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21 王城にて(6)一方、王子は叱られていた

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「……少し反省なさってくださいませ」

 執務室に戻るなりウェンライにそう言われ、シィンは片眉を跳ね上げる。
 
 反省?
 何を?

 不思議に思い、振り返って見つめると、ウェンライは胸の前に大量の薄い冊子を抱えたまま、むすりとした顔で見つめ返してくる。次いで、はーっと大きく息を零した。

「先程のご自分の態度をお忘れですか? 出場種目の討議だと仰るから、他の仕事を全て後回しにして、”わざわざ”朝早くから調教馬場へ馳せ参じたのですよ!? ツェンリェンにも頭を下げて来てもらえるように頼み込んで……。それを——」

「『それを』——なんだ? ちゃんと討議したではないか。一半哩競走への出走は確定した。告知しておけ。あとは夜に鞍上試合への出場の可否を決めれば終わりだろう。何も問題はない。実に順調だ」

 椅子に腰を下ろし、運ばれてきた茶を注ぎながらシィンは言う。
 抱えていた冊子の山を桌子に下ろしたウェンライは向かいに腰を下ろすと、

「順調……」

 と、シィンの言葉を繰り返す。
 その声は低い。が、構わずシィンは続ける。

「ああ。全て予定通りだろう? それに、お前は『頼み込んで』と文句を言うが、別に頭を下げずとも、あれツェンリェンはお前が呼べば何を置いても飛んでくるぞ」

「だからと言って近衛の騎士をそうそう簡単に呼びつけられるものでもないでしょう」

「そうか?」

 茶が冷めるのを待ちながら、そんなことはないだろう、とシィンは思う。
 と同時に、もし本当にウェンライがそう思っているなら——建前だけでなく本心からそう思っているのだとしたら、あれツェンリェンも報われないなあ、と思ったりする。

(さっき解散する時だって、あれツェンリェンは随分名残惜しそうにしていたのに)

 それにも気づかなかったのだろうか——?





 昔からの親しい仲とはいえ、立場の違いもあるため、あまり踏み込んだことは話さないが、側から見ている限り、ツェンリェンはどうも明らかにウェンライを特別扱いしているように思えるのだ。
 誰もに特別扱いされることが当たり前であるシィンだからこそ、そう感じられる——と言えるだろう。
 下手をすると、王子である自分よりもウェンライの方を特別に扱っていないかと思うほどに。
(と言っても、もちろん肝心な部分ではそんな愚かなことはしない。ツェンリェンは実に忠実かつ誠実かつ親しみの持てる臣下なのだ)

 いつだったか、わざとそれをあてこするようにしてシィンが拗ねて見せたことがあった。もちろん互いの仲がいいからできることだし、ふざけてのことだ。

『お前は、わたしに仕えているのかウェンライに仕えているのかわからないな』

 そんなことを言ったように思う。

 と、ツェンリェンはシィンがそんなふうに言ったことを——つまりは、シィンにそんなふうに思わせてしまったことを詫びるでもなく、悪びれもせず、優雅に微笑んでこう言ったのだ。

『わたくしは誰より忠実な東宮の騎士でございますゆえ』

 と。


(…………)

 うーむ、とシィンは思い出して眉を寄せる。
 今考えても微妙な言い回しだ。
 
 あいつ、本当に私よりもウェンライの方が大事なのではないか……?

 少しだけ考え、まさかな、とシィンは笑い飛ばす。から笑いになったからか、向かいのウェンライが訝しげな顔をする。
 誤魔化すように、シィンは冷めかけた茶を一口飲む。まだ少し熱い。

 シィンとツェンリェンは単なる王子とその近衛騎士という関係だけではなく、騎士の師と剣術の師を同じくしている。いわば同門の兄弟子・弟弟子の関係でもあるのだ。(ちなみに騎士としてはシィンの方が兄弟子になり、剣術ではツェンリェンの方が兄弟子になる)
 そのため、ただの上下関係ではない、より深い信頼関係を築いてきたと思っているし、築かれていると思っている。
 だからまあ、自分よりもウェンライの方が大事云々は冗談で済むこと——なのだが。そのはずなのだが。

 とはいえ——。
 そうした信頼はもちろんのこと、何につけても、「絶対にそうである」または「絶対にそうではない」と言い切れないのも人の心だ。目に見えない。触れられない。どこにあるのか、そもそもあるのかすらもわからないものなのだから。

 そして、そんな「人の心」が持つ不確実さと危うさを、シィンは嫌と言うほど知ってしまっている。
 立場上、幼い頃から得られるものや恩恵も大きければ、その逆もまた大きかったのだ。物心ついてからも、それらを思い知らされることがあまりに多い。
 

 それを思えば、ツェンリェンの本心がどうあるかは、いささか気になるところではあるが——まあ、彼の日々の忠臣ぶりを思えば誤差のようなものだろう。
 それに、”自分の親しい臣下同士の仲がいい”と考えれば悪いことではない。

(報われていないようだが)

(と言っても、実際のところはわからないのだが)


 ちなみに。二人を正式に引き合わせたのは他でもないシィンだ。剣技の競技会の折に、応援に来てくれていたウェンライに同門の兄弟子であるツェンリェンを紹介したのだ。
(でも実は二人はすでに顔見知りで、シィンは「え。そうなの。なんだー」と思ったのを覚えている)


 ともあれ。
 いずれにせよ、ここでのシィンの返事は「そうか?」か正しい。
 ツェンリェンは来るからだ。
 その用事が大事であろうがなかろうが、ウェンライが呼べば、これ幸いとばかりに。

 しかし、そんなシィンの返事は、ウェンライの「そうです」という厳しい声に即座に打ち消される。
 彼はじっとシィンを見つめて続ける。

「ツォだって、他の騏驥の調教を見る必要があったでしょうに話し合いに加わることになって……。要は、みな殿下のご都合に振り回されたのです。殿下のご都合に合わせようと、ご希望に沿おうと。にもかかわらず……」

「……まあいいではないか。久しぶりに皆と話せて楽しかったぞ」

 見るからに憤慨しているウェンライの気勢をそぎたくて、シィンはわざとのんびりとした口調で言う。が、逆効果だった。
 ウェンライの口元がピクリと震える。
 睨まれ、シィンは小さくなった。
 
 とはいえ、これは彼が本当に怒っているわけではないと言うこともシィンにはよくわかっている。
 彼は本当に怒ると静かになるのだ。静かに、粛々と事態を解決へと導いていく。
 一切の遠慮も情けもなく。

 だがそんな最悪の状況は免れたからといって、彼が怒っていることに変わりはない。
 ウェンライは続ける。

 「ええ——ええ。確かに楽しゅうございました。順調でございました。予定通りでございました。——討議の必要などないぐらいに」

 そして冷たく言い放つその声に、シィンは視線を泳がせる。
 視界に、ウェンライが今朝のために準備してくれた大量の冊子たちが映る。

 今回開催される大会への全ての出場予定騏驥と登録騏驥、そして騎士たちのリストだ。
 シィンがどの種目に出るのか話し合うにあたり、他の出場者の情報が必要不可欠だろうと考えて揃えてくれたものに違いない。種目が多いため、リストもかなりの量になるが、彼は迅速かつ正確にその資料を揃えてくれたのだ。
 有能だ。
 敏腕だ。

 実際、そのリストはとても役に立った。
 ただし、ごくごく一部が。
 そしてほとんどは、役に立たなかった。
 役立てるような話し合いにならなかったからだ。

 先刻、シィンがわざわざ親しく近しいものたちを集めて話し合った内容はといえば、皆が想像していたような討議ではなく、単に「騎乗する騏驥ダンジァの自慢」に終始してしまったからだ。

(んん)

 少しばかりの気まずさを覚えながら、シィンは再び茶に口をつける。
 ウェンライは、恨めしげにリストに視線を流した。

「これだけ集めるのには、結構な労力が必要だったのですよ。しかも殿下が話し合いの予定を私に打ち明けられたのは昨日。お分かりですか、時間のない中これだけの資料を集めることの大変さが。それもこれも殿下のご出場が他の騎士たちの不満を呼ぶことなく、大会の盛り上がりにのみ作用すればと願ってのこと。この大会をよりよく開催できればと考えてのことです。にもかかわらず——」

「わかっている。悪かった。お前の配慮には本当に感謝している。ありがたいと思っている。この資料だって……」

 大変だっただろうことは、想像がつくのだ。
 わかっている、とシィンは伝える。視線で。口調で。面差しで。彼の全てで。
 
 わかっているのだ。彼の——彼らの忠臣ぶりは。
 だからこそ、ついついそれに甘えてしまう。
 ごくごく限られた、気の置けない者たちが相手だからこそ、そんな貴重な機会だからこそ、ついつい。
 

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