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32 翌日、王子。煩悶。

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 ため息が出る。

 昨日から、ため息ばかりが出る。

 シィンは分かっていながらやめられない溜息をまた一つこぼすと、手元の書類に署名して次の書類に取り掛かる。
 側の桌子で仕事をしているウェンライがチラリとこちらを見た気配があるが、初めてのことではないので放っておいた。
 と言うか、気にさせてしまっていることが少々申し訳ない気もしている。流石に。
 自分でもわかっているのだ。ため息が多くなっている事は。ため息をついてばかりだということは。
 
 けれど、どうしようもない。昨日のことを思い出すたびに、ため息が出て止まらなくなってしまうのだ。何か特定の物や者や行動についてではなく、しかしそれら全てのものに対しての後悔がうっすらとした靄のようにかかったままでずっと晴れないから。

 とはいえ、仕事はしているつもりだ。
 昨日から今日にかけて城の騏驥たちの調教を観て、皆に声をかけて労い、励ました。心から。もちろん、ダンジァと揉めた騏驥たちに対しても。

 彼らは自分が求めるタイプの騏驥とは違うとはいえ、間違いなく優れた面も持つものたちなのだ。従順で、忠実。それは去勢や魔術や薬の影響もあるが、騏驥としては立派な能力だ。そして彼らは王の騏驥として王家に仕えてくれている。支えてくれているのだ。
 この、狭い王城の中で。

 雑に扱っていいわけがない。
 悲しませていいわけがないのだ。

 それについては深く反省したから。
 

 昨日いっぱいは黙々と政務をこなし(ため息をこぼしながらではあったが)、その最中には、サイ師からはダンジァが無事に帰厩した連絡を受け取り、医師からは彼がちゃんと診察を受けにきた連絡を受け取った。
 顔を合わせていられず、身勝手にも部屋に彼を一人残してしまったことはずっと気になっていたから、無事に厩舎に帰れたことにも、心身とも回復していたことにも一安心だった。
 
 と同時に、念のため医師に診てもらっておけと言ったこちらの指示にきちんと従う彼の律儀さに改めて「いいな」と思ったりもしたのだが、彼のことを思い出すと結局あの——(以下略)。

 
 
 そして今日だ。
 彼を残して、一人部屋を出てから、およそ丸一日。
 丸一日経って迎えた調教は——彼との対面はどうなるか自分でも不安だったが、思っていたよりも普通だった。
 普通に接することができていた。と、思う。
 彼は緊張していたようだが、それも和らげられたと思う。
 身体を労りつつも、本番を見据えた調教ができたと思う。
 下馬する頃には、彼もずいぶん安堵した様子だったから、それまでと同じように指示し、乗ることができていたのだろう。
 少なくとも、彼をいたずらに不安にさせるような真似はしなかったようだ。

 よかった王子だから



「——殿下」

 その時。
 声がした。

「ん」

 書類の上を滑っていた目を向け、顔を上げると、手を止めたウェンライがこちらを見ていた。彼が言う。

「わたしは殿下に構った方がよろしいのでしょうか? それとも放っておいた方が?」

「……わからぬ」

 シィンは答えた。
 正直なところだ。つまりそれぐらい自分の中で未消化ということなのだろう。
 だからため息も止まらないのだ。

 思い出すと、また一つ息が溢れる。
 と、ウェンライは持っていたペンを置く。本気で話をするつもりのようだ。
 シィンは気まずさを覚え、逃げるように書類に目を落とす。
 彼に気を遣わせてしまう自分が情けない。
 ……といっても、具体的な改善策もない以上は仕方がないのだけれど。
 
 ウェンライは少し間を開け、言葉を選ぶようにしながら口を開く。

「何にお悩みですか。ご寵愛の騏驥を『あの部屋』にお連れになったと聞いたときには、てっきり『そういうこと』かと思いましたが」

「……お前にしては憶測がすぎるのではないか。寵愛だの『そういうこと』だの……」

「わざわざ彼のために大会にお出になり、その上、そのための調教にも毎日騎乗なさる騏驥を『ご寵愛』と言わずしてなんと? 昨日の騒ぎもそれが原因でございましょうに」

「…………」

 シィンは黙る。

「おそらくそうだろうな」と九割がた想像はついていたが、ウェンライからの報告によれば、やはり王の騏驥たちとダンジァとの「揉め事」は揉め事ではなかった。しかも彼らの方から言いがかりをつけてのことだったらしい。

「余所者」のダンジァが調教とに連れられることもなく単独で城の中をうろうろしていることや シィンがいつも調教をつけていることに嫉妬して。
 ツォに愚痴っていただけでは我慢ができず、とうとう実行に移してしまったらしい。

 ウェンライは続ける。

「しかも、部屋で食事を共になされたとか。その上茶まで手ずから煎れられたご様子とか。今まで王の騏驥たちにそんなことをなさいましたか?」

「…………」

 していない。もちろん。そうした線は引いていた。
 だから自分でも自分のしたことがよくわからないのだ。
 その時はそうすることが当たり前に思えたけれど。

 それにしても、聞きつけるのが早い。

 シィンは黙ったまま胸の中で肩をすくめる。
 まあ仕方がない。厨房のものたちの口が軽いわけではないが、特に口止めしていたわけではないのだから。

 そんなシィンに、ウェンライはさらに続ける。

「お分かりかと存じますが、下衆の勘ぐりで申し上げているわけではございません。殿下がそういうお考えであれば、相応の対処が必要というだけです」

「騏驥を相手に——」

「まあ、確かに」

 シィンの言葉を切るようにして、ウェンライが言う。無礼であるとわかっていてのことだ。わかっていて、やる。シィンがその言葉を先に口にしてしまわないようにという配慮だ。

「騏驥と親密過ぎる関係になることは、一般的に愚行であると言われております。愚かで浅はか、分別がなく、騎士にとって恥ずべきこと——とまで。とはいえ」

 ウェンライは言葉を切ってシィンを見た。

「とはいえ、それは表向きのこと。騎士の中には気に入った騏驥を囲う者もいたことは、誰もが薄々知っております。もちろん、過去の王族の中にも」

「……」

「リィ殿下のお父上のように騏驥とともに出奔されるような……そういう噂が立ってしまうような決定的な不祥事が起こってしまえば話は別ですが……でなければ、皆見てみぬふりをすることでしょう。それは、殿下もご承知では……?」

「そういうこともある、というのは知ってはいる。が……」

 知っていても、自分がそれをしたいのかがわからない。

 しかも、相手は普通の騏驥だ。能力は普通ではないとはいえ、一介の、厩舎地区に所属する騏驥だ。王の騏驥ではない。それが、引っかかっている点の一つだった。

 そもそも、「王の騏驥」は、王族が他の騏驥に「手を出さない」ために集められた騏驥たちだ。

 昔、気に入った騏驥を取っ替え引っ替えし、乗り潰す王がいた。
 騏驥が国の宝であるなら、それは全て王のものであるという考えから、他の騎士の愛騏までもを召し上げ、挙句、壊して乗り捨てる王がいたのだ。
 こんなことが続けば騎士たちの反感を買う——ということで、その対策として集められ組織されたのが、「王の騏驥」だ。つまり、見た目も能力も全て並以上の騏驥を揃え、王族はここの騏驥たちにのみ乗ることにすべし、と決められたというわけだ。
 これは、騏驥たちの妙な欲を刺激しない策でもあった。
 騏驥を搾取しようとする王がいた一方で、過去、王族に取り入り、騏驥でありながら国の中枢に食い込もうと企てた騏驥がいたのだ。

「王の騏驥」という仕組みは、そうした野心家の騏驥を生み出しづらい。普通の騏驥以上に徹底的な管理がされているし、何より、能力が平均化されているため、一頭だけが突出しづらいのだ。つまり、「代わりが効く」。
 そのため、やましい企てを抱いていると目された騏驥は即座に排除されたし、それが騏驥たちに浸透するに従い、彼らは次第に大きな希望を抱かなくなった。
 王に乗ってもらいたい、王子に乗ってもらいたい、可愛がられたい、愛されたい——。そんな願い以外は。


 だから。

 王の騏驥に乗る資格を持つ王族がそれ以外の騏驥に乗ることは、法度なのだ。
 外から騏驥を持ってくるのも、本来は避けるべきことだったのだ。
 よほどの利用がない限りは。

 今回、シィンは大会への出場を理由にダンジァの出入りを許した。
 許した? ——違う。引き込んだのだ。こちらに。城の中に。自分の側近くに。
 本来は厩舎地区で不自由ながら自由に過ごせていた彼を。

 彼を一番にしたいと、希望するばかりに。



 今でもその気持ちは変わっていない。
 いや、今は以前よりも彼に対する気持ちが強く大きくなっていると言うべきか。
 一番にしたい思いももちろん続いているが、それ以上の、それ以外の気持ちが増してきている。
 彼を手放したくない、できるならずっと側に置いておきたい——。そんな気持ちが。

 普通の騏驥に対してそんなふうに思うことだけでも「王の騏驥」に乗る王子としてあるまじきことなのに、その上……。

(このモヤモヤとした気持ちはなんなのだろうな……)

 昨日から、晴れない気持ち。
 自分で自分がよくわからない。だからため息が出るのだ。
 
 自分は一体、ダンジァになにを求めているのだろう。
 素晴らしい騏驥としての活躍?
 それともそれ以外の、それとは何か別のもの……なのだろうか。
 彼に対して、単なる騏驥に対するもの以上の期待を……?


 考えると、またため息が出る。
 困りながらウェンライを見ると、彼も困ったように笑った。

「殿下のご希望に沿うためなら、精一杯尽力いたしましょう。ですが殿下ご自身のお気持ちが定まっていないとなれば……残念ながらわたしもお手上げで」

「……だろうな」

 どれほど有能でも、流石にできないことはある。
 シィンは苦笑いしながら頷く。

 いっそ全て話せば——昨日の朝のことも全て話せば、ウェンライならなにかしらの道筋を考えてくれるかもしれない、とも思った。昨日から何度か。

 けれど、シィンはそれをせずにいた。
 あの部屋でダンジァと過ごした時間のことは、誰にも話したくなかったのだ。
 誰にも。
 二人だけの、自分だけのものにしたかったから。
 

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