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34 騏驥、案内される。そして懊悩
しおりを挟む「——というわけで、当日はこの辺りも競技会場になるんだよ。明日から設営かな。立ち入りが制限されるから気をつけて」
大会まであと五日。
そろそろ厩舎地区全体の空気も変わり、緊張感が漂い始めた頃。
ダンジァはシュウインに案内されながら、城の中を巡っていた。
本当なら、調教後はすぐに厩舎地区に戻る予定だった。元々そうしていたし、一度、城の王の騏驥たちと揉めてからは尚更そうした方がいいだろうと思うようにしていたのだが……。
その一件の後、気を使ったツォ師が、ダンジァの側にシュウインをつけてくれるようになり、今日はそのシュウインからの提案により、城のあちこちを案内されることになったのだった。
『前日から入城して待機とはいえ、大会中は城もかなり様変わりする。本番で力を発揮するためにも、不安はなくしておいた方がいい。きみは城に慣れていないから、事前にある程度経路や中のことを把握しておかないと、ヘタをすると迷う』
そんなふうに言われて。
ダンジァとしては、当初は、そうは言われても、騏驥の自分が城の中をうろうろするのは……と躊躇いを感じた。シュウインが護衛のようについてくれているとはい、いつまたどんなトラブルに巻き込まれるはわからなかったし、二度目は流石に……と思っていたからだ。
しかし同時に、大会での自分の成績や結果は騎乗者であるシィンの評判にも関わると思うと、確かに当日のために不安要素は一つでも減らしておきたかった。
なにしろダンジァは、こうした大会自体が初めてで、前日から普段の馬房を離れて、別の厩舎に入厩して待機することさえ知らなかったほどだから。
だからダンジァは、迷った挙句シュウインの厚意を受けることにした。
もし万が一また何か災難が降りかかりそうな時は迷わず逃げよう——そう決めて。
しかし幸いにして、今のところはそんな事態に陥ってはいない。問題なく城を見て回れている。むしろ懇切丁寧に案内されて、恐縮してしまうほどだった。
一度、王の騏驥たちとすれ違うことがあったが、彼らはダンジァのことは気にしていたものの、シュウインが隣にいるのを見ると、すぐに黙礼して立ち去ってしまった。
最初に会った時も落ち着いていて大人びた騏驥だなと感じていたが、やはり彼は王の騏驥仲間からも一目置かれているようだ。慕われているのだろう。
ツォ師が彼をダンジァの護衛(?)にしてくれたことに、ダンジァは心から感謝していた。
「それから……これは帰ったらサイ先生からも聞くかもしれないけれど、待機馬房の割り当ては当日——つまり大会前日に決まるみたいだから、何か希望があるなら早めに言っておいた方がいい」
競技が行われる馬場や、当日のウォーミングアップのための角馬場や下見所といった、主に馬の姿で過ごすだろう場所をぐるりと案内してくれたのち。
今度は人の姿で過ごすことが多いだろう城内を案内してくれながら、シュウインがそう話す。
今まで巡ってきたような、明らかに屋外である場所と違い、城の建物の中では、女官や衛兵や城の騎士や騎兵。係官や従者たちといった普通の人たちと次々すれ違う。
シュウイン曰く「ここは元々あまり人が多くない辺りだし、この時間は特に少ないよ。皆、それぞれの場所で仕事をしているから、わたしたちみたいに歩き回ったりしないようだから」とのことだが、普段あまり「普通の人たち」と接する機会のないダンジァにしてみれば(何しろずっと厩舎地区にいるので、会うのは自分と同じ騏驥か、でなければ医師か調教師か助手か厩務員か……という生活なのだ。女官などあの場所では絶対に目にしない)、少し歩いただけで三人、四人の「普通の人」とすれ違うここは、はっきり言って「とても人が多い場所」だ。
王の騏驥であるシュウインは「王の騏驥」である時点で「身内」だと思われているのか、一人でも割と自由に城内を歩き回れるようだし、その上、今はツォ師から借りたという通行証を身につけているから誰にも見咎められない。
ダンジァはダンジァでシィンに言われて帯びている剣が通行証がわりになっているようだし、さらにはシュウインと共にいるおかげで、同じように誰からも文句を言われてはいない。
が、それでもなんとなく落ち着かなくなってしまう。
ついソワソワしていると、傍を歩くシュウインが笑った。
「そんなに周りを気にしなくても大丈夫だよ。二人とも、城内にいて問題ない許可をもらってる。それでさっきの馬房の件だけど、一応はサイ先生と相談した方がいいんじゃないかな。先生を通して運営に言えば、希望も通りやすくなると思うし。もっとも、きみは殿下の騏驥としての出場だから、殿下に言えば間違いないだろうけど」
「……はい……ありがとうございます。もし何かあれば手順通りサイ先生に頼むようにします」
詳しく教えてくれたシュウインにお礼を言いつつも、シィンに頼み事をするつもりではないことは口にしておく。
この言葉一つで「どう」というわけではないにせよ、少なくとも自分の気持ちの上ではそうしたかったのだ。
必要以上にシィンに頼るようなことはしたくなかった。
それは、彼の威を借りている思われたくなかったためだし、彼に迷惑をかけたくなかったためだ。もっと言えば、彼に甘えるような真似はしたくなかった。
(今更……とはいえ)
いや、今更だからこそ。
あんなことがあったあとだからこそ。
数日前、シィンの部屋で思いがけず一晩を過ごし、翌朝「あんなこと」があって一人になったのち。
ダンジァは長居せず言われた通り——シィンのすすめに従って庭の泉を使わせてもらった。馬の姿に変われるかどうか確認しておきたかったのだ。
幸いにして変化は問題なく、馬の姿のまま、ほどよく冷たい澄んだ泉を使って身体を清めることもできたし、その後、人の姿に戻ることにも不自由はなかった。
そして服を貸してもらい、部屋を出て厩舎地区に——自分の馬房に戻った……のだが。
服を探していた時、ダンジァはたまたま見つけてしまったのだ。
見覚えのある、小瓶を。
(あれは……あの小瓶は……)
あれから数日経ったのに、まだ「それ」を見つけたときの戸惑いが続いているかのようだ。
ダンジァが飲んだ薬。しかしその空き瓶は、どうしてか二つあったのだった。
一つしか飲んでいないにも関わらず。
最初は、たままたま似た小瓶に別の薬が入っていたのだろうかと思った。
もしくは、シィンが飲んだものなのか、と。だが二つの小瓶から感じる香りは同じものだった。
それに、よくよく考えれば、人の医師にせよ騏驥の医師にせよ、違う薬を似た形の容器に入れるような危うい真似をするわけがないだろう。
となれば——おそらく二つともダンジァが飲んだのだ。
しかし、ダンジァはその覚えがなかった。
だから……。
もしかしたらシィンが零してしまったのかもしれない、とも考えた。中身が気になって開けたものを、零してしまうことはありえないことではないから。
しかし。
動揺しつつ厩舎に戻り、医師に診てもらうと、その考えも間違いだと分かった。
医師には——ニコロには、薬を二回飲んでいる、と言われたのだ。
『夜と朝だね。いいタイミングで飲んでる。いい飲み方をしたね』——と。
ダンジァは訳が分からなかった。
自分は飲んでいない。その覚えはない。自分で薬を飲んでいたら流石に覚えているだろう。
だとすれば。
(殿下……)
シィンが飲ませてくれたのだ。
意識のない自分に。
そう想像した途端——。
全身に一気に「その」感覚が蘇り、ダンジァは医務室で大いに動揺してしまった。
シィンに口付けられた時。思わず彼を抱きしめた時。
それまでそんなことをしたはずがないのに何故か馴染んだような懐かしいような感覚があったのは……。
まさかと思う。
そんなはずはないと思う。
けれど。
「っ——」
想像すると、また動揺がぶり返す。
顔が火照っている気がして、ダンジァはさりげなくシュウインから顔を背けた。
いや——いや。
そんなことはありえない。
だって彼は、シィンは『確かめてみるか』と言った。そう言って口付けてきた。だとしたら、彼はあの薬の味を知らないことになる。
口移しで飲ませてくれたなんて事はありえない。
(当たり前だ……)
そんな恐れ多いこと。
ありえない。
(でも……)
ではあの感触は?
気のせいだとでもいうのだろうか。
唇に、全身にじんわりと——深く染み込むように残っている、あの感覚は。
でも確かめられない。そんなこと。
だから翌日、ダンジァはドキドキしながら調教に向かったのだ。
どんな顔をしてシィンに会えばいいのかわからなかったから。
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