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78 暗転

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 シィンは「なんでもない」と言いかけ、しかしそこで、ふっと先刻のツェンリェンの言葉を思い出した。


『わたしたちが部屋を出た後には、きちんとあの騏驥に話をしておかれますよう』
『わたしの連れのことです』

「…………」

 彼がどうして急にそんなことを言い出したのかはわからない。
 わからないけれど、彼はいつも側にいて、最近のシィンのことも、シィンとダンジァのことについても”それなりに”詳しく知っている。
 そんなツェンリェンが「話しておいた方がいい」と言うなら、話した方がいいのだろうか。

「……ダンジァ」

 シィンは少し考えたものの、他に話すこともなく、しかしまだここを去りたくなくてダンジァを呼んだ。そろそろ戻らなければとは思っているものの、まだダンジァと碌に話せていない。せめてもう少し彼といたかった。
 それに、この話なら彼も興味があるだろう、と思って。

 シィンの声に、ダンジァは「なんでしょうか」と応じてくる。
 さっきよりもさらに柔らかな対応だ。元の彼に戻ったような、シィンの好きな彼に戻ったような。

(やはりさっきまでの妙な様子は、レース後のせいだったのだな……)

 シィンは安堵しつつ、残っていた飲み物を干して喉を潤すと、「話しておくことがある」と笑顔で続けた。

「さっきここにいた者のことだ。ツェンリェンと一緒にいた……。お前も見ただろう?」

「…………はい」

 ダンジァの返事が微妙に遅れる。思い出そうとしているのだろうか。シィンは続けた。

「大事なことなので、お前にも話しておいたほうがいいと思うのだ。あれは——」

「シィンさま」

 途端、シィンの声に被せるようにしてダンジァが声を上げる。らしくない荒い声。そしてらしくない無礼だ。
 驚き、目を瞬かせるシィンに、ダンジァは思い詰めたような厳しい顔で続けた。

「そのお話は……できれば、しないでいただきたいのです。せめて、今は」

「……!? どういうことだ?」

「し、失礼な申し出であることは承知致しております。ですがどうか……」

「そんなに大層な話ではない。あれは、」

「聞きたくないのです!」

 改めてシィンが説明しようとした寸前、ダンジァは声を荒らげて叫ぶ。
 刹那、部屋中の空気がピンと張ったような気がした。
 部屋には他にも同じように待機中の騏驥がいる。彼らもきっと驚いただろう。それほどこの場に似合わない、そして彼に似合わない大声だった。

 もちろん、シィンに対して向けていい声ではないし態度でもない。
 まるで怒鳴るようにして言われ、そんな経験のないシィンは唖然としてしまう。

 今のダンジァの行為は、相手が王子ではなくとも、騎士相手というだけで十分以上に不敬と取られかねない行為だ。「何かの弾みで思わずやってしまった」としても見逃されることではないし、謝ったとしても許されることではない。
 罰され、躾直されるべき行為。

 けれどダンジァは、自らの行為が「そう」であると知っているだろうに、硬い表情のまま頭一つ下げようとはしない。賢く礼儀正しい彼ならば今の行為がどういうものなのか分かっているだろうに、謝罪もせず、そして言い訳をしようともしない。
 ただ——。ただ苦しそうに辛そうに悲しそうに、きつく眉を寄せ、唇を噛み締めている。

「ダンジァ、お前、いったい……」

 今までとは全く違う彼の様子。
 さすがにこれはレース後だからという理由だとは思えない。
 シィンが眉を寄せ、「何があった?」と尋ねかけたとき——。

「!?」

 発そうとしたその声が、喉の奥に絡まる。
 思わずそこに触れた、次の瞬間、

「っ————」

 胸の奥から焼けるような熱が一気にせり上がり、止める間もなく口から溢れた。
 ゴボッ——と嫌な音を立てて、鮮血が迸る。
 それは手で押さえても止められず、咽せるたびゴポゴポと溢れ出ていく。指の間から滴るほどの血量だ。桌に、袖に血が滴り、服が、床が赤く染まっていく。

「殿下!?」

 傍のダンジァが狼狽の叫びを上げる。
 咄嗟に身体を支えられ、シィンは「騒ぐな」と言おうとしたが声にならない。
 それどころか、再びこみ上げてきた生暖かなものが、後から後から口の端から溢れ落ちていく。
 一層濃くなる血の匂い。
 目が霞む。

 毒だ。

 混濁し始めた意識の中で、シィンはそれだけを感じていた。

 毒だ。
 

 でもどうして。
 たびたび命を狙われ、だからこそ自分は大抵の毒に耐性があるはずだ。なのにどうして。
 どうして。
 誰が——。


「殿下!! 殿下! シィン様!!」

 ダンジァが繰り返し叫んでいる。
 異変を聞きつけたのか、周囲から人が集まってくる。
 座っていられず、傾ぎ、そのまま床に崩れ落ちそうになった身体が、その寸前で辛うじて抱き止められる。
 床に跪くダンジァに抱きかかえられながら、シィンは苦しい息の元、それでも薄く微笑んだ。

 力強い腕は相変わらずだ。守られているような心地よさは、苦しさをいくらか和らげてくれる。だがその気持ちが、伝わったかどうかわからない。

「シィン様!! しっかりなさって下さい! 今、人を呼んでいます! 殿下! シィン様……っ——!!」

 ダンジァは端正な貌を大きく歪め、悲鳴のような声でシィンの名を叫び続けている。
 シィンは彼を安心させたくて、大丈夫だ、と言いたかった。けれど、胸の奥が爛れたように熱くて、身体が熱くて痺れたように舌が動かない。息が苦しくて、頭が痛くて指一本思うように動かない。
 耳の奥が煩い。自分の呼吸の音が煩い。鼓動の音が煩い。周囲から響く足音が煩い。頭が引き絞られるように痛い。

「シィン様——!!」

 繰り返し名を叫び続けているダンジァの腕の中、シィンの意識はそのままふっと途切れた。

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