上 下
76 / 157

74 偶発(3)

しおりを挟む



 その声に、シィンもはっとそちらを見る。
 するとそこには、ずっとずっとここに戻ってくるのを待っていた彼の騏驥の姿があった。

(ダン……!)

 シィンの胸が高鳴った。

 汗を流して着替えた彼は、レース後の疲労と神経の昂りがまだ余韻として残っているのか、どことなく気怠いような——それでいていつになく野性味のある、滅多に見ない風情だ。
 普段の彼の大人っぽく知的な様子に獣の気配が混じっているというか……雄の色香が際立っているというか。

 とにかくやけに艶かしく、目にした途端、シィンは鼓動が早まるとともに自身の背にぞく……と甘い震えが走ったのが分かった。
 圧倒的に強く、また端正な姿体を誇る雄々しい獣。
 彼の腕にきつく抱きしめられたときの眩暈がするような幸せな苦しさを、シィンはとてもよく知っている。その身体の重みも体温も香りも——口の中の熱さまで。

(…………っ……)

 人のいる場所で——それも特に親しい者たちだけというわけでもない公の場所で、しかも自身が主催の大会開催中のまだ明るいうちから不埒な記憶に浸ってしまい、シィンは慌てて頭を振ってその妄想を打ち壊す。

 そして改めてダンジァを見たが、彼はなんだか困っているような戸惑っているような……腰が引けているような様子だ。
 らしくもない。

 それにどうしてそんなところに突っ立っているのだ。
 早くこちらに来い。

 目が合ったにもかかわらずなぜか動こうとしないダンジァの様子に、微かに眉を寄せかけ——その直前、シィンは「ああ、そうか」と理解してツェンリェンに目を向けた。

 ……あっちに行け。

 視線で、彼に伝える。

 邪魔するな。

 しかしツェンリェンはそれに気づいていながら、動こうとしない。
 人の心の機微に敏感で、シィンに対しては特に気を回す彼にしては珍しいことだ。
 彼は、いまだ動こうとしないダンジァを見つめたまま微かに目を眇めると、やがて、改めてシィンを見つめてくる。

「……殿下」

 顔を寄せ、声を落として早口で言った。

「……なんだ。さっさとあっちに行け」

 同じように早口でシィンも応える。
 お前たちがいるからダンジァがこちらに来ないじゃないか——とは口に出さないものの、視線に込めて。
 と、ツェンリェンは存外真面目な声音で言った。

「行きます。ですが一つ。わたしたちが部屋を出た後には、きちんとあの騏驥に話をしておかれますよう」

「『話』? なんの話だ」

「わたしの連れのことです」

「??? なぜだ。彼には関係のないことだろう」

 言いながら、シィンはツェンリェンの「連れ」に目を移す。相変わらず扇で顔を隠したその姿は周囲を拒絶しているようでもあり、掴みどころがない。

「それに、”彼女”は自分のことを無闇矢鱈と話されたくないのではないか?」

「それは……」

 ツェンリェンが口籠る。
 二人の会話が聞こえているのかいないのかはわからないが、当の「連れ」からの声はない。
 その事実から、シィンはもう話は終わった、と判断すると、

「とにかくもう——いいからお前たちは早く出て行け!」

 慌ただしく二人の背を、肩を、腕を押し、一秒でも早くこの場から去らせようと試みる。ユェンが慌てたように道を開けるなか、早く早く早く——と、ほとんど追い立てるようにして二人を退かせると、シィンはふう、と息をついて改めてダンジァを見た。

 少し時間を経たからか——それとも見慣れたからなのか、その佇まいに先刻ほどの衝撃はない。が、ドキドキさせられることには変わりない。

 特別な、わたしの騏驥。

 シィンはダンジァを見つめる。

 が——。

 そこで微かな違和感を覚えた。
 なんとなく、彼の表情がいつもと違う気がしたのだ。レースの後だからではなく、なんとなく……浮かないような、もっと言えば苦しそうなそれ。

 それに、どうして彼はこちらに来ない?
 側に来ない?
 ユェンはいるにせよ、他にはもう誰もいなくなったというのに。

「……ダンジァ……?」

 何を気にしている?
 シィンは引っかかりつつも、とにかく側へ、と騏驥の名を呼ぶ。

 ダンジァは近づいてきたものの、その視線は彷徨い、シィンをしかと見つめることはなかった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

人気アイドルになった美形幼馴染みに溺愛されています

ミヅハ
BL
主人公の陽向(ひなた)には現在、アイドルとして活躍している二つ年上の幼馴染みがいる。 生まれた時から一緒にいる彼―真那(まな)はまるで王子様のような見た目をしているが、その実無気力無表情で陽向以外のほとんどの人は彼の笑顔を見た事がない。 デビューして一気に人気が出た真那といきなり疎遠になり、寂しさを感じた陽向は思わずその気持ちを吐露してしまったのだが、優しい真那は陽向の為に時間さえあれば会いに来てくれるようになった。 そんなある日、いつものように家に来てくれた真那からキスをされ「俺だけのヒナでいてよ」と言われてしまい───。 ダウナー系美形アイドル幼馴染み(攻)×しっかり者の一般人(受) 基本受視点でたまに攻や他キャラ視点あり。 ※印は性的描写ありです。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

俺がイケメン皇子に溺愛されるまでの物語 ~ただし勘違い中~

空兎
BL
大国の第一皇子と結婚する予定だった姉ちゃんが失踪したせいで俺が身代わりに嫁ぐ羽目になった。ええええっ、俺自国でハーレム作るつもりだったのに何でこんな目に!?しかもなんかよくわからんが皇子にめっちゃ嫌われているんですけど!?このままだと自国の存続が危なそうなので仕方なしにチートスキル使いながらラザール帝国で自分の有用性アピールして人間関係を築いているんだけどその度に皇子が不機嫌になります。なにこれめんどい。

魔王の下僕は今日も悩みが尽きない

SEKISUI
BL
魔王の世話係のはずが何故か逆に世話されてる下級悪魔 どうして?何故?と心で呟く毎日を過ごしている

【完結】片想いを拗らせすぎたボクは君以外なら誰とでも寝るけど絶対に抱かれない

鈴茅ヨウ
BL
亀山瑠色(かめやま・るい)は、親友に10年、片想いをする22歳。 ≪誰とでも寝る≫を公言して憚らないが、誰にも抱かれる事はない、バリタチ。 ただ一人、親友の双子の弟だけが、瑠色が誰かに抱かれる事を絶対に嫌がる理由を知っていた。 ※性描写があからさまですので、苦手な方は御注意ください。 2018.10.4 第一部完結

市川先生の大人の補習授業

夢咲まゆ
BL
笹野夏樹は運動全般が大嫌い。ついでに、体育教師の市川慶喜のことも嫌いだった。 ある日、体育の成績がふるわないからと、市川に放課後の補習に出るよう言われてしまう。 「苦手なことから逃げるな」と挑発された夏樹は、嫌いな教師のマンツーマンレッスンを受ける羽目になるのだが……。 ◎美麗表紙イラスト:ずーちゃ(@zuchaBC) ※「*」がついている回は性描写が含まれております。

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(10/21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。 ※4月18日、完結しました。ありがとうございました。

処理中です...