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83 騏驥の決意

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 離れたくない。そう——離れたくないのだ。
 シィンと。
 自らを信じてくれた無二の騎士と。
 もう二度と。
 
「……離れたくありません……」

 ダンジァはシィンを抱きしめて繰り返す。
 
 離れない。離したくない。
 


 彼はわたしの騎士。
 彼だけがわたしの騎士だ。
 そしてわたしは彼の騏驥。
 彼に命じられるまで、わたしは彼から離れない。
 もしくは——たとえ命じられても。

 

 そう固く決意するダンジァを見下ろしてくるツェンリェンの視線は、今まで知っていた彼のそれと別人のようだ。信じられないほどに鋭く恐ろしい。
 王子を護らんとする騎士の目だ。そしておそらくは、大切な友人を護ろうとする者の目なのだろう。

 だがダンジァも怯まなかった。
 息を詰め、一歩も譲らず見つめ返す。
 
 絶対に離れない。
 自分に命令できるのはシィン様だけ。

 その気持ちだけで。


 部屋の空気が張り詰め、薄くなるかのようだ。皆、成り行きを見守っているからなのか、物音ひとつしない。
 一体どれほどそうしていただろうか。
 
「っ……」

 先に息を吐いたのは、ツェンリェンの方だった。
 彼はふうっと息をつくと、小さく肩を竦めてみせた。

「強情だな。まったく……時間がないというのに」

「……」

 ダンジァはぐっと言葉に詰まった。それは確かにそうなのだ。シィンの容体を思えば、ここで揉めている場合ではない。

(でも……)

 でも、離れたくない。自然とシィンを抱きしめる腕に力をこめてしまう自分の勝手さに眉を寄せたときだった。
 
 ツェンリェンが小さく苦笑したかと思うと、彼は医師や衛士たちを振り返り、言葉を交わす。ほどなく、医師と数名の衛士たちが部屋を出て行く。
 連れて他の衛士たちも、整然と部屋を出ていく。残ったのは医師一人と、衛士数人だ。

 いったい、何が?

 戸惑うダンジァに、振り向いたツェンリェンは言った。

「医師たちをここに連れてくる。薬師たちもやってくるだろう。症状を調べるための諸々の機材も運び込む。一時的に……簡易だが、ここを医館代わりにする。だからお前はしっかりと殿下のお側についていろ。……いいな」

「!」

 思わぬ言葉に、ダンジァは瞠目する。直後、お礼を言おうとしたダンジァにツェンリェンは「礼には及ばない」と言うように首を振ってみせた。

「これから、ここの調査をして真犯人を捜索することを考えれば、医館に運ぶよりも、却ってここに留め置く方が安全だろうと判断したまでのことだ。医館にも警護をつけるつもりだったが、あそこは場所柄人の出入りが多い。どんな輩が紛れ込んでくるかわからないからな」

「…………」

 ツェンリェンの言葉に、ダンジァは息を呑む。

 そうだ。そもそも、ここだって本来なら安全なはずの場所だったのだ。競技大会の、騏驥たちの控室。騏驥も騎士もリラックスして本番までの時間を過ごす場所。……それなのに。

 ダンジァは思い出して眉を寄せる。
 そこで、はっと気になった。

「あ……あの、ですが殿下は大丈夫なのですか? ここで……その、ご容体やお命は……」

「もちろん処置が早いに越したことはない。が、幸い殿下は加護の魔術を受けられている。病状がどの程度なのかはともかく、よほどのことがない限り、即座に命を落とされるようなことはない」

 でなければ、お前とここで押し問答などしていない。

 そう言うツェンリェンに、ダンジァは「申し訳ございません」と謝るしかない。
 気持ちはどうやれ、ダンジァのやったことは騎士への反抗だ。ツェンリェンは強硬手段を取ることだってできた。それなのに彼はダンジァの意思を尊重してくれて……。
 感謝を噛み締めるダンジァの前で、彼は穏やかに目を細め、口の端を上げる。そして、呟くように言った。

「殿下は良い騏驥と出逢われたものだ」

 その声や表情は、見慣れた彼のものだ。ダンジァもいくらかほっとする。
 だが、ツェンリェンはこちらの気持ちを慮ってくれたとはいえ、事態が好転した訳ではないのだ。
 今のツェンリェンの言い方を極端に言い換えれば、はっきりわかっていることは「即死は免れた」ということでしかない。
 今すぐ命が危ないというわけではない——ということは、逆に言えばそれ以外はわからない、ということなのだろう。

(あんなに、血を吐かれていたし……)

 その跡も生々しい床を見つめ、眉を顰めると、ダンジァは思う。ダンジアが纏っている服も、あちこちにシィンの零した血がこびりついている。
 血の気の失せた顔、今までとはまるで違う、力のない瞳。弱々しかった手……。
 思い出すと、まだ胸が痛い。
 
 それに、さっきシィンを診た医師は、毒の質がわからないと言っていた。急に呼ばれて急に診ただけとはいえ、城の医師が「詳しく調べなればわからない」というような毒が使われたのだ。だとしたら……この後シィンがどうなるのかも、またわからない……。

 毒の質が判明して毒消しできればいいが、もし——万が一それが叶わなかったら……。

(いや。——いや)

 大丈夫だ。きっと。
 ダンジァは、ゾッと背中が冷たくなったのを打ち消すように首を振ると、自分を安心させるように言い聞かせる。
 床に座ったまま、抱き抱えているシィンの手をぎゅっと握った。
 城の——医館の医師や薬師に任せれば大丈夫だ。彼らは医師や薬師たちの中でも特に優秀なものたちのはずなのだから。

 部屋に残った数人の衛士たちがあちこちを調べ始めている中、ダンジァはぐるぐると考える。すると、

「さて——」

 ツェンリェンが、そんなダンジァに向けて言った。

「では改めて事情を聞——」

 しかし、彼がそう続けようとした寸前。

「まったく——」

 その声を打ち消すように、どこからか声が響いた。
 驚くダンジァの耳に、声は続く。

「なにを悠長なことを。さっさとその騏驥を締め上げて話を聞き出すべきでしょう。いちいち甘いのですよ、あなたは」

 あたりを見回すダンジァの目に映ったのは、ゆらりと立ち上がった”あの女性”の姿。気を失って壁際で休んでいたはずの女性は、今、不機嫌も露わな様子で乱れた髪を掻き上げながら、こちらを睨みつけている。
 ダンジァを。そしてツェンリェンを。
 
 そして、ふん、と鼻を鳴らして大股に近づいてくる女性に、ツェンリェンが苦笑する。
 女性?

 否。
 その姿はまごうことなくシィンの補佐官——ウェンライだった。

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