

(だからあんな……拗ねたような態度を……)

 思い出すと、過ぎたあの瞬間をもう一度経験したくなるほどだ。
 わざと妬かせるような真似は好きではないし、したいとも思わないからこそ、そう思う。
 あの時気づけなかったなんて——なんともったいないことを。

 シィンは過去に少しだけ想いを馳せると、すぐに目の前の騏驥に意識を戻す。

 恵まれた美しい体躯。飛ぶように駆け、勇ましく精悍で、賢く、誠実で忠実で——。非の打ちどころがなく、なのに、嫉妬心を抱いたことに落ち込んでいる、愛しい騏驥。
 
 他の誰よりも何よりも大切な——特別な、唯一人。

「——良い」

 ダンジァを見つめたまま、シィンは言った。

「良い。構わぬ。嫉妬したならそれで良い。妬いたならそれで良い」

「シ……」

「わたしも、以前妬いたことがある」

 シィンが言うと、ダンジァが息を呑む。戸惑うように見つめてくる瞳を見つめ返した。

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