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79 騎士

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「ありがとうございました!」


 感謝と感激に溢れた声でそう言い、深く頭を下げて去っていった生徒を笑顔で見送ると、リィは帰り支度を始める。
 騎士学校での特別講演——いや、「講演」なんていうのは言う面映い——卒業生の一人して、先輩の一人として、在校している生徒たちに現役の騎士としての話を終えたリィは、その後の生徒たちからの山のような質問を、今やっと全て答え終えたところだった。
 なんだか、話をしていた時間よりも長くなってしまったかもしれない。
 すると、

「お疲れ」

 そんなリィに、もう誰もいなくなったと思っていた講堂の一番後ろから声がかかった。
 本日のこの企画の主催者である、ヴォエン正教官だった。

「すまなかったな。講演だけでもよかったのに、なんだかこんなに遅くまで」

「いいえ」
 
 リィは首を振る。
 確かに、思っていた以上に大勢の生徒から質問攻めにあったが、ある程度は予想していたことだ。
 それに、生徒たちが質問したい気持ちは誰よりよくわかっているし、彼ら・彼女らの積極性も意欲も嬉しかったから、ついつい尋ねられるままに答えてしまった。
 こんなに遅くなってしまったのは、自分のせいでもあるのだ。
 とはいえ、こちらは時間の制約のない立場だが、生徒たちは色々な決まりに縛られているはずだ。
 最後に講堂を出ていった生徒や、ずっと質問の順番待ちをしていた生徒たちが怒られていなければいいのだが……。

 リィはヴォエンと連れ立って講堂を後にしながら、その件を彼に尋ねてみる。
 すると、彼は「大丈夫だ」と笑顔で頷いた。

「もしかしたら、こうなるかもしれないと思って、以降の授業の教官たちには話を通してある。心配ない」

「そうですか」

 よかった。

 リィはホッとする。
 せっかく話を聞いてくれて熱心に質問してくれた生徒が怒られることになっては申し訳ないな、と思っていたのだ。
 
 そのまま、連れ立って講堂を出ると、辺りはもう夕焼けに赤く染まっていた。
 校舎が、庭が、道が。淡く赤く染められている。
 綺麗だ、とリィと思った。

 そしてこの綺麗な景色を「彼」にも見せてやりたい、と。
 
 見たらなんと言うだろう?
 リィと同じように「綺麗だ」と感激するだろうか。
 それとも——この美しい赤い色から同じ色の果実を想い、それを食べたがるだろうか……。

 想像すると、それだけで目の奥が熱くなってしまう。
 こんな場所で、他人の前でみっともない姿は見せられない。
 
 リィは何度か瞬きして込み上げて来たものを押さえ込むと、

「では、わたしはここで」

 笑顔でヴォエンに挨拶する。
 
「ああ」

 ヴォエンが頷いた。

「今日はありがとう。また機会があれば頼んでもいいか」

 元生徒であるリィにも丁寧に頼んでくる彼のその様子から、教官が自分をとても案じてくれているのが伝わってくる。
 そしてこうしてリィの気が紛れるような誘いをかけてくれる。
 ありがたいことだ。

 でも。

 その問いにリィは応えないまま、騎士学校をあとにした。

















 あの日から、ひと月が過ぎていた。
 リィが、騎士会による救援——捜索隊に助けられた日から、それなりに多くの日々が過ぎていた。
 あの日、リィが見つけられ助けられたのは、結局陽が傾きかけた頃だった。
 ルーランによって檻が壊され、自由になったリィは、陽の直射と熱を避けてあの小屋に身を潜めていた。
 そこを助け出されたのだ。
 
 つまりルーランがいなければ——彼が助けてくれなければ、今リィは騎士として話をすることはできていなかっただろう。大きなダメージを受け、騎士でいられる十分な健康さを維持できていなかったに違いない。
「元・騎士」になっていたかもしれない。






「でももしかしたら、遠くないうちにそうなってしまうかもしれないな」

 二人きりの病室。
 リィは椅子に腰を降ろし、寝台の上に横たわって動かない「彼」の手を握ったまま、そう呟く。

 あの日から、ひと月が過ぎていた。
 ルーランが、自身の片眼とその命のほとんどを犠牲にしてリィを助けてから、それなりに多くの日々が過ぎていた。

 だが彼は未だ目を醒さなかった。
 
 今は、この手が温かいことだけが、リィの唯一の希望だ。
 あの日から、彼は目を覚まさない。それでも。
 この温もりは、微かだが、間違いなくここにある希望だ。
 それを撫で、両手で包むようにして握ると、リィは自身の頬に押し当てる。

 うん。

 大丈夫。
 温かい。

 彼は生きている。


 リィは祈るようにぎゅっと目を閉じると、握っている手に力を込める。
 そして数秒後——そっと目を開ける。
 目を開けて、彼を見やる。

 数秒前と変わらない彼の姿。
 
 リィは何かを堪えるようにぎゅっ唇を噛むと、ふうっと長く息をつく。

 そして改めて「彼」の手を撫でると、今日あったことの話を続ける。
 昨日と同じように。一昨日と同じように。五日前と、十日前と、二週間前と二十日前と同じように。
 自らが回復し動けるようになり、ルーランの状況を知ったあの日から、ずっと。


「——だからヴォエン正教官からの次の頼みにも、頷けなかったんだ。わたしはいつまで騎士でいられるかわからないなと思って。ああ——もちろん身体が鈍らないように、毎日自分の訓練はしているさ。なにしろ、お前が助けてくれた身体だ。お前が助けてくれた騎士の身体だ。腐らせる気はない。でも……」

 リィは言葉を切る。
 無言で、ルーランの手を何度もさする。
 指の全てには包帯が巻かれている。
 この右腕はそれはひどい傷だったらしく、今までに二度手術した。

「でも……わたしは、お前以外には乗りたくない……」

 呟くように、けれど心からの想いを、リィは口にした。
 そして、はは、と短く笑う。

「だからこのままでは、わたしは『元・騎士』もしくは、名ばかりの騎士になってしまうな。お前が目を覚まさないと、わたしも、あいつとかあいつとかあいつのような、役立たずの騎士の仲間入りをしてしまう。そんなのは、嫌なんだが」

 話しているうち、嗚咽が込み上げてくる。
 誤魔化すようにもう一度笑ったが、その笑いは虚しく静寂に溶ける。


「だから、早く目を覚さないか。もう十分休んだんじゃないのか。なあ、ルーラン? ——そうだ、お前もわたしの話が聞いてみたいと言っていたじゃないか。起きれば聞けるぞ。お前が起きたら、わたしはまたお前の騎士としてお前に乗って、いろんなところへ行くんだ。一緒に。そしてわたしは騎士としてまた生徒たちに話をすることになるだろう。だからお前もわたしの話を聞くことができるぞ! 聞かせたくないけれど、特別に許してやってもいい。だから…………」

 話しているうち、涙が溢れた。
 いつもそうだ。毎日そうだ。
 毎日毎日、よくもこんなに涙が出るものだと思う。
 泣いた顔で帰宅すると屋敷の者に気を遣わせてしまうから、毎回病室に来る前は「今日こそ泣かないようにしよう」と思うのに。


「……ルーラン」

 リィは、彼の騏驥の名前を呼んだ。
 騎士であるリィの言うことを聞かず、やりたいようにやり、言った通りに彼を助けた騏驥の名を。
 
「ルーラン……目を開けろ! 起きろ!」

 リィは彼の騏驥の名を叫んだ。
 騎士である彼にとって特別な、素晴らしく勇敢な騏驥の名を。


「ルーラン……」


 あの時も、何度も名を呼んだ。
 やめて欲しくて。やめさせたくて。
 でも彼はきいてくれなかった。

「お前は本当に……気性が悪いな……」

 泣き笑いのような声で言うと、リィは彼が横たわる寝台にぺしゃんと顔を——頬を押し付ける。涙が後から後からシーツに吸い込まれていく。
 このままいたら首が痛くなりそうだ。でもこうしていると彼を近くに感じられる。

 どうやったら目を覚ますのだろう?

 ため息をつくと、リィは顔を上げ、腰を上げ、身を乗り出すようにしてルーランの顔を見る。
 右目は包帯で隠れている。
 左の瞼は閉じたままだ。

 リィはそっと背後を確認した。
 二人きりなのはわかっているが、つい誰もいないか確かめてしまう。
 そしておずおずとルーランの唇に触れると、その指で自身の唇に触れる。
 次いで再び、その指でルーランの唇に触れた。
 それだけで、耳が熱くなる気がする。

 御伽噺では、こうすると眠りから覚めることが度々ある。
 否。「こうすると」ではなく、物語の中では「接吻すると」なのだが、意識のない相手にそんなことをするのは「いけない」気がして、毎回こうすることにしているのだ。
 だが目覚めないということは——。

「……これでは効果が弱いのだろうか……」

 リィはため息をつく。
 とはいえ、立場が逆なら接吻でもいいが、ルーランは……。

『だめだろ』

 あの日、小屋で聞いた彼の優しい拒絶の言葉が脳裏をよぎった時。
 コンコン、と控えめに扉が叩かれ、リィは驚きに飛び上がった。

「ど、どうぞ」

 慌てて涙の残ってる目元を拭い、うわずった声で返事をすると、入って来たのはニコロだった。

「こんばんは。あれ、なんだかいい香りですね」

 彼は屈託なく近づいてくると、微かに鼻を鳴らす。
 リィは内心の動揺を押し隠しつつ、「うん」と頷いた。 

「林檎の香りのサシェを持ってきた。彼は林檎が好きだから」

「ああ、なるほど。いいことです。そうした刺激に反応することもありますから」

 笑顔で頷きながら、彼はルーランの患部に触れていく。
 髪を解いている——ということはこれは治療だ。さりげないが、相当な魔術力が使われているのだろう。もう夜で、彼も疲れているだろうに。

 リィは改めて医師に感謝の念を抱いた。
 ルーランがここまで回復できたのは、間違いなく彼らのおかげだ。
 身体中の怪我も、彼らの判断と処置のおかげで最悪の事態を避けることができた。
 明日見舞いに行く予定だが、ダンジァも今後のリハビリ次第でまた騏驥として復帰できそうだという。

 ニコロの治療を見つめながら、リィは話を続ける。

「また本物の林檎も持ってこようと思ってる。明日は彼の馬房の掃除に行くから、その時に好きそうなものも……」

「馬房の掃除!?   リィ様がですか!?」

「ん? うん。変か?」

「変、というか……」

 騎士の方でそこまでする方はいませんよね?

 ニコロに問われ、「ああ」と得心する。
 確かにそうかもしれない。でも。

「でも、わたしは掃除は嫌いではないんだ。彼が戻れた時のために綺麗にしておきたいし、それに……」

 そのための掃除を、他の者にやらせたくない。

 そう言いたかったものの、なんとなく言うのは恥ずかしくて、「とにかく嫌いではないから」と強引に言い終える。
 ニコロは一瞬不思議そうな顔をしたものの、「そうですか」と笑顔で言った。

「何にせよ、騎士の方と騏驥の仲が良いのは喜ばしいことです」

 そしてニコニコとそう続ける。
 彼にはいろいろなことで世話になった。いずれも騏驥のことだが、本当に好きなのだなと改めて思わせられる。
 
 ただ。

 ルーランを好きな度合いでは絶対に負けないけれど。 

 リィは自分の気持ちを確かめると、慈しむようにそれを静かに撫でる。
 胸の中にずっと沈めているその気持ちは、もう確かなものだ。
 もう誤魔化さない。偽らない。
 そんなことをして、後悔するのはもう嫌なのだ。 

「うん」

 リィは頷いた。
 もう遅い——のかもしれない。それでも自分の気持ちは変わらない。
 もしこのまま彼が目を覚さなくても、それでも自分の気持ちは変わらない。
 成就しない想いでも。

 リィは、再びルーランの手を撫でる。
 リィを撫で、励まし、助けてくれた手を。


「やっと……やっと仲良くなれた、気がするんだ。だから……これからもずっとそうあろうと思う」

 
 彼はわたしの騏驥で、わたしは彼の騎士だからね。


 リィがそう言うと、ニコロはいつもより大人びた表情で「そうですね」と深く頷いた。
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