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 心のどこかでは、まだ夢ではないかと思っている。
 夢ならいいのに思っている。

 けれどそうでないなら——。これが現実なら。

 今日のことは、自分の身に起きたことは、ツォが企んだことだというのか。
 何かに——おそらく飲み物に混ぜ込まれていた毒物。

 だが、彼はあの場にはいなかった。では誰かにやらせたのか。
 そこまでして……なぜ。

「どうしてこんなことを!?  お前が全て……っ……」

 勢い込んで詰め寄った瞬間、寒さのためかそれ以外の理由なのか胸が詰まり息が詰まる。咽せるように咳き込み、苦しさに身を縮こまらせると、その背中を優しく撫でられる。

「どうぞ楽に。あまり動くと毒が——」

「わたしの問いに答えろ!」

 シィンは声を荒らげると、身を捩ってツォの手を振り落とした。
 けれど触れられていた感覚はシィンの背に残り、じくじくと彼を苛む。
 温かい手だ。優しい手だ。知っている。友の手だ。なのにどうして。
 
 苦しい息の中、精一杯睨みつけるシィンの視線の先で、ツォは苦笑で首を振った。

「お耳汚しでございましょう。今更わたしの——」

「ツォ!!」

 皆まで言わせず、シィンはさらに声を上げた。

「何故だ!?  どうしてこんな……」

 声は、今度はツォに阻まれた。
 彼の手が——さっきは優しくシィンを労ってくれていたはずの手が、グッとシィンの喉にかかる。
 苦しさに顔を顰めるシィンに、ツォは微かに笑った。

「自分が訊けば必ず答えが返ってくるとでもお思いですか? ああ……いえ、これは愚問でした。返ってくるに決まっている。あなたに問われれば、我々は答えを返さなければなりません」

 そして彼は、静かに唇を舐めて続けた。

「ただ……理由など陳腐なものです。揉め事の大抵の理由がそうであるように、わたしの企みの理由もまた——不満と恨みからでございます、殿下」

 シィンの首に手をかけたまま、ツォは伺うように小首を傾げて言う。

「がっかりなさいましたか? でもそんなものです。起こった事態は大ごとでも、理由は些細な陳腐なもの……。そんなことはざらにありましょう。『どうしてこんなことを——』その問いに対しての答えは、申した通り不満と恨みでございます。……あなたへの。ひいては……魔術やこの国への」

 遠くの山の向こうから朝が近づいていた。





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 心臓が、肺が、破れそうだった。
 脚が、足が、その爪先が、痛みを通り越し痺れを覚えるようになっていた。

 もうどのくらい走っているだろう。
 もうどのくらい探しているだろう。


 ただ一頭、ダンジァはシィンの姿を求めて城の方々を駆け続けていた。
 主宮や東宮をはじめとする数々の建物のほか、馬や騏驥のためのいくつもの厩舎を抱え、さらには数種の調教場や広大な放牧場を幾つも有する城の敷地内は、下手をすれば一つの町ほどに大きい。
 しかし城内の地理に不慣れな身では、とにかく端から端まで探すしかない。


 ウェンライやツェンリェンの率いる近衛たちや衛士たちも捜索を始めているだろうが、彼らと合流する気はなかった。
 合流すれば、騏驥である自分は誰かの——騎士の命令に従わなければならなくなる。それはできなかった。

 たとえこの後どんな罰を受けることになったとしても、今の自分はシィン以外に従う気は全くなかった。

 そう。

(そうだ……)

 思い返せば、過日——。
 初めて彼と会ったとき。
「変われ」と言われたあの時から。
 あの声を聞いた時から、自分は彼のための騏驥になったのだ。

 だから自分は彼を探す。探して、絶対に見つけ出す。
 城内中を駆けてでも——この世界の全てを駆けてでも。

 かの騎士を失えば、自分はもう騏驥ではいられない。


 

 ダンジァは、またひとしきり駆け回り、シィンを探す。
 より人気のないところ、より辺鄙な場所を重点的に。

 やがて小休止のために徐々に走りを緩めると、咥えていた剣をそっと草地に下ろす。
 人の姿から馬の姿に変わっても、唯一これだけは離さなかった。
 美しく清かにそこにある「星駕」。——宝物だ。
 
 使うことにならなくてよかったと改めて思う。
 シュウインを斬ることにならなくてよかったと思う。

 これを返上しようなんて、あのときの自分はどれほど愚かだったのだろう。
 いや——いろいろなことが不安だったのだ。
 期待されすぎているように感じられたし、この剣だけ残されてシィンとはもう会えなくなるかもしれないことも辛く思えて。

 でも。
 でも、今は。

 ダンジァは人の姿に戻ると、剣を拾い上げる。しばらくそれを見つめると、やがて、静かに抱きしめた。

「シィン様……」

 会いたくて堪らない気持ち、無事を願う気持ち、護れなかった後悔——。
 胸の奥から込み上げてくるそれら全ての気持ちが抑えられなくなったかのように、ダンジァの口から、彼のただ一人の騎士の名が溢れる。


 以前。もう記憶の底に沈めた昔。
 騎士の名誉のために、逃げたことがあった。
『わたしを不名誉な騎士にするな』と懇願され、命令され、騎士リィを置いて逃げた。
 あの時は、それが正しかった。

 でも今は。

 今は違う。

 今は騎士を護れなかった騏驥になりたくない。
 そんな不名誉な騏驥になりたくない。

 騎士に誇りがあるように騏驥にもそれがあるのだと——。
 シィンが教えてくれたから。

 彼が。
 あの人が。

 
「シィン様——」

 ダンジァは再び彼の騎士の名を——ただ一人の特別な騎士の名を呼ぶと、きつく剣を抱きしめた。
 今ここにいない彼を、いても決して触れられない彼を、抱きしめるかのように。

 シィン様。
 貴方は、毒に苦しみ、苦しい息のもとでも自分を庇ってくださった。
 その御恩に——いいえ、全ての御恩に、自分はまだ何ひとつ報えていないのです。

 どうか——。
 どうか今一度無事なお姿を。

 どうか。
 どうか自分に、貴方への恩返しの機会を。
  
 そしてもし叶うなら。
 もう一度、自分とともに——。


 強く強く願いながら宝剣を抱くダンジァのその額が、こつん、と柔らかく、つかに——柄頭に触れる。


 ——そのときだった。


「!?」


 ヴゥン……と低く唸るような響くような音がしたかと思うと、剣が光を帯びる。
 まるで光を纏っているように。光を生み出しているかのように。
 まるでその身に光を宿しているかのような——シィンのように。

 彼の鞭と揃いの剣は、今まさに彼そのもののように光を宿し、まるで何かを呼ぶように——何かに引き寄せられるかのように低く唸りを上げ続けている。

「な……」

 ダンジァは驚きの声とともに腕の中の剣を見つめる。
 改めて両手で捧げ持てば、光が、力が掌から流れ込んでくるかのようだ。
 掌が熱い。身体が熱い。
 柄頭に触れた額が熱い。
 
 そこは、ダンジァの””の場所——。


「——!!」


 ダンジァは即座に馬の姿に変わると、剣を咥えて再び駆ける。

 額が疼く。
 鼓動のたびに。剣の唸りを感じるたびに。

 会う。
 会える。
 必ず。
 絶対に。

 絶対に——シィンに。

 剣に導かれるように、ダンジァはシィンの元へと無心に駆けた。

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