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56 噂

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「もう大丈夫かい? 話しかけて大丈夫? もう、行った? いなくなったかな。さっきのツェンリェン様だろう? 近衛の……殿下と親しい……」

 そろそろとこちらの様子を伺うような声に、ダンジァは苦笑しつつ「はい」としっかり頷く。
 というか、別にさっきあのまま声をかけてくれたって問題なかったはずなのだ。
 ツェンリェンは確かに名のある騎士だが、ユェンだって調教師、立場では決して引けは取らないはずだし、むしろ今、この大会開催中に限って言えば、ある意味彼の方が立場が強いとも言えるだろう。
 出場騏驥の世話をすることは、つまり出走までの騏驥の体調について責任を負うことでもあるから(もちろん最終的な責任は、その厩務員に世話を頼んだ調教師に帰するが)、騎乗騎士でもない限り、彼にそう強く出られるものはいないはずだ。

 とはいえ、それはあくまで理屈の上では、という話。
 ユェンにすればツェンリェンはツェンリェン。シィンと親しい近衛の騎士、という印象が焼き付いているのだろう。
 彼はダンジァの答えを聞くと、全身から息を吐き出すかのように、はーっと大きく息をつく。
 見るからにホッとしたような顔で「びっくりしたぁ」と続けた。

「まさかこんなところできみと立ち話ししてるなんて思わなかったよ。あーびっくりした。僕、変に思われてなかったらいいけど……きみのこと大声で呼んじゃったし」

「大丈夫ですよ。それに見つけてくださって助かりました。待機所がこんなに混雑していると思わなくて……困っていたので」

「うん。思ってた以上に関係者が多いね。でもまさかツェンリェン様まで見られるとは思ってなかったなあ。こんなに近くで見たのは初めてだよ。近くで見ても格好がいいけど……でも大会に出てるわけじゃない……よね」

 首を捻っているユェンに、ダンジァは説明した。

「一緒にいた女性を案内しているのだと仰ってました。何か特別なお仕事中だったのだと……」

「ああ、なるほど」

 ふむふむ、とユェンは頷く。そして、思い出したように「こっちこっち」と先に立って歩き始める。彼が確保してくれた待機場所に連れて行ってくれるのだろう。
 
 行き交う人たちを縫うようにしてついていくダンジァに、彼は続ける。

「この大会なら、そういう『仕事』もあるのかもね。なにしろお客が多いみたいだから」

「そうなんですか?」

「そりゃあ、王子主催のこれだけ規模の大きい大会だからね。出走騏驥の応援を理由にやってきてる地方の領主様とか……開催を祝うための隣国からの使者とか……昨日の前夜祭にはいなかったお客さんたちが、とにかくたくさんいるみたいだよ」

「……」

 そうなのか。
 ただ走るだけだと思っていたダンジァにしてみれば思いがけない話だが、言われてみればそういうものなのかもしれない。
 これは騏驥や騎士のための大会だが、同時に、シィンにとっては王子として意味のある大会なのだ。

(王子として、か……)

 それを考えると、シィンと自分との立場の差を改めて思い知らされる。
 考えたところで仕方がないことだし、変わることもないのだが、彼はやはり「遠い人」なのだなと感じてしまう。
 
 でも今はそれに落ち込むのではなく、そんな素晴らしい方に乗ってもらえることは幸せなのだと——そう思いたい——。
 その通りなのだから。

 ダンジァはなるべく前向きになれるよう自分に言い聞かせる。
 だがその時、 
 
「もしかしたら、殿下の花嫁探しを兼ねてるんじゃ——なんて噂されたりもしてるしね」

 ユェンが続けた言葉が聞こえた瞬間、足がもつれた。

「っ——」

「!?  ダンジァ!?」

 何もないところでつんのめり、先を歩いていたユェンに倒れ込むような格好になってしまう。
 咄嗟にユェンが支えてくれたおかげで転ぶことはなかったけれど、騏驥であるダンジァが転びかけたことで、周囲も大きくざわめく。

「っ——ダ、ダンジァ!?  大丈夫? 脚は——」

 ユェンの狼狽えた声を聞きながら、ダンジァは自分の心臓がいつになく速く鼓動しているのを感じていた。
 転びかけたせいだろうか。それとも別の理由で?
 身体中が心臓になったみたいだ。耳の奥からどくどくと鼓動の音が聞こえている。

「ぁ……大丈夫、です」

「本当に!? ……ぁ……お、お医者さまに、み、診てもらっ……念のために——」

「大丈夫です。すみません」

 転びかけたダンジァ以上に動揺しているユェンに——そして周囲に向けて、ダンジァは「大丈夫です」と繰り返す。本番前の騏驥に何かあったのでは、とユェンだけでなく皆が気にしているのだろう。
 ダンジァは繰り返し「大丈夫です」と言うが、だが、そうしている間も心臓の音は止まない。

 花嫁探し?
 誰の?

「そんなに大層なことじゃないです。ちょっとよろけただけで……緊張してるせいだと思います」

 頭の中と胸の中は何がどうなっているのかわからないほど混乱して混線して忙しなく落ち着かないのに、ユェンを安心させるための言葉はするすると口をついて出る。

 けれど、ダンジァを見るユェンの顔は心配に引き攣り、青白くなっている。
 自分はそんなに痛そうな顔をしているのだろうか?
 そんなはずはない。脚は痛くない。
 そう。実際、ダンジァは本当に大丈夫だった。——脚は。
 捻ったわけでもないし、本当に躓いただけだ。——何もないところだったけれど。

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