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80 驚悦
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「すまない、遅くなってしまった」
場所が場所。しかも深夜だけに声量は落としつつも、しっかりと謝罪の意を込めて言うと、リィは両手に抱えてきた大きな荷物を下ろして寝台に近寄る。
そこに横たわるルーランの手に触れ、頬に触れると、ほっと息をついた。
リィとルーランが助けられてから、二ヶ月が過ぎた。
彼はまだ目覚めない。
けれど、その手は温かで、指先の包帯ももうなくなった。
リィはそのまま傍の椅子に腰を下ろすと、今度はふうっと大きく息をつく
そしてルーランの動かない手を撫でながら、
「今日は大変だったんだぞ」
と、少し唇を尖らせて言うと、いつものように話し始めた。
「まず、朝からお前の馬房の掃除をした。それにしても、いつ見ても本当に何もない馬房だな。掃除が簡単でいいが、寂しい。あ、でも安心してくれ。前にも話したが、掃除といっても見えるところをさっと片付けているだけで、あれこれ物色したりはしていない。騏驥相手とはいえ、プライバシーは守らないとな」
うん、うん、と一人頷き、リィは続ける。
「それで、そうしていたらジァンが来たんだ。彼もお前のことを気にしてる。ここにも何度か来ているんだろう? いい先輩だな。わたしのことも気にしてくれていて、会うと毎回申し訳なさそうにしてるんだ。彼のせいではないのに。それで、今日はお前の好きなものを色々教えてくれた。林檎だけじゃなくて砂糖菓子も好きなんて知らなかったぞ。案外可愛らしいんだな。だから言わなかったのか? わたしに秘密にしていたのか?」
笑いながら、リィは揶揄うようにルーランの手をつついてみる。擽ってみる。
動かない手を握って、リィは続ける。
「それから、東の厩舎に行ったんだ。ダンジァのお見舞いに。彼が病室から自分の馬房に移ったことは話したと思うが、そろそろ落ち着いたんじゃないかと思って行ってみた。……少し話せた。身体はだいぶ回復しているみたいだし、気持ちも……だんだん安定してるみたいだ。まだ完全とは、言えないみたいだが……」
リィは昼間に会った騏驥を思い出しながら話す。
身体が回復してからというもの、リィは毎日ルーランの病室を訪れるとともに、ダンジァの見舞いにもまた足繁く通っていたのだった。
目覚めないルーランに対し、ダンジァはといえば身体よりも心の後遺症の方がより深刻な状況で、その点にはリィも心を痛めていたのだ。
初めての遠征でただでさえ緊張していたところを、外部から「輪」に干渉されて混乱することになった。そして変化がうまくいかなくなり、挙句、リィと離れることになって……。
言葉にしただけでも心に相当な負荷がかかったことは想像に難くないから、体力は戻りつつある今もなお、彼は引き続き馬房に閉じこもるようにして療養を続けていた。
見舞いも、実は会えたり会えなかったりだ。
今日は会ってしばらく穏やかに話をすることができたが、リィの気配を察しただけで取り乱すこともあり、快癒にはもう少しかかるだろうというのが医師たちの見解だった。
彼を一人で逃した時の判断は間違っていなかったと思う。最善の判断をしたと思う。けれど、今の彼を見れば胸が痛くなる。
本当に——本当にいい騏驥だったのだ。素直で忠実で誠実で。癖のない乗り味は騎士次第でいくらでも良くなるだろうと期待させる伸びしろがあった。それほどの可能性を秘めていた。
なのに——。なのにそんな騏驥の大切な時間が、今は治療のために費やされてしまっている。
リィが彼を連れていかなければ、強引にでもルーランを伴っていれば防げたことだったのに。
気持ちが回復しさえすれば大丈夫、身体の面はもう問題ない、と医師は言っていたし、その気持ちも時間が癒しになって必ず回復できる、とは言っていた。
けれど。
その回復にあたって何よりの力となるはずの騎士の立場に、リィはいることができない。
見舞いに訪れることはできても、もう彼の騎士になることはできない。
そう、決めてしまったから。
自分が乗る騏驥は一頭だけなのだと、自らの心に誓ってしまったから。
リィはルーランの手を撫でると、その手を徐々に腕へと上げていく。
二の腕の傷も、だいぶ癒えたようだ。最初に見た時に比べればそこを覆う薬符の種類が変わったし、面積も小さくなった。
元のように動くかどうかは……まだわからないけれど。
「……」
リィは唇を噛む。
彼の、この騏驥の素晴らしい足取りは、あの美しい歩様は元に戻るのだろうか。
深かった傷がどれほど影響してしまうのか……。
想像すると胸が痛い。
だが直後、その嫌な想像を振り払うように頭を振った。
治る。絶対に。彼ならきっと。
それにもし以前と同じようではなくとも、新しい彼を愛せばいいのだ。
愛せる。どんな彼でも。
うん、うん、と頷くと、リィは滲んできた涙を自らの肩で拭う。
そしてまたルーランの手を握ると、話を続ける。
「それで、帰ろうとしていたらGDに会ったんだ。話があると言われて、城の彼の部屋へ行った。本当は屋敷に帰る前に市場に寄ろうと思っていたから、時間がどうかなと思ったんだが、その話がわたしが囚われていた場所の調査の件だと知らされて、早く聞いておきたかった。彼もそのつもりで、わたしを探してくれていたんだと思う。彼は優しいな。なんだか彼が女性に人気があるのがわかる気がした」
わたしと彼はあくまで友人だけれど、とリィはちゃんと付け足す。
GDがリィに語った話は、不可解なものだった。
『見つからなかった——?』
一通りGDからの話を聞き終えて、まず最初にリィが口にしたのは、そんな驚きの言葉だった。
レイ=ジンが出してくれたお茶を飲む手も止まってしまう。
目を丸くして見つめたリィに、向かいに座るGDも不思議そうな顔を見せながら頷いた。
『そうだ。見つからなかった。いや、正確に言えば『きみが話したような建造物は見つからなかった』——だな。何もなかったわけじゃない。建物らしいものがあった跡は残っていた。だがそれはきみが話していたようなものとは違っていて……そういう建物を作った魔術の痕跡だけがあった、というのが調査結果だ』
『わたしは幻覚を見せられていた、ということか?』
あの牢。壁に描かれていた紋様。
逃げる時にはやけに広く迷路のように感じられた……。
あれらが全て幻覚だった、と?
問うリィに、GDは『わからない』と深く息をついて言った。
『可能性はある。ただ、そこまでやるには相当な時間と魔術力が必要だ。調査するにあたって、魔術師にも動向を願ったんだ。「塔」が指名した魔術師だから、かなりの力を持っていたと思う。だがその魔術師も驚いていたからな』
『…………』
魔術師も驚くほどの魔術……。
だがあの仮面の男が首謀なら、彼が企んだなら無理ではなかったのかもしれない。
どうしてそこまでしたのかは、わからないけれど。
リィが考えていると、
『それと、これはまあなんというか……余談ではないんだがなんというか……』
らしくない歯切れの悪さで、GDが言う。
首を傾げたリィに、彼は言いづらそうに続けた。
『調査地の近くには、十数名の男たちの死体があった』
『!?』
『風体からして、きみを捉えようとした男たちだろう。全員かどうかはわからないが』
『…………』
『死因は一人を除いて不明。一人は心臓を刺し貫かれていた』
『そう、か……』
リィはそう答えることしかできなかった。
死体。十数人の死体。
やったのが誰かは簡単に想像がついた。だがどうして。
後始末? 口封じ?
だとしてもどうしてそんなひどいことを。
痕跡を完全に無くしたかったということだろうか。
誰かの口から漏れることを恐れた……?
そう考えれば辻褄は合う。がそこまでひた隠す理由はなんだろう。
あの仮面の男、二人。
身なりといい立ち居振る舞いといい、やはりどこか隣国の立場のある者たちだったのだろうか。だから顔を隠して正体を隠していた……?
考えても、材料が少なすぎてわからない。
数日前にはルュオインがやはり今回の件について調べてみると言っていたが、彼の調査はおそらく前に増して慎重になるだろうから、時間もかかることだろう。
結局、今わかることはほとんどないのだ。
悔しいことに。
それでも、結果を教えてくれたGDには感謝しかない。
『わかった。ありがとうわざわざ教えてくれて。上への報告は、もう?』
『いや、それは今からだ。まずはきみにと思った。当事者なのだし知りたいだろう、と』
『ありがとう』
リィは感謝の言葉を繰り返す。
気づけば、レイ=ジンが新しいお茶を淹れてくれている。
温かなそれを飲むと、少し気分が穏やかになる。
同じようにお茶を飲むと、GDが脚を組み直して言った。
『こうも事態が不可解さを増すと今後の面倒ごとも増えそうだ。だがきみにとっては有利なのかな? 魔術が関わっているとなれば騎士の責任じゃない。聴取の際も強気に出られるだろう』
『それはどうかな。『塔』や魔術師たちが自らの不明を認めるかどうか』
『流石に認めるだろう』
いつもは温厚なGDも、流石に今回の二度の遠征の失敗については思うところがあるようだ。
彼だけじゃなく、もしかしたら騎士の大半が魔術師たちに不満を抱いたかもしれない。疑問を抱いたかもしれない。
彼ら・彼女らの託宣も、いつもいつも完全な正解ではないとわかっていたつもりでも、失敗が続けばやはり信頼の度合いは下がり、疑う気持ちが表面化してくるだろう。
しかも今回は騏驥が絡んでいる。
ルュオインが言っていた『騏驥に気をつけろ』という言葉。
あれはやはり意味があったのだ。
ダンジァが普通でいられなくなったように、あの時遠征に参加していた騏驥たちも、何かしら魔術の干渉を受けていつもとは違う状態だったに違いない。
そして騎士たちも、それを薄々感じていただろう。
なんとなくおかしいと感じていて、でもまさか「輪」に外部から影響を受けているとは思わず、ただただ困惑していたに違いない。
騎士と騏驥。そして魔術師。
成望国の礎であり繁栄の象徴であるこの関係が崩れれば、この国は……。
ついつい考え込んでいると、色々なことを思い出す。そこでふと、気になったことがあった。
『ああ、そうだGD。これはその、調査のこととは少し違うんだが一つ訊いていいだろうか』
『?』
お茶を飲んでいたGDが、目だけで返事をする。
リィは言葉を選びながら続けた。
『その、少し変な質問なんだが……わたしは誰かに似てるかな』
『???』
GDが眉を寄せて首を傾げる。
滅多にないほど困った顔をしている。
慌てて、リィは言葉を添えた。
『い、いや。なんというか、敵の——その、今回わたしを捕らえた者の狙いがよくわからなくて。騎士だったら誰でも良かったのかも、とか、ひょっとしたら人違いだったのかも、とか。だから……』
我ながら下手くそな理由作りだ。
だが、ふと気になったのだ。
仮面の男が口にした言葉。
『誰に似ていると言われたことは?』
あの言葉が。
だがGDは思い浮かばないようだ。
じっとリィの顔を見つめては、右に左に首を捻っている。
『……すまない。思いつかないな。普通にお父上かお母上に似ているのではないのか?』
『あ……うん。それは、まあ』
やはり変な質問だったか、とリィは苦笑する。
だがその時、こちらを見ているレイ=ジンに気づいた。
目が合うと、彼は慌てて目を逸らす。
礼を失したと思ったのだろう。でも、あの完璧な彼が?
リィは少し考え、GDに向けて言った。
『一応、レイ=ジンにも尋ねていいだろうか』
直接訊けないこともないが、彼の主人に一言断ってからの方がスムーズだろう。
GDは『もちろん』と頷く。リィは改めてレイ=ジンに尋ねる。
すると、彼は意外な答えを口にした。
「さて。ここで問題だ。レイ=ジンはなんと答えたかわかるか?」
動かないルーランの手の甲を、指先で軽く叩くように触れながら尋ねる。
小指、薬指、中指。人差し指で、順に。
タタタタ・タタタタ・タタタタ・タタタタ。
四拍子。馬の走るリズムだ。
リィは答えを待つ。が、待っても反応はない。
仕方ないなあ、というように言葉を継いだ。
「昔の、ずっとずっと昔の騎士に似ている人がいるらしい。多分血が繋がってるのだろう。わたしは知らなかったが、レイ=ジンは始祖の血を引く騏驥だから、この国の騏驥と騎士の歴史についてかなり深く学ぶらしい。自分の先祖について知っておく必要がある、ということのようだ。その時に見かけた姿絵に、わたしにとても似た者がいたという話だった。まあ、わたしの家系も、この国に降って以来の代々の騎士だから、たまには名を残す人もいたのかもしれない。だから機会があれば、屋敷の書庫でも調べてみようと思う」
遡れば、古の王家に行き着く家系。
そんな遺物の詰まった書庫に、改めて立ち入ることになるかもしれないなんて。
「……そんなことをしていたら、騎士ではなく歴史学者になってしまいそうだがな。ずっと、騎士でいたいけれど」
ルーランの手の甲に自身の手を重ね、その上に頬を重ねる。
深夜の病室に響くのは自分の声だけだ。
「いつだったか……GDが話してくれた。わたしが助けられた時のことを。わたしはお前にしがみついて離れなかったらしい。だから一気に二人を運ばなければならなくなって、魔術師たちは苦労したようだ。そう話してた。わたしは覚えていないけれど」
くす、とリィは笑った。
「これでまた、いい噂の種だ。お前といるとそんなことばかりだ。でも、それでもいいんだ、わたしは」
いいんだ。
リィは繰り返した。
「誰になんと言われようと、いいんだ、もう。一番怖いことが何で、一番嬉しいことが何か、わかっているから。……でも……お前はどうなのかな……離れないことを、本当に望んでるかな」
そうして独り話していると、次第に眠気がやってくる。
今日はあちこち行って、普段より疲れているせいだろう。
と、そこにノックの音がした。
ニコロだろう。
伏せていた顔をあげ、どうぞ、と返事をすると、予想通り童顔の医師が顔を見せる。
毎晩ここで顔を合わせるから、もう慣れたものだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
いつものように簡単な挨拶の後、ニコロはルーランの治療を始める。
そうしながら、彼は「ん」と瞠目した。
「なんだか今日は一際いい香りがしますね」
「わかるか? 市場でリンゴを買って来たんだ。いろいろな種類があったので、ついたくさん買ってしまった」
「なるほど」
「おかげで来るのが遅れてしまった。他の者に迷惑をかけていなければいいのだが」
「大丈夫ですよ。ここはきちんと音が遮断されておりますし」
「そうか。ありがとう」
では独り言も外に漏れずに済んでいるというわけだ。
ほっとしながら、リィはニコロの治療を見つめる。
「相変わらず丁寧に治療してくださって……感謝している」
「どういたしまして。彼は思っていた以上に治りが早いですよ。さすがに五変騎の一頭だと毎回感心しています」
「そうか……。ああ——そういえば、あなたには石や符でも世話になった。持たせてくれたものがずいぶん役に立った。ありがとう。わたしがもう少し……もう少しわたしにしっかりとした判断力があれば、せっかくルーランが作ってくれた結界も無駄にせずに済んだのだが……」
「え?」
すると、それまで静かに頷きながら治療を続けていたニコロが、驚いたように声をあげる。
リィと目が合うと、彼は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「リィ様? 今、なんと?」
「え……け、結界を——」
「その前です。誰が結界を?」
「ルーランだ。わたしは気を失っていたから……。どうしてそんな顔を」
「ありえない、ので」
ぽつりと、ニコロは言った。
そして思わず止めていたらしい治療を慌てた様子で再開する。けれど彼はまだ首を捻っている。
「どういうことだ?」
リィが尋ねると、
「騏驥は魔術を使えません」
あっさりと、彼は言った。
その言葉に今度はリィが驚いた。
ならばこそ、ニコロが「ルーランも使えるような」形で石や符を用意してくれていたのではないのか。
そう尋ねると、ニコロは首を振った。
「確かに、そうした下準備もいたしました。例えば、あなたを見つけるための魔術は石を媒介にすれば彼にも使えるようにしていたはずです。でも……」
それ以外の魔術は……。
言いながら、ニコロは繰り返し首を捻る。
やがて治療を終えると、彼は苦笑してリィに近づいてきた。
「なんだか、思いがけない話で驚きました。気になるようなら調べておきましょうか。多分、僕が間違えたのだと思うのですが」
「あ……いや、そこまではしなくてもいいと思う。結果として二人とも助かったのだし……」
リィが言うと、ニコロは「わかりました」と微笑んで病室を出ていく。
また二人きりになり、リィはふうと息をついた。
「……聞いたか」
振り返り、ルーランを見て言う。
「なんだかお前は不思議なことをしたようだぞ。もっとも……せっかくのそれもわたしが台無しにしてしまったが……」
思い出すと、また後悔しそうになる。
いや、きっと何度も後悔するだろう。彼を信じられなかった自分への戒めのように。
「ああ、そうだ」
と。
リィはニコロとのやり取りで思い出した荷物に近づく。
そこから、いくつかの林檎といくつかの砂糖菓子の入った袋を取り出した。
「ふふ」
これのせいで今夜はここへ着くのが遅くなってしまったが、悩みに悩み、選びに選んで特別美味しそうなものばかりを買って来たのだ。満足だった。
リィはそれらを一つ一つ、横になっているルーランの周りに置いていく。
なんだかルーランの上半身が林檎と砂糖菓子に囲まれているような格好になってしまったが、まあいいだろう。
きっと、目が覚めた時に好きなものがたくさんあると嬉しいと思うから。
(そしてわたしは、お前が嬉しそうな顔をしていると嬉しいんだ)
思いながら見つめるルーランの顔は、変わらず瞼を閉じたままだ。
そっと頬に触れると、そこは仄かに温かい。胸元は上下しているから息もしているのだ。生きては、いる。
ただ目覚めないだけで。
「……」
リィは滲んできた涙をグイと拭った。
泣くのではなく——いや泣いてもいいのだが、彼が目覚めてからのことを考えよう、と思った。
椅子に腰を下ろし、ルーランの手を握り、またシーツに横顔を伏せる。
そう。
目が覚めたら——。
彼の、目が覚めたら……。
「!?」
あ。
あ!!
——寝てた!
「痛っ!」
はっと顔を上げ、次の瞬間、リィは首の痛さに悶絶した。
顰めた顔に、朝陽が眩しい。病室はすっかり明るくなっている。清々しい朝の空気。
あのまま眠ってしまったのだ。
「ああ、もう……」
首をさすりながら立ち上がる。
迂闊だった。記憶がない。落ちるように寝てしまったのだろう。
……無断で外泊してしまった。
別にもういい年なのだからそれぐらい構わないはずなのだが、連絡もせず帰宅しないというのはリィの中では「だらしない」というカテゴリに入ってしまう行為なのだ。
それに、ばあやたちが心配しただろうなと思うと胸が痛む。
しかしその目をふとルーランに移した途端。
リィの胸の中に、ぽっと暖かさが灯った。
朝陽の中の彼は、まるで本当に「眠っているだけ」のように見えたからだ。
あと少しで起きるような、そんな貌に。
(そういえば、朝の彼を見るのは初めてかもしれないな……)
絶対にそうしなければと決めていたわけではないが、なんとなく一日の終わりにここへきて、その日あったことを話すのが当たり前になっていたから、朝の彼を見るのは新鮮な気分だ。
「……おはよう」
リィは、目を閉じたままのルーランに話しかけた。
答えはない。それでも、そっと微笑んで髪を撫でる。
光の加減のせいだろうか。血色が良く見えて、なんだか、こうして触れれば触れるほど、彼は「眠ってるだけ」のように思える。
「朝のお前を見るのは初めてだが、悪くないな。わたしは無断外泊をしたのも初めてだ。今朝は初めて尽くしだな」
言いながら彼の頬を撫で、つと、リィはその手を止める。
(…………)
しばし考え、背後を確認する。
もう一度。
もう一度。
都合三回確認すると、リィは意を決し、息を詰め、そろそろと身を屈める。
ルーランの唇に自身のそれを近づけていく。
「いけない」ことだとはわかっている。
けれど、触れたくて堪らなかった。
少しだけ。
ほんの少し——触れるだけ。
リィは息を止め、ぎゅっと目を瞑り、掠めるような口付けを交わす。
ほんの、一瞬。
それでも、触れた唇は間違いなく彼の唇で、温かだ。
それを実感すると、なんだか唇が擽ったくて、自身の唇がやけに気になってしまう。彼の唇を見つめてしまう。
「朝に会うのも、いいな」
リィはルーランを見つめたまま、はにかむように呟いた。
なんだか一日を幸せに過ごせそうだ。
本当は、朝も昼も夜も。
ずっと一緒に過ごしたいのだけれど。
「……」
それは我儘かな。
滲んで溢れた涙が、ルーランの頬に落ちる。
我儘、でも。
「起きろ」
リィは目を閉じたままのルーランに向けて言った。
「ルーラン、もう朝だぞ。起きろ。起きて、一緒にどこかに走りに行こう。お前の好きなところでいい。お前の好きなところで、好きなだけ……今日は天気もいいから……」
そこまで言うと、声が声にならなくなる。
リィは天井を仰いだ。嗚咽を殺して、はあっと息をつく。
ややあって、再びルーランを見ると、
「……また来る」
ぎこちないながらも笑顔を作って言った。
「また来る。多分夜だ。その間に起きてもいいからな」
そして彼の頬に溢れていた涙をそっと拭ってやると、病室を出ようと踵を返す。
その時。
「————」
呼ばれたような気がして、リィはびくりと足を止めた。
息も止まる。
嘘だと思った。聞き間違いだと。
でも全身が耳になる。
背後の気配を全身で探りながら振り返ると、突進する勢いで寝台に取り縋る。
「ル……」
呼びかけようとした声が止まる。
リィの手に、手が重ねられていた。
動かなかったそれが、今はリィの手に重ねられていた。
息を詰めて見つめるリィの視線の先で、彼の騏驥がゆっくりと瞼を上げる。
蜂蜜色の瞳。陽の光と同じ色の——。
「ルーラン!!」
歓喜の泣き声と共にリィがその名を呼ぶと、ルーランは二度、三度と目を瞬かせ、リィを見る。
「リィ……」
目が合った途端、呼ばれた途端、リィはとうとう耐えられず涙を零した。
今まで散々泣いたのに、また涙が出る。
それも今までより熱く、たくさんの涙だ。
後から後から溢れて、止まらなくなる。ルーランの顔を見たいのに、涙で全然見えなくなる。
「ルーラン……! ルーラン! ルーラン……っ……」
重ねられていた手をぎゅっと握り、確かめるように彼の名を呼び続ける。
「ルーラン——!」
嗚咽混じりにその名を繰り返すと、空いている手でそっと抱き寄せられ、幾度も幾度も頭を撫でられた。
宥めるように、慈しむように。優しく優しく。何度も何度も。
「ルーラン……」
「あんたが無事で、よかったよ」
ルーランは微笑んで言った。
「あんたを助けられてよかった……」
でもあんたって泣き虫なんだな。
微かに笑ってそう言うと、ルーランはリィの涙を拭ってくれる。
あの日のように拭ってくれる。
だからなおさら涙が止まらなくなる。
抱き寄せられ、ルーランの胸の中にそっと抱きしめられた。
「あんたの声が聞こえた」
リィを胸の中に抱いたまま、ルーランは言った。
「あんたの声が、聞こえた」
繰り返す声に胸がいっぱいになるのを感じながら、リィは幾度も頷く。
呼んだ。——呼んだ。何度も何度も。——何度も。
届くと信じて。
いつか、届くと信じて。
顔を上げると、間近で視線が絡む。
微笑む瞳。片方だけでも、それは変わらず美しい。
泣いたままリィも微笑むと、目の前の笑みは一層深くなる。
頬に指が触れる。触れた指が、涙を拭う。
指はそのまま優しく髪を梳き、リィをさらに引き寄せる。
顔が近づく。目を閉じると、吐息混じりに名を囁かれ、唇に唇が触れる。
離れていた間を埋めようとするかのような、長い永い口付け。
それは、とても甘く、ちょっぴり塩辛く、そして喩えようもないほどの幸せの味がした。
場所が場所。しかも深夜だけに声量は落としつつも、しっかりと謝罪の意を込めて言うと、リィは両手に抱えてきた大きな荷物を下ろして寝台に近寄る。
そこに横たわるルーランの手に触れ、頬に触れると、ほっと息をついた。
リィとルーランが助けられてから、二ヶ月が過ぎた。
彼はまだ目覚めない。
けれど、その手は温かで、指先の包帯ももうなくなった。
リィはそのまま傍の椅子に腰を下ろすと、今度はふうっと大きく息をつく
そしてルーランの動かない手を撫でながら、
「今日は大変だったんだぞ」
と、少し唇を尖らせて言うと、いつものように話し始めた。
「まず、朝からお前の馬房の掃除をした。それにしても、いつ見ても本当に何もない馬房だな。掃除が簡単でいいが、寂しい。あ、でも安心してくれ。前にも話したが、掃除といっても見えるところをさっと片付けているだけで、あれこれ物色したりはしていない。騏驥相手とはいえ、プライバシーは守らないとな」
うん、うん、と一人頷き、リィは続ける。
「それで、そうしていたらジァンが来たんだ。彼もお前のことを気にしてる。ここにも何度か来ているんだろう? いい先輩だな。わたしのことも気にしてくれていて、会うと毎回申し訳なさそうにしてるんだ。彼のせいではないのに。それで、今日はお前の好きなものを色々教えてくれた。林檎だけじゃなくて砂糖菓子も好きなんて知らなかったぞ。案外可愛らしいんだな。だから言わなかったのか? わたしに秘密にしていたのか?」
笑いながら、リィは揶揄うようにルーランの手をつついてみる。擽ってみる。
動かない手を握って、リィは続ける。
「それから、東の厩舎に行ったんだ。ダンジァのお見舞いに。彼が病室から自分の馬房に移ったことは話したと思うが、そろそろ落ち着いたんじゃないかと思って行ってみた。……少し話せた。身体はだいぶ回復しているみたいだし、気持ちも……だんだん安定してるみたいだ。まだ完全とは、言えないみたいだが……」
リィは昼間に会った騏驥を思い出しながら話す。
身体が回復してからというもの、リィは毎日ルーランの病室を訪れるとともに、ダンジァの見舞いにもまた足繁く通っていたのだった。
目覚めないルーランに対し、ダンジァはといえば身体よりも心の後遺症の方がより深刻な状況で、その点にはリィも心を痛めていたのだ。
初めての遠征でただでさえ緊張していたところを、外部から「輪」に干渉されて混乱することになった。そして変化がうまくいかなくなり、挙句、リィと離れることになって……。
言葉にしただけでも心に相当な負荷がかかったことは想像に難くないから、体力は戻りつつある今もなお、彼は引き続き馬房に閉じこもるようにして療養を続けていた。
見舞いも、実は会えたり会えなかったりだ。
今日は会ってしばらく穏やかに話をすることができたが、リィの気配を察しただけで取り乱すこともあり、快癒にはもう少しかかるだろうというのが医師たちの見解だった。
彼を一人で逃した時の判断は間違っていなかったと思う。最善の判断をしたと思う。けれど、今の彼を見れば胸が痛くなる。
本当に——本当にいい騏驥だったのだ。素直で忠実で誠実で。癖のない乗り味は騎士次第でいくらでも良くなるだろうと期待させる伸びしろがあった。それほどの可能性を秘めていた。
なのに——。なのにそんな騏驥の大切な時間が、今は治療のために費やされてしまっている。
リィが彼を連れていかなければ、強引にでもルーランを伴っていれば防げたことだったのに。
気持ちが回復しさえすれば大丈夫、身体の面はもう問題ない、と医師は言っていたし、その気持ちも時間が癒しになって必ず回復できる、とは言っていた。
けれど。
その回復にあたって何よりの力となるはずの騎士の立場に、リィはいることができない。
見舞いに訪れることはできても、もう彼の騎士になることはできない。
そう、決めてしまったから。
自分が乗る騏驥は一頭だけなのだと、自らの心に誓ってしまったから。
リィはルーランの手を撫でると、その手を徐々に腕へと上げていく。
二の腕の傷も、だいぶ癒えたようだ。最初に見た時に比べればそこを覆う薬符の種類が変わったし、面積も小さくなった。
元のように動くかどうかは……まだわからないけれど。
「……」
リィは唇を噛む。
彼の、この騏驥の素晴らしい足取りは、あの美しい歩様は元に戻るのだろうか。
深かった傷がどれほど影響してしまうのか……。
想像すると胸が痛い。
だが直後、その嫌な想像を振り払うように頭を振った。
治る。絶対に。彼ならきっと。
それにもし以前と同じようではなくとも、新しい彼を愛せばいいのだ。
愛せる。どんな彼でも。
うん、うん、と頷くと、リィは滲んできた涙を自らの肩で拭う。
そしてまたルーランの手を握ると、話を続ける。
「それで、帰ろうとしていたらGDに会ったんだ。話があると言われて、城の彼の部屋へ行った。本当は屋敷に帰る前に市場に寄ろうと思っていたから、時間がどうかなと思ったんだが、その話がわたしが囚われていた場所の調査の件だと知らされて、早く聞いておきたかった。彼もそのつもりで、わたしを探してくれていたんだと思う。彼は優しいな。なんだか彼が女性に人気があるのがわかる気がした」
わたしと彼はあくまで友人だけれど、とリィはちゃんと付け足す。
GDがリィに語った話は、不可解なものだった。
『見つからなかった——?』
一通りGDからの話を聞き終えて、まず最初にリィが口にしたのは、そんな驚きの言葉だった。
レイ=ジンが出してくれたお茶を飲む手も止まってしまう。
目を丸くして見つめたリィに、向かいに座るGDも不思議そうな顔を見せながら頷いた。
『そうだ。見つからなかった。いや、正確に言えば『きみが話したような建造物は見つからなかった』——だな。何もなかったわけじゃない。建物らしいものがあった跡は残っていた。だがそれはきみが話していたようなものとは違っていて……そういう建物を作った魔術の痕跡だけがあった、というのが調査結果だ』
『わたしは幻覚を見せられていた、ということか?』
あの牢。壁に描かれていた紋様。
逃げる時にはやけに広く迷路のように感じられた……。
あれらが全て幻覚だった、と?
問うリィに、GDは『わからない』と深く息をついて言った。
『可能性はある。ただ、そこまでやるには相当な時間と魔術力が必要だ。調査するにあたって、魔術師にも動向を願ったんだ。「塔」が指名した魔術師だから、かなりの力を持っていたと思う。だがその魔術師も驚いていたからな』
『…………』
魔術師も驚くほどの魔術……。
だがあの仮面の男が首謀なら、彼が企んだなら無理ではなかったのかもしれない。
どうしてそこまでしたのかは、わからないけれど。
リィが考えていると、
『それと、これはまあなんというか……余談ではないんだがなんというか……』
らしくない歯切れの悪さで、GDが言う。
首を傾げたリィに、彼は言いづらそうに続けた。
『調査地の近くには、十数名の男たちの死体があった』
『!?』
『風体からして、きみを捉えようとした男たちだろう。全員かどうかはわからないが』
『…………』
『死因は一人を除いて不明。一人は心臓を刺し貫かれていた』
『そう、か……』
リィはそう答えることしかできなかった。
死体。十数人の死体。
やったのが誰かは簡単に想像がついた。だがどうして。
後始末? 口封じ?
だとしてもどうしてそんなひどいことを。
痕跡を完全に無くしたかったということだろうか。
誰かの口から漏れることを恐れた……?
そう考えれば辻褄は合う。がそこまでひた隠す理由はなんだろう。
あの仮面の男、二人。
身なりといい立ち居振る舞いといい、やはりどこか隣国の立場のある者たちだったのだろうか。だから顔を隠して正体を隠していた……?
考えても、材料が少なすぎてわからない。
数日前にはルュオインがやはり今回の件について調べてみると言っていたが、彼の調査はおそらく前に増して慎重になるだろうから、時間もかかることだろう。
結局、今わかることはほとんどないのだ。
悔しいことに。
それでも、結果を教えてくれたGDには感謝しかない。
『わかった。ありがとうわざわざ教えてくれて。上への報告は、もう?』
『いや、それは今からだ。まずはきみにと思った。当事者なのだし知りたいだろう、と』
『ありがとう』
リィは感謝の言葉を繰り返す。
気づけば、レイ=ジンが新しいお茶を淹れてくれている。
温かなそれを飲むと、少し気分が穏やかになる。
同じようにお茶を飲むと、GDが脚を組み直して言った。
『こうも事態が不可解さを増すと今後の面倒ごとも増えそうだ。だがきみにとっては有利なのかな? 魔術が関わっているとなれば騎士の責任じゃない。聴取の際も強気に出られるだろう』
『それはどうかな。『塔』や魔術師たちが自らの不明を認めるかどうか』
『流石に認めるだろう』
いつもは温厚なGDも、流石に今回の二度の遠征の失敗については思うところがあるようだ。
彼だけじゃなく、もしかしたら騎士の大半が魔術師たちに不満を抱いたかもしれない。疑問を抱いたかもしれない。
彼ら・彼女らの託宣も、いつもいつも完全な正解ではないとわかっていたつもりでも、失敗が続けばやはり信頼の度合いは下がり、疑う気持ちが表面化してくるだろう。
しかも今回は騏驥が絡んでいる。
ルュオインが言っていた『騏驥に気をつけろ』という言葉。
あれはやはり意味があったのだ。
ダンジァが普通でいられなくなったように、あの時遠征に参加していた騏驥たちも、何かしら魔術の干渉を受けていつもとは違う状態だったに違いない。
そして騎士たちも、それを薄々感じていただろう。
なんとなくおかしいと感じていて、でもまさか「輪」に外部から影響を受けているとは思わず、ただただ困惑していたに違いない。
騎士と騏驥。そして魔術師。
成望国の礎であり繁栄の象徴であるこの関係が崩れれば、この国は……。
ついつい考え込んでいると、色々なことを思い出す。そこでふと、気になったことがあった。
『ああ、そうだGD。これはその、調査のこととは少し違うんだが一つ訊いていいだろうか』
『?』
お茶を飲んでいたGDが、目だけで返事をする。
リィは言葉を選びながら続けた。
『その、少し変な質問なんだが……わたしは誰かに似てるかな』
『???』
GDが眉を寄せて首を傾げる。
滅多にないほど困った顔をしている。
慌てて、リィは言葉を添えた。
『い、いや。なんというか、敵の——その、今回わたしを捕らえた者の狙いがよくわからなくて。騎士だったら誰でも良かったのかも、とか、ひょっとしたら人違いだったのかも、とか。だから……』
我ながら下手くそな理由作りだ。
だが、ふと気になったのだ。
仮面の男が口にした言葉。
『誰に似ていると言われたことは?』
あの言葉が。
だがGDは思い浮かばないようだ。
じっとリィの顔を見つめては、右に左に首を捻っている。
『……すまない。思いつかないな。普通にお父上かお母上に似ているのではないのか?』
『あ……うん。それは、まあ』
やはり変な質問だったか、とリィは苦笑する。
だがその時、こちらを見ているレイ=ジンに気づいた。
目が合うと、彼は慌てて目を逸らす。
礼を失したと思ったのだろう。でも、あの完璧な彼が?
リィは少し考え、GDに向けて言った。
『一応、レイ=ジンにも尋ねていいだろうか』
直接訊けないこともないが、彼の主人に一言断ってからの方がスムーズだろう。
GDは『もちろん』と頷く。リィは改めてレイ=ジンに尋ねる。
すると、彼は意外な答えを口にした。
「さて。ここで問題だ。レイ=ジンはなんと答えたかわかるか?」
動かないルーランの手の甲を、指先で軽く叩くように触れながら尋ねる。
小指、薬指、中指。人差し指で、順に。
タタタタ・タタタタ・タタタタ・タタタタ。
四拍子。馬の走るリズムだ。
リィは答えを待つ。が、待っても反応はない。
仕方ないなあ、というように言葉を継いだ。
「昔の、ずっとずっと昔の騎士に似ている人がいるらしい。多分血が繋がってるのだろう。わたしは知らなかったが、レイ=ジンは始祖の血を引く騏驥だから、この国の騏驥と騎士の歴史についてかなり深く学ぶらしい。自分の先祖について知っておく必要がある、ということのようだ。その時に見かけた姿絵に、わたしにとても似た者がいたという話だった。まあ、わたしの家系も、この国に降って以来の代々の騎士だから、たまには名を残す人もいたのかもしれない。だから機会があれば、屋敷の書庫でも調べてみようと思う」
遡れば、古の王家に行き着く家系。
そんな遺物の詰まった書庫に、改めて立ち入ることになるかもしれないなんて。
「……そんなことをしていたら、騎士ではなく歴史学者になってしまいそうだがな。ずっと、騎士でいたいけれど」
ルーランの手の甲に自身の手を重ね、その上に頬を重ねる。
深夜の病室に響くのは自分の声だけだ。
「いつだったか……GDが話してくれた。わたしが助けられた時のことを。わたしはお前にしがみついて離れなかったらしい。だから一気に二人を運ばなければならなくなって、魔術師たちは苦労したようだ。そう話してた。わたしは覚えていないけれど」
くす、とリィは笑った。
「これでまた、いい噂の種だ。お前といるとそんなことばかりだ。でも、それでもいいんだ、わたしは」
いいんだ。
リィは繰り返した。
「誰になんと言われようと、いいんだ、もう。一番怖いことが何で、一番嬉しいことが何か、わかっているから。……でも……お前はどうなのかな……離れないことを、本当に望んでるかな」
そうして独り話していると、次第に眠気がやってくる。
今日はあちこち行って、普段より疲れているせいだろう。
と、そこにノックの音がした。
ニコロだろう。
伏せていた顔をあげ、どうぞ、と返事をすると、予想通り童顔の医師が顔を見せる。
毎晩ここで顔を合わせるから、もう慣れたものだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
いつものように簡単な挨拶の後、ニコロはルーランの治療を始める。
そうしながら、彼は「ん」と瞠目した。
「なんだか今日は一際いい香りがしますね」
「わかるか? 市場でリンゴを買って来たんだ。いろいろな種類があったので、ついたくさん買ってしまった」
「なるほど」
「おかげで来るのが遅れてしまった。他の者に迷惑をかけていなければいいのだが」
「大丈夫ですよ。ここはきちんと音が遮断されておりますし」
「そうか。ありがとう」
では独り言も外に漏れずに済んでいるというわけだ。
ほっとしながら、リィはニコロの治療を見つめる。
「相変わらず丁寧に治療してくださって……感謝している」
「どういたしまして。彼は思っていた以上に治りが早いですよ。さすがに五変騎の一頭だと毎回感心しています」
「そうか……。ああ——そういえば、あなたには石や符でも世話になった。持たせてくれたものがずいぶん役に立った。ありがとう。わたしがもう少し……もう少しわたしにしっかりとした判断力があれば、せっかくルーランが作ってくれた結界も無駄にせずに済んだのだが……」
「え?」
すると、それまで静かに頷きながら治療を続けていたニコロが、驚いたように声をあげる。
リィと目が合うと、彼は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「リィ様? 今、なんと?」
「え……け、結界を——」
「その前です。誰が結界を?」
「ルーランだ。わたしは気を失っていたから……。どうしてそんな顔を」
「ありえない、ので」
ぽつりと、ニコロは言った。
そして思わず止めていたらしい治療を慌てた様子で再開する。けれど彼はまだ首を捻っている。
「どういうことだ?」
リィが尋ねると、
「騏驥は魔術を使えません」
あっさりと、彼は言った。
その言葉に今度はリィが驚いた。
ならばこそ、ニコロが「ルーランも使えるような」形で石や符を用意してくれていたのではないのか。
そう尋ねると、ニコロは首を振った。
「確かに、そうした下準備もいたしました。例えば、あなたを見つけるための魔術は石を媒介にすれば彼にも使えるようにしていたはずです。でも……」
それ以外の魔術は……。
言いながら、ニコロは繰り返し首を捻る。
やがて治療を終えると、彼は苦笑してリィに近づいてきた。
「なんだか、思いがけない話で驚きました。気になるようなら調べておきましょうか。多分、僕が間違えたのだと思うのですが」
「あ……いや、そこまではしなくてもいいと思う。結果として二人とも助かったのだし……」
リィが言うと、ニコロは「わかりました」と微笑んで病室を出ていく。
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「……聞いたか」
振り返り、ルーランを見て言う。
「なんだかお前は不思議なことをしたようだぞ。もっとも……せっかくのそれもわたしが台無しにしてしまったが……」
思い出すと、また後悔しそうになる。
いや、きっと何度も後悔するだろう。彼を信じられなかった自分への戒めのように。
「ああ、そうだ」
と。
リィはニコロとのやり取りで思い出した荷物に近づく。
そこから、いくつかの林檎といくつかの砂糖菓子の入った袋を取り出した。
「ふふ」
これのせいで今夜はここへ着くのが遅くなってしまったが、悩みに悩み、選びに選んで特別美味しそうなものばかりを買って来たのだ。満足だった。
リィはそれらを一つ一つ、横になっているルーランの周りに置いていく。
なんだかルーランの上半身が林檎と砂糖菓子に囲まれているような格好になってしまったが、まあいいだろう。
きっと、目が覚めた時に好きなものがたくさんあると嬉しいと思うから。
(そしてわたしは、お前が嬉しそうな顔をしていると嬉しいんだ)
思いながら見つめるルーランの顔は、変わらず瞼を閉じたままだ。
そっと頬に触れると、そこは仄かに温かい。胸元は上下しているから息もしているのだ。生きては、いる。
ただ目覚めないだけで。
「……」
リィは滲んできた涙をグイと拭った。
泣くのではなく——いや泣いてもいいのだが、彼が目覚めてからのことを考えよう、と思った。
椅子に腰を下ろし、ルーランの手を握り、またシーツに横顔を伏せる。
そう。
目が覚めたら——。
彼の、目が覚めたら……。
「!?」
あ。
あ!!
——寝てた!
「痛っ!」
はっと顔を上げ、次の瞬間、リィは首の痛さに悶絶した。
顰めた顔に、朝陽が眩しい。病室はすっかり明るくなっている。清々しい朝の空気。
あのまま眠ってしまったのだ。
「ああ、もう……」
首をさすりながら立ち上がる。
迂闊だった。記憶がない。落ちるように寝てしまったのだろう。
……無断で外泊してしまった。
別にもういい年なのだからそれぐらい構わないはずなのだが、連絡もせず帰宅しないというのはリィの中では「だらしない」というカテゴリに入ってしまう行為なのだ。
それに、ばあやたちが心配しただろうなと思うと胸が痛む。
しかしその目をふとルーランに移した途端。
リィの胸の中に、ぽっと暖かさが灯った。
朝陽の中の彼は、まるで本当に「眠っているだけ」のように見えたからだ。
あと少しで起きるような、そんな貌に。
(そういえば、朝の彼を見るのは初めてかもしれないな……)
絶対にそうしなければと決めていたわけではないが、なんとなく一日の終わりにここへきて、その日あったことを話すのが当たり前になっていたから、朝の彼を見るのは新鮮な気分だ。
「……おはよう」
リィは、目を閉じたままのルーランに話しかけた。
答えはない。それでも、そっと微笑んで髪を撫でる。
光の加減のせいだろうか。血色が良く見えて、なんだか、こうして触れれば触れるほど、彼は「眠ってるだけ」のように思える。
「朝のお前を見るのは初めてだが、悪くないな。わたしは無断外泊をしたのも初めてだ。今朝は初めて尽くしだな」
言いながら彼の頬を撫で、つと、リィはその手を止める。
(…………)
しばし考え、背後を確認する。
もう一度。
もう一度。
都合三回確認すると、リィは意を決し、息を詰め、そろそろと身を屈める。
ルーランの唇に自身のそれを近づけていく。
「いけない」ことだとはわかっている。
けれど、触れたくて堪らなかった。
少しだけ。
ほんの少し——触れるだけ。
リィは息を止め、ぎゅっと目を瞑り、掠めるような口付けを交わす。
ほんの、一瞬。
それでも、触れた唇は間違いなく彼の唇で、温かだ。
それを実感すると、なんだか唇が擽ったくて、自身の唇がやけに気になってしまう。彼の唇を見つめてしまう。
「朝に会うのも、いいな」
リィはルーランを見つめたまま、はにかむように呟いた。
なんだか一日を幸せに過ごせそうだ。
本当は、朝も昼も夜も。
ずっと一緒に過ごしたいのだけれど。
「……」
それは我儘かな。
滲んで溢れた涙が、ルーランの頬に落ちる。
我儘、でも。
「起きろ」
リィは目を閉じたままのルーランに向けて言った。
「ルーラン、もう朝だぞ。起きろ。起きて、一緒にどこかに走りに行こう。お前の好きなところでいい。お前の好きなところで、好きなだけ……今日は天気もいいから……」
そこまで言うと、声が声にならなくなる。
リィは天井を仰いだ。嗚咽を殺して、はあっと息をつく。
ややあって、再びルーランを見ると、
「……また来る」
ぎこちないながらも笑顔を作って言った。
「また来る。多分夜だ。その間に起きてもいいからな」
そして彼の頬に溢れていた涙をそっと拭ってやると、病室を出ようと踵を返す。
その時。
「————」
呼ばれたような気がして、リィはびくりと足を止めた。
息も止まる。
嘘だと思った。聞き間違いだと。
でも全身が耳になる。
背後の気配を全身で探りながら振り返ると、突進する勢いで寝台に取り縋る。
「ル……」
呼びかけようとした声が止まる。
リィの手に、手が重ねられていた。
動かなかったそれが、今はリィの手に重ねられていた。
息を詰めて見つめるリィの視線の先で、彼の騏驥がゆっくりと瞼を上げる。
蜂蜜色の瞳。陽の光と同じ色の——。
「ルーラン!!」
歓喜の泣き声と共にリィがその名を呼ぶと、ルーランは二度、三度と目を瞬かせ、リィを見る。
「リィ……」
目が合った途端、呼ばれた途端、リィはとうとう耐えられず涙を零した。
今まで散々泣いたのに、また涙が出る。
それも今までより熱く、たくさんの涙だ。
後から後から溢れて、止まらなくなる。ルーランの顔を見たいのに、涙で全然見えなくなる。
「ルーラン……! ルーラン! ルーラン……っ……」
重ねられていた手をぎゅっと握り、確かめるように彼の名を呼び続ける。
「ルーラン——!」
嗚咽混じりにその名を繰り返すと、空いている手でそっと抱き寄せられ、幾度も幾度も頭を撫でられた。
宥めるように、慈しむように。優しく優しく。何度も何度も。
「ルーラン……」
「あんたが無事で、よかったよ」
ルーランは微笑んで言った。
「あんたを助けられてよかった……」
でもあんたって泣き虫なんだな。
微かに笑ってそう言うと、ルーランはリィの涙を拭ってくれる。
あの日のように拭ってくれる。
だからなおさら涙が止まらなくなる。
抱き寄せられ、ルーランの胸の中にそっと抱きしめられた。
「あんたの声が聞こえた」
リィを胸の中に抱いたまま、ルーランは言った。
「あんたの声が、聞こえた」
繰り返す声に胸がいっぱいになるのを感じながら、リィは幾度も頷く。
呼んだ。——呼んだ。何度も何度も。——何度も。
届くと信じて。
いつか、届くと信じて。
顔を上げると、間近で視線が絡む。
微笑む瞳。片方だけでも、それは変わらず美しい。
泣いたままリィも微笑むと、目の前の笑みは一層深くなる。
頬に指が触れる。触れた指が、涙を拭う。
指はそのまま優しく髪を梳き、リィをさらに引き寄せる。
顔が近づく。目を閉じると、吐息混じりに名を囁かれ、唇に唇が触れる。
離れていた間を埋めようとするかのような、長い永い口付け。
それは、とても甘く、ちょっぴり塩辛く、そして喩えようもないほどの幸せの味がした。
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