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71 圧勝(2)
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レース後、ダンジァたちと別れ、着順確定の証明証に署名を終えたシィンは、以前も訪れた部屋に——予選レースまでダンジァたちが待機していた場所にやってきていた。
驚いた顔を見せるユェンをよそに、勝手知ったる場所とばかりに椅子に腰をおろし、備えられている飲み物を飲みながら、今か今かとダンジァの戻りを待っていた。
汗を流して着替えたら、きっとここへ戻ってきて、また本戦までの時間を過ごすだろうと見越してのことだ。
下馬してからというもの、彼と会えていない。
人の姿の彼とは言葉を交わせていない。だから早く顔を見て声をかけたかった。
と——。
「あ、あの……殿下……。御席にお戻りにならなくて大丈夫ですか……?」
そんなシィンに、傍から控えめに声がかけられる。
今日はダンジァの厩務員である、調教師のユェンだ。
彼はシィンが目を向けると、声をかけておきながら、戸惑うような顔を見せる。
慄くような、もっと言えば怖がっているような表情に、シィンは小さく苦笑した。
「……なんだ、そんな引き攣ったような狼狽えたような顔をして。わたしはお前を見ただけだぞ」
「は……」
「そう畏まるな。お前たち調教師は、ある意味、騏驥にとっては『親』や『身内』のような者だろう。彼らと騎士を繋ぐ大切な立場なのだ。威張る必要はないだろうが、もっと堂々としていろ」
「…………」
「こういう場にも、騎士相手にも慣れておけ。サイ師がまた観客の一人に戻られた今はなおさらだ。——そしてお前の質問に答えるなら、『大丈夫、ではない。が、大丈夫だ』」
「!?」
シィンの言葉に神妙な顔で頷いていたユェンが、最後の最後で「え?」という顔をする。シィンは笑いながら続けた。
「戻った方がいいのは当然だ。予選の騎乗が終わって、本戦のレースに乗るまでの間、わたしと話したがっている者は多い。わたしも、話を聞いておきたい者が幾人かいるからな。だが……」
シィンはひとつ、言葉を切って続けた。
「だが、それよりも先にダンジァの顔が見たいのだ。レース後は、残念ながらまだ人の姿の彼に会えていない。スタンドに戻る前に、貴賓室に戻る前に、わたしは彼に会っておきたい」
そう。会って、まず何より「よくやった」と労いたい。
立派だった、と、期待通りだった、と、それ以上だった、と。
シィンはレースを思い出し、うんうんと胸の中で頷く。
本当に——本当に素晴らしい走りぶりだった。
彼の優秀さは、既に調教の時からよく分かっているつもりだった。
雄大な体躯を存分に生かした伸びやかなストライド。それは速さと安定感を兼ね備え、乗っていて不安を感じたことが一度もなかった。
しかも一完歩一完歩に知性が感じられるのだ。
「とにかく速く」という獣の本能を感じさせると同時に、その一方で、どこをどう走ればより速くより安全にいられるかといった細心の注意の深さを感じさせられ、その完成度の高さに感激したものだった。
早く走るだけなら獣だし、考えるだけなら人だ。
彼は、その両方の美点を見事に兼ね備えていた。ある意味、騏驥という「馬であり人である」特殊で特別な生き物の理想とも言えそうな状態で。
だから、この本番でも彼に全て任せることに一切不安はなかった。
もともと気性はいい騏驥だし、馬場に入るまでも入ってからも概ね落ち着いていたから(ちょっと煽られて動揺したのはご愛嬌だろう。初めての大会で他の騎士や騏驥から牽制されて、なのに全く動じなかったら「やる気があるのだろうか?」と、そっちの方が不安になる)、彼の好きなように走らせても大丈夫だろう、と。
だが……まさか。
まさかあれほどの結果を出すとは思っていなかった。
シィンは思い出す。
いいスタートを切ってすんなりと先頭に立って。
それからというもの、シィンはただの一度も他の騏驥の足音を聞くことはなかったのだ。
振り返らなかったから正確なことはわからないが、走るほどに後続との距離が開いていただろう。
しかも、序盤からそれだけ速いペースで駆けていても、不思議なほど不安を抱かなかった。
最後まで脚が保つのだろうか、とか途中で失速しないだろうか、とか、この速さで走っていて待ち受ける仕掛けを突破できるのだろうか、とか。
そんな不安をまるで抱かなかった。
彼に乗っていれば大丈夫。この手綱で繋がっていれば大丈夫。何があっても——。そんな風に強く思えたから。
(……気持ちがよかったな……)
シィンはふっと目を閉じて先刻のひとときを想う。
乗っている騏驥を心から信頼して、全て預けてその背の上で風を切ることがあんなに気持ちのいいものだったとは……。
知っていたつもりだったけれど、知らなかった。
今までも良い騏驥に乗ってきたと思う。
王子という立場から、また「一番」を望んでいたことから、選りすぐりの騏驥を紹介され、また選び、乗る機会に恵まれていたと思う。幸いなことに他の騎士たちよりも。
それでも。
これほどの気持ちの良さは感じられなかった。
もっと言えば、彼に乗っていた時もこれほどまでではなかったのだ。調教の時は。
——実践向けなのだ。
彼は。
シィンはダンジァのレースぶりを思い出し、ひとりごちる。
正直なところ「任せる」と言いはしたが彼なら大人しいレース運びをするのではないかと予想していた。冒険はせず、確実に勝つような作戦を取るのでは、と。
賢い騏驥だし、なんとなく性格的に堅実な方法を選びそうな気がしたのだ。
それなのに。
シィンは思い出してゾクゾクするような心地に囚われた。
なのに初手からあんなに飛ばしていくなんて。
泥濘でも一切怯まず、岩を越える時も蹴り割らんばかりの勢いだった。スピードを落とす気などまったくないかのように。
放たれた数多の鳥たちの中にも恐れもせずに突っ込んで……。
むしろシィンの方がその羽ばたきの煩さに閉口したほどだ。
結果——かつてないほどの記録での勝利となって……。
(素晴らしい騏驥だ……)
あの大胆さを思い返すと、その度唸ってしまう。
控えめで大人しく賢い騏驥だとばかり思っていた彼が、あんな野性味を——情熱的な一面を隠し持っていたとは。
いや。思い返してみればその片鱗は随所に見られていたのかもしれない。
決して気性にムラがあるわけではないし衝動的なわけでもないが、ただ大人しく忠実なだけの騏驥ではないのだ。
思い返せば、出会った時からそうだった。
なんだかんだ言っても、こちらが「変われ」と言うと潔く従った。こっちの正体も知らないまま、けれど怯みもせずに。
胸章を守ろうとした時も、剣を返上すると言い出した時もそうだ。
彼は大人びているようで、落ち着いているようで、胸の中に確かに熱いものを持っている。炎を持っている。
自我を。ただ従うだけではない、確かな強さを。
ただ——きっと、それを知る者はごくごく少ないのだろうけれど。
それを想像して、シィンは我知らず笑みを浮かべる。彼の秘密を知れたかのよう気分は、やけに気持ちを高揚させる。乗ったものにしかわからない——それも実践や本番といった特別の状況をともにしなければわからない——近づいた者にしかわからない、秘められた彼の姿。
それを知ることができたと思うと。
しかも、走り終えた彼は大して息も乱していなかった。
何から何まで優れているとしか言いようがない。
レースの一つ一つを思い出し、シィンはその甘美な余韻に浸る。
早く、彼に会いたい。会って顔を見て、目を見て「素晴らしかった」と伝えたい。本選も同じように共に頑張ろうと伝えたい。
そして、叶うならその後も……。
(なんとか、ならないだろうか)
シィンは桌に頬杖をついて思案する。
なんとかしてダンジァを手元に置き続けることはできないだろうか。
予選で既にずば抜けた結果を出した騏驥だ。このまま本線でも際立って目立った結果を出したなら、それを理由にしてなんとか自分の騏驥として留め置けないだろうか。
なんとかして、無理を通すことはできないだろうか……。
暗黙の規則を破らんとすることに葛藤がないわけではない。
でも。でも……。
シィンはふーっと長くため息をつく。
いつも心の中に引っかかっているから、時間があればつい考えてしまうが、今はそれよりもまずダンジァに会うことだ。
早く——早く。
(早く帰ってこい——)
勝手に待っている身でなんだが、焦れてきてしまった。
いっそこちらから探しに行こうか?
しかしすれ違いになってしまっては……とシィンが顔を顰めたとき。
「殿下、予選の通過おめでとうございます」
聴き慣れた、しかし待ち焦がれているダンジァの物ではない声が聞こえる。
目を向けると、柱を回り込むようにしてツェンリェンが姿を見せる。
満面の笑み。
その片腕は、恥じらうようにしきりに扇で顔を隠そうとしている佳人の腰をしっかりと抱きしめていた。
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