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70 圧勝
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「おめでとう」
「お疲れ」
すれ違う騏驥から次々とかけられる声になんとか笑顔で応じつつも、ダンジァはまだどこか夢の中にいるようだった。
走り終えて、着順も確定して、鞍を外してもらって、クールダウンのために引き馬の形でしばらく歩いて、薬物検査用の体液を提出して、人の姿に変わって、汗を流して。
もうそろそろ次のレースも始まるのではというぐらい時間は経ったはずなのに、気持ちはまだぼんやりして、そして身体はまだ興奮に火照ったままだった。
さっぱりして着替えたこの後は、午後の本選に備えてまた待機所に戻る。
場合によってはお腹に何か入れておいた方がいいし、水分も取っておいた方がいい。ユェンに身体をチエックしてもらった方がいいかもしれないし、もしかしたら横になって休んで体力を回復した方がいいかも……。
その流れは頭では分かっているけれど、足元はふわふわしたままだ。
ユェンが待つはずの待機場所に戻る道中、シィンは胸の中の熱を逃すように大きく息をつく。そうしている間も、顔見知りの騏驥から「おめでとう」と声をかけられた。
中には「すごかったな」と興奮したような口調で言ってくる者もいる。
ダンジァは、そんな彼ら/彼女らに「ありがとう」と笑顔で返事をする。
が、興奮はなかなか治らず、とうとう、はた、と足を止めた。
近くに用意されている冷えた水の入った玻璃をひとつ取ると、そのまま、一気に煽る。
やっぱり喉が渇いている。自分で思っているよりずっと。でもそれは走った疲れのせいだけじゃない。まだ昂っているからだ。
もう一杯水を飲み、そして三杯目の水を手にしたまま、ダンジァはぼんやり思う。
……気持ちがよかった。
とにかく気持ちがよかった。
走ることがあんなに気持ちがいいと感じたのは騏驥になって初めてだった。
(シィン様とは調教でも気持ちが良かったけれど……)
それ以上——いや、比べ物にならなかった。
ダンジァは、噛み締めるようにはーっと息をつくと、空いている手をぎゅっと握りしめる。思うままに芝を蹴って走った感触が、その心地よさがまだこの手に、足に残っているかのようだ。
スタートして、上手く飛び出せてスッと先頭に立てて——。
それからは夢中で、ただただ走り続けた。
シィンに言われたように作戦も駆け引きも何も考えず、ただ——。
ただ彼を乗せてゴールを目指してそれだけのために。
途中、足が沈み込むほど泥濘んだ場所を駆けた時も、ゴツゴツとした大きな岩を模した幾つもの障害物を飛び越えた時も、恐れや不安など何も感じなかった。
コースの傍から突然何百羽もの鳥が放たれ、その羽ばたきに視界を塞がれるような気がした時も、背には「彼」がいると思えば何も怖くなかった。
(もっとも、シィンは羽ばたきの煩さに閉口したらしい。一着で入線して引き上げてくる最中、苦笑しながら「あれは工夫しすぎだ」とずっと言っていた)
そうして走って走って駆けて駆けて駆けて——。
ゴールを目指して走っていたはずが、だんだんと、いつまでも終わらなければいいのにと思いながら走り続けて……。
気づけば勝っていたのだ。
一番にゴールを駆け抜けて一際大きな歓声を受けていた。
走破タイムが破格の新記録。
二着の騏驥との着差が見たことがないほどの大差。
すごい。
素晴らしい。
速い。
強い。
人の姿に変わってからも周囲から口々にそう褒めそやされて、取り囲まれて賞賛された。
見守ってくれていたユェンやサイ師だけでなく、他の騏驥たちの調教師や厩務員までがダンジァを褒めた。
注目の予選だから、と見にきていた騎士たちまでもが。
それらは全てありがたく、嬉しい言葉だった。
でも。
ダンジァは空いている手で髪をかきあげるふりをして、そっと自分の頭を撫でる。首に触れる。額に触れる。
でも一番嬉しかったのは、他でもない。
走り終えた後の、シィンからの慰撫だった。
鬣を梳かれ、首を軽く叩くようにして撫でられ、下馬してからは額に落ちかかってきていた前髪を梳き上げられ、額の白い毛を撫でられた。
それは特別な行為であって同時に特別なものでなく、当然の結果を確認するかのような自然さと、そして労りに満ちていた。
乗っていた最中——レースの最中、鞭を使うどころか手綱を扱くことすらせず、彼は終始「馬なり」「持ったまま」*だった。長手綱のまま、ずっとダンジァが走るに任せていた。
[レースや調教で、追わない(鞭を使ったり手綱をしごいたりしない)で馬の走る気にまかせること。「持ったまま」ともいい、基本的には余力を十分残している状態をさす]
本当に全く何もしなかった。
彼のそんな潔さを思い返すと、今も全身が歓喜に震えるようだ。
馬なりであんなに速く走るなんて。
持ったままであんなに二着と差をつけるなんて。
みんな驚きの声で口々にそう褒めてくれたけれど、ダンジァの心に響いたのは「そう」してくれたシィンの度胸とこちらへの信頼の深さだ。
彼が信じてくれたから自分は好きなように走ることができた。この結果を残すことができた。
そう。これは自分だけの力じゃない。シィンのおかげなのだ。
彼のおかげで、自分は周囲から褒めて貰えて……。
騏驥が活躍した時は騎士の腕あってのことだと自慢し、騏驥が何か失敗したときは知らん顔をして騏驥を責める騎士だっているのに。
(幸せだ……)
ダンジァは後から後から湧き上がる想いをじんわりと噛み締める。
信頼してくれる騎士を背に、思いのまま駆けられる……。それは騏驥にとって何よりの至福の時間だ。
予選を通過できたことはもちろん嬉しい。
けれどそれよりもシィンが喜んでくれたことが嬉しいし、本選でまた彼と共に走れることが嬉しい。
ダンジァは自然と頬が緩んでしまうのを感じながら、手にしていた水を飲み干すと、待機所へ戻ろうと再び歩き始める。
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