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5 彼の騎士
しおりを挟む座れ、と言われ草の上に腰を下ろしたものの、ダンジァは落ち着かなかった。
理由は二つ。一つは、サイ師のことだった。
この騎士が——いまは隣に腰を下ろしている騎士が追われているようだったから、助けたいと思って彼の言うとおりにしたのだが……。
そうした事情はともかく、結果としては師に何も言わずに街を離れることになってしまった。
冷静になってみると、とんでもないことをしてしまった気がする。
探していないだろうか(探しているだろう)。
荷物持ちのダンジァをあてにして買っただろうたくさんの品々は、無事に厩舎に持って帰れているだろうか……(師は決して身体が大きくないし、力も強くない。そして何より、もうお年なのだ)。
そして、この件で「この騏驥は言うことを聞かない」と失望されたら……。
ダンジァは、チラリと傍を見る。
途端、驚きに微かに目を丸くした。
同じく草の上に腰を下ろしている騎士の彼はといえば、鳥と遊んでいたのだ。
いや……遊んでいる……のか?
多分遊んでいるのだろう。
指に止まらせた小鳥を、目を細めて撫でている。
どこから飛んできたのだろう? 寄せたのだろうか。気づかなかった。
改めて見ても綺麗な貌だ。単に造形が美しいだけでなく、なんと言えばいいのか……雰囲気がある。纏う気配や空気感が違うのだ。吸い寄せられるように見てしまうけれど、同時に、そうして見るのが恐れ多いようなそんな気にさせられる。
背に乗せていた時もそうだった。
体重移動が上手いからなのか、全く重さを感じさせず「何も乗っていない」ように感じられるかと思えば、重くはないけれど存在感の大きさに慄いてしまう瞬間があったり……。
(不思議な方だ……)
ダンジァは思う。
騎士にも色々な人がいるようだ。
頭ではわかっていたつもりでも、こうして目の当たりにすると自分はまだまだ知らないことが多いのだなと実感する。
この外衣だってそうだ。
「質が良さそうだ」「高そうだ」と思ってはいたが、実際に触れて、着てみて、こんなに肌触りのいい服があったのかと驚いている。
しかも、なんだかいい香りがする。今まで嗅いだことのない深みのある独特な——奥ゆかしくも官能的とも言えるような、趣のある香りだ。香を焚き染めているのだろう。
この騎士は「助けてくれた礼に」と言っていたが、こんないいものをもらうわけにはいかない……。
(どうやって返そう……)
これもまた初めてのことで、やり方がわからない。
本人に尋ねていいのだろうか……。
考えていると、
「どうした。わたしの顔に何かついているか」
突然、笑い混じりの声が届き、ダンジァははっと目を瞬かせる。
視線の先で、騎士が可笑しそうに目を細めていた。いつの間にか、小鳥はいなくなっている。
ダンジァは「いいえ」と慌てて首を振った。
「失礼しました。その、この外衣をどうすればいいかと……」
ダンジァが言うと、傍の騎士は訝しそうに片眉をあげる。
「『どうすれば』とは? おかしな問いだな」
「あまりに良いものなので、自分には、とても……」
「なんだ? まさか返すなどと言うのではないだろうな」
「……」
「返すな。わたしは受け取らぬぞ。とっておけ」
「ですが——」
「わたしを助けた礼だと説明したはずだ。遠慮も過ぎると無礼だぞ」
「……」
「それに、似合っているとも言ったはずだ。わたしが着るよりお前が着る方がいい」
言うと、青年騎士はスイと優雅に腕を伸ばしてくる。そしてダンジァの襟元をそっと直してくれた。
「これでいい。『輪』は見えるが、わたしが連れているなら問題ないだろう。厩舎地区まで乗っていってやる」
「……はい。ではありがたく頂戴いたします」
「うん」
と、騎士も満足そうに笑う。そのまま彼は続けた。
「サイ師のこと案ずるな。先ほど使いを出した。お前のことで咎められることはないだろう。買い物の荷物も、誰かがお前の代わりに持ってくれるはずだ」
「使い……?」
先ほど?
一体いつの間に?
驚くダンジァに、騎士はクスクス笑う。
「??」
(一体どういう……)
しかしダンジァがそれを尋ねるより早く、
「先程はすまなかったな」
青年が言葉を継いだ。今度は、ダンジァがその言葉の意味の分からなさに首を傾げる番だ。
青年は続ける。
「『どの騏驥が一番だ』などと、つまらない質問をしてしまった。お前に乗ってみてわかった。お前が答えられなかった理由もな」
彼は、悪戯っぽく瞳を煌めかせる。
その綺麗な瞳をしばらく見つめ返し、
「っ……ち、違います!」
とんでもない、とダンジァは首を振った。
誤解ならいい。でももしかしたらこの方は、ダンジァが「自分が一番だと思っているから答えられなかった」と勘違いしていないだろうか?
ダンジァは狼狽えながら説明した。
「自分があの時答えられなかったのは、その、色々事情があって……。なので、決して自分自身を評価しているからと言うわけでは……」
「違うのか? 良い乗り味だったが」
さらりと褒められ、ダンジァは面食らう。この騎士の方は、本当に率直な方のようた。元の性格なのかもしれないが、よほど育ちがいいのだろう。
自分の立ち位置に自信がある人であるほど、他人を素直に褒める——と、ダンジァは今まで乗せてきた騎士たちを見て感じている。上手い騎士ほど騏驥を褒めて自らの技術は謙遜し、そうでない騎士ほど自分の技術を誇りたがる。
そして傍の騎士は、ダンジァの言葉を確かめるかのようにじっと見つめてくる。
視線の圧力。
かといって露骨に目を逸らすこともできず、ダンジァが困っていると、騎士は少し考えるような顔を見せたのち、ズイと身を乗り出してくる。
「ならば、先程の質問をもう一度するまでだ。お前が自分を挙げないと言うなら、お前が『一番』と思う騏驥は誰だ」
「……で、ですからそれは……」
「『それは』? ああ——それよりお前、名はなんだ。まだ名を聞いていなかった」
「名は、ダンジァと申します」
この質問なら答えられる、とダンジァは即座に答える。
だがもう一つの方は……と困っていると、
「ダンジァ……ダンか」
「!」
不意打ちだった。
いきなり胸の奥に触れられたような気がして、息が止まる。
「ん? どうした」
傍から、声が届く。
ダンジァは慌てて「なんでもありません」と首を振ったが、傍からの視線は訝しげなものだ。
「……本当か? もしかして、こう呼ばれるのは嫌だったか」
声は、不安げなものになる。
いや——違う。こちらを気遣ってくれているのだ。顔を見ればそれがわかった。
彼の貌は、はっきりとこちらを心配しているものだったから。
「…………」
ダンジァは、青年騎士のその貌に、そして優しさに胸が熱くなる思いだった。
今日会ったばかりの、しかもたまたま会っただけの騏驥を気にしてくれるなんて。
(率直なだけでなく、思いやりのある優しい方なのだ……)
相席になった時にはびっくりしたし、唐突に「一番の騏驥は誰だ」なんて尋ねられた時には戸惑った。今だって名前を伝えたばかりなのに、いきなり略して呼んでくるなんて思ってもいなかった。
けれど——。
けれどなんだか、そんな彼の強引さや貴族らしい我儘さは嫌じゃない。むしろ、卑屈さが全くなく、堂々としていて大胆なところに心地良さを感じるほどだ。
ダンジァは傍の騎士をまっすぐに見つめ返すと、
「いいえ」
と頭を振った。
うん。
嫌じゃなかった。
びっくりしたけれど、嫌じゃなかった。
それどころか、彼に「ダン」と呼ばれたことで、それまでの自分の拘りがふっと解けた気がするほどだ。
ずっとずっと、愛称で呼ばれることが、騎士との繋がりの深さの一つの証だと思っていたから。
でも。
彼の一言は、そんな自分の拘りを吹き飛ばしてくれた気がするのだ。
まさかこんな形で……とは想像もしていなかったけれど、彼のおかげでなんだか心が軽くなっている。
騎士と騏驥の関係はそんなことで測れるものじゃないのだ、と、本質はそこではないのだ、と教えられた気がして。
ダンジァは騎士を見つめたまま、
「いいえ。嫌ではありません」
はっきりと伝える。
と、騎士は微かに目を眇めてダンジァを見つめ返し、
「そうか」
と笑った。
「では今後はそう呼ぼう。構わないな」
「はい」
「ん。それから、お前への質問だが、回答は後日にしよう。それまで待ってやる」
「え……」
目を瞬かせるダンの前で、騎士はすらりと立ち上がる。そして、顎をしゃくってみせた。王都の方向だ。
「時間切れだ。そろそろ戻らねばならぬ。わたしが戻るということは、お前も戻るということだ。厩舎地区まで乗ってやる。変われ」
「ぁ……は、はい。畏まり——」
「だが——」
立ち上がったダンジァの言葉を遮るように、彼は言った。
「ここで戻ったからといって、お前の答えを諦めたわけではない。次に会う時までに答えを準備しておけ」
「……どうしても、お答えしなければいけませんか」
騎士への反論になるだろうかと懸念しつつも、ダンジァは言わずにいられなかった。同じ騏驥同士で評価するような真似はしたくない。それに、この点についてはまだ自分は冷静になれない気がする。
すると、今はダンジァの騎士である青年は、意味深にふっと微笑んで言った。
「『どうしても』答えたくないというなら答えずとも構わない。だがその時は『どうして』答えたくないかを答えろ」
「そ……」
「戻るぞ。変われ。ああ、外衣はこちらに寄越しておけ。このまま変わったらせっかくお前にやったものが、跡形も無くなってしまう」
「ぬ、脱ぐと裸になりますが……」
「だからなんだ。お前の裸はさっきもう見た。良い体格だった。馬の姿同様、良い身体だな」
「は……」
あまりにストレートに褒められ、思わず頬が熱くなってしまう。
狼狽えながらも「ありがとうございます」と応えると、騎士は満足そうに笑う。
その笑顔は、品よく翳りがなく、やはり魅力的だ。
ダンジァは外衣を彼に渡すと、再び馬の姿に変わる。
騎士はダンジァのその姿をじっと見つめ、やがて微笑んで頷くと、ふわりとその背に飛び乗った。
「ではダン、戻るとしよう!」
今日初めて——たまたま出会った一人の騎士。
けれど今、彼はダンジァの騎士だ。
そんな彼を乗せて駆け始めたダンジァの足取りは、弾むようなものだった。
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