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93 解放
しおりを挟む自分に、ひいてはシィンに汚名をきせようとするような——もしくはシィンを傷つけようとするようなことを、いったい誰が。
(…………)
許せない。
ぎゅっと拳を握りしめるダンジァの耳に、切れ切れにユェンの言葉が届く。
「本当は、すぐに厩舎に戻っていいって言われてたんだよ。僕のところにやってきた伝令にはね。でもどうせならきみと一緒がいいかと思ってさ。無理言ってきちゃったんだ。きみには別に報せが来るはずだけど……まあいいよね、このぐらいはさ。何もしてないのに疑われて、結局本選にも出走できなくなっちゃってさ。出れば絶対優勝だったのに……」
不満が溜まっていたのだろう。ユェンは唇を突き出すようにしながら言う。そのまま背後の衛士たちを見やると、彼らは気まずそうに目を逸らす。
ユェンはふうっと息をつくと、ダンジァの腕を掴んで言った。
「さ、帰ろう。そういうわけだから、誰にも文句は言わせないよ」
「……ぁ……あの、殿下は……」
だがダンジァは、すぐに動かなかった。もちろんすぐにここから出たい。帰れるものならすぐに厩舎に、慣れたあの場所に戻りたい。
けれど——自分のことよりも気がかりなことがある。
と、ユェンはゆっくりと首を振った。
「殿下のご容態については、僕も何もわからないんだよ。こちらから尋ねるのも憚られるし……」
「…………」
「ただ、大会はなんとか予定通りに終了したみたいだから……」
ユェンは言葉を濁すが、つまりそれは「シィンの容態は不明だが、おそらく最悪の事態にはなっていない」という事なのだろう。
大会の滞りのない進行と無事の終了がシィンの希望で、そのためにウェンライたちも事件をなるべく内々に収めようと努めていた。とはいえ、流石に薨御されるような事態になれば、そうも言っていられないに違いない。
どんなふうに閉会したのかはわからないが、取り敢えず大会が終わったのであれば、シィンは今も医館で治療中ということだ。
だとしたら……。
——お側に行きたい。
ダンジァは強く思った。
医館に立ち入ることは許されなくとも、せめて近くに行きたい。扉の前まででも、医館の側まででも。
「あ——あの、ユェンさん」
シィンは腕を掴むユェンの手を取りながら言った。
「自分は、まだ厩舎には戻りません」
「え!?」
「殿下のお側にいたいと思うのです。なので、医館に……」
「でも」
「わかっています。自分がいたところでお役に立てるとは思えません。でも……」
でも。
でも側にいたい。
込み上げてくる想いをなんとか堪えるように、ダンジァは唇を噛む。
ユェンは眉を寄せていた。
「気持ちはわかるよ。わかるけど……けど……許してもらえるかな。言っただろ? 取り敢えずここから出られることにはなったけれど、完全に自由の身ってわけでもないみたいなんだ、って。新しく疑わしい者が現れたといっても、僕たちもまだ疑われてる。サイ師が交渉してくれたから厩舎には戻れるようになったけど、好き勝手に動けるわけじゃないよ。しかも、ここは王城内だし……」
「…………」
サイ師のことを持ち出され、ダンジァの胸が痛む。
確かに、自分の迂闊な行動で師にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないだろう。厩舎に戻れるようになったことにはホッとするが、それは言い換えれば自厩舎で大人しくしていろ、ということでもあるのだ。
まだこれから話を聞くこともあるかもしれないのだから、そこにいろ、と。
だが……。
懊悩するダンジァの腕に、再びユェンの手が触れる。
「……ダンジァ、今日のところは戻ろう。ね?」
「……」
再び言われても、ダンジァは動けない。
頭ではわかっている。
けれど気持ちが——心が。
今日のところは、とユェンは言うが、明日どうなるのかなどわからないのだ。
シィンは加護の魔術を受けているとはいえ、ツェンリェンによれば、それはすぐさま死ぬことはない、ということ。つまり「それ以外」の何が起こるのかはわからない。
今回だって、毒の種類がすぐにはわからなかったために、処置が遅れてしまった。それが悪く影響する可能性だってあるだろう。
悪い想像はしたくないし、回復すると信じている。医師や薬師たちも懸命に治療してくれているに違いないから。
けれどさっきまで話していたシィンが不意に崩れ落ちる瞬間を経験してしまったダンジァにとってみれば、「明日も無事」の保証などもう無くなっている。
それは自分自身も体験したことだ。
信じられないほど辛い目に遭うことも、信じられないほどの幸せに遭遇することも、一秒前まで予想なんかできなかった。
だが。
「ダンジァ、戻ろう」
声とともに、ダンジァの腕が、ぐっと掴まれた。
はっと見れば、ユェンがじっと見つめてきていた。
「戻ろう、ダンジァ。いや——連れて帰るよ。きみの体調管理と安全管理を任されている厩務員として、これ以上きみの勝手にはさせられない」
「!」
その顔は、厳しく、けれど騏驥への愛情を感じさせるものだった。
誰かに迷惑をかけるから、という理由からではなく、こちらの身を案じてそう言ってくれていることが伝わってくる顔だ。
確かに、自分はユェンにそう思わせてしまう顔をしているのだろう。
心労と疲労で、本当ならすぐにでも自分の馬房に戻って何も考えずに眠りたい状態なのは確かなのに、神経だけはやけに冴えている。不自然さは、なんとなく自分でもわかっているから。
薬の影響もあるのかもしれない。
シィンが飲んだ毒——騏驥用の薬は、おそらくダンジァも口にしてしまっているはずだ。
しかも、ドーピング剤。体調や能力を一時的に無理に良くするための薬なんて、普段のダンジァには不要なもので、だから今まで一度たりとも口にしたことなどない。
ある意味、ダンジァにとっても毒のようなものだ。
そんなものを摂取してしまい、今の自分がどうなっているのか……。
だがそれでも——自分の体調よりシィンのことが気がかりで……だから……。
しかしユェンのことを無碍にすることもできない。
この大会中、ずっと世話になっていたのだ。それにわざわざこうして伝えに来てくれて……。
迷いに迷い、悩みに悩み、ダンジァが困り果てていると、そのとき、再び、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。
「——ダンジァ——ぁ……」
見覚えのある顔がやってきた。
彼はダンジァを呼びながら部屋に入ってきたが、ユェンがいるとは思わなかったのだろう。そこにもう一人いたことに驚いたように目を丸くすると、直後、ふっと破顔した。
改めてダンジァを見つめてくると、
「その様子だと、もう話は聞いたのかな」
そう言って苦笑する。
それは、おそらくダンジァにここを出られる事を伝えに来た——シュウインだった。
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