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73 理由

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<身体、痛くないか>

「……大丈夫だ」

 結局、あの後ルーランは再び馬の姿になった。
「その方がいいだろう?」と尋ねられれば頷くしかなく、今、リィは姿を変えたルーランに凭れるように座っていた。
 その心中は複雑だ。

 さっきもそう感じたけれど、大きな身体に寄り掛かるのは安心する。それだけで守られている気がする。騏驥の特長の一つだろう。
 しかも温かだ。寄り添っていると全身がじんわり温かくなって心から寛げる気がする。さらに毛並み良く肌触りがいいときているのだから、身体の力を抜いて身を委ねているとふわふわの毛布に包まれているような気持ちよさだ。
 ずっと触れていたくなるような。

 それに——。

 リィはルーランの滑らかな腹部を撫でながら想う。毛並みの上から触れてもわかる、しなやかに引き締まった綺麗な身体。無駄な肉なんて一欠片もないだろう。
 俊敏で強く逞しい騏驥の姿。
 けれど今、彼はその自身の身体を無防備に晒している。
 ——こちらに。

 動物が腹を見せる意味はリィだってよく知っている。しかもその辺りを平気で撫でさせるなんて……。彼がこちらを信頼してくれている証だ。
 
 そう。
 彼は今、リィを守ってくれながらリィに全てを委ねてくれているのだ。
 それを思うと、彼との間に特別な、確かな絆があるのだと感じられる。
 感じられて、それがとても嬉しい。
 嬉しい——のだ。間違いなく。

 これは、彼が馬の姿でいるからこそ感じられる嬉しさだろう。
 人の姿だったなら、こんなに……こんなに近づくことは「間違い」だから。
 彼の身体に凭れて、そこを幾度も撫でることも。その肌に頬を擦り寄せることも。

 だから、これは「正しい」ことなのだ。
 馬の姿になった彼の判断も。

 彼の身体に寄り掛かっていると、温もりとともに彼の息の音や心臓の音まで伝わってくる。

『だめだろ……こういうのは……』

 そうしていると、彼の声が蘇る。
 温もりと、息の音と心臓の音を感じ、それ以上のことも知った後に告げられた言葉。
 更に彼は、馬になる前自嘲するように言った。

『疲れてると、色々間違えかねないな』
 
(うん……)

 リィは胸の中で頷く。
 その通りだ。
 ——その通りだ。
 
 今、二人ともとても疲れていて、だから危うく間違いかけた。

 だからこうしている今が正しい。
 正しい、のだ。
 父のこともある。自分は「間違う」わけにはいかない。

 リィは自分に言い聞かせる。

 正しくて、そしてこうしているのは心地いい。
 なんの問題があるだろう?

<寝てもいいぜ>

 と、そんなリィにルーランの声がした。
 あれこれ考えているうちに、いつの間にかうつらうつらしていたのだろうか。
 リィはしゃんと背筋を伸ばそうとする。が、温もりが気持ちよくてまたふにゃりとルーランの身体に凭れてしまう。

<何かあれば、ちゃんと叩き起こしてやるよ>

「大丈夫だ。それよりお前は……ここで休むより早く王都を目指したほうがいいんじゃないのか」

 言いながら、リィはルーランの首と二本の脚に嵌められている「輪」にそっと視線を向ける。
 まだ、大丈夫だけれど……。
 
 ほっとしつつも不安になるリィに、

<まだ大丈夫だ>

 同じことを言うルーランの声がした。
 彼は続ける。

<俺がどうなるかは、賭けだな。運次第だ。とはいえ、そこまで分の悪い賭けとも思ってない。『塔』もダンジァを通して、この件に魔術が関わってることを知っただろうから、知れる限りのことは知りたいだろう。俺の行動を許さないとしても、処罰は王都に戻ってからでも遅くないはずだ。まあ、そんな猶予も許さないぐらい怒ってる可能性もあるけどな>

 苦笑混じりの声は、普段の彼のそれと変わらない。
 無理をして強がっているようには聞こえない声だ。
 それがリィをほっとさせる。

 彼が死んでしまうところなんて見たくない。当たり前だ。
 自分を助けに来てくれたせいでそんな目に遭うなんてあんまりだ。

(そう——)

 そうだ。
 彼は自分を助けにきてくれた。
 自分の命も顧みずに。

 改めてそれを思うと、不謹慎だと分かっていてもなんだか……なんだか幸せになってしまう。
 嬉しい。
 彼の声が聞こえた気がした時、本当に嬉しかったのだ。
 そして彼が現れた時……。
 夢かと思った。でも夢じゃなくて……。

 リィはルーランの身体の温もりに包まれながら、ふふ、と小さく微笑む。
 寄りかかっていると気持ちがいい。なんだか甘えているみたいで恥ずかしいけれど、人の姿の彼にはできないことができているのも嬉しい。
 ルーランも馬の姿だからかリィに好きなようにさせている。
 彼の馬房で最後に会った時は、彼にのし掛かられて、もし彼が馬の姿になったら潰されると思っていたから、怖くてたまらなかった。
 でも今は、そんな不安もない。

(うん……)

 リィは胸の中で小さく頷く。
 うん——これでいい。これがいい。

 彼に触れられた箇所は、まだその温もりを覚えている。腕の強さを覚えている。唇は、まだその感触を覚えている。髪を梳く指の優しさも、名前を呼ぶ声の、熱に浮かされたような切なく掠れた様子も、全部。

 でも——。

 自分とルーランの関係は、これぐらいがちょうどいいのだ、きっと。
 自分たちの騎士と騏驥としての距離感は、きっと……。

 
  
 考えていると、とろとろと眠りに落ちそうになる。リィはそれに抗うように言葉を継ぐ。

「ああ……そうだ……ん……でも、お前、どうしてわたしを探しに……?」

 意識がふわふわする。
 囚われていた時に感じた、妙な感じの意識の混濁ではなく、ただ気持ちよさに包まれている。

「そんな無茶をしてまで……」

 なんとなく口の端に乗せた質問だった。
 眠ってしまいそうだけれど眠りたくなくて、だから話の接穂に問うてみただけだったのだ。
 と、そんなリィにルーランは言った。

<ああ——うん……実は俺、あんたが計画してたことを聞いたんだ。……ルシーに会って>

「…………」

<ニコロが会わせてくれた。それで……いろいろ話を聞いて……>

「…………」

 その時のことを思い出しているのだろう、ルーランはしみじみとした声で言う。
 そして更に言葉を継ぐ。
 だが、リィには急に彼の声が聞こえなくなった。耳はそれを聞いているはずなのに、ほとんど何も聞こえてこない。
 ただ胸の中が急激に冷えていくのを感じていた。

 ルーランはリィへの感謝の言葉を口にしている。
 誤解していたと謝ってくれている。
 なのに何故かその声は遠い。さっきまではすぐ側から聞こえていたのに。
 どうして胸の中はもやもやするのだろう。静かに冷たくなっていくのだろう。

 確かに、自分はルシーのためを思って動いた。彼女が処分されることはなんとしても止めたかったし、できれば彼女にとって一番いい余生を提供したかった。
 あの場にいながら、彼女を助けられなかった騎士として。
 彼女にために。
 ルシーを慕っているルーランのためにも。

 だから。

 だからルーランの言動は何も間違っていない。むしろリィにとって本望のはずだ。
 リィのしていたことを知って、感謝してくれている。それが一番の目的ではないにせよ、感謝されれば嬉しいものだ。
 そして彼は、それを契機にリィを助けにいく気になったらしい。
 ルシーに会ったことを契機に。話したことを契機に。
 ルシーを契機に。

 それが、理由。

「…………」

 リィは、自分の身体が、すっかり冷たくなってしまったように感じられた。
 さっきまでのふわふわとした温かいような満たされたような心からの気持ちよさは、今はもう欠片もない。
 いったいどこに消えてしまったのだろう。

 確かにあったはずなのに。
 彼はわたしを助けに来てくれて……。それがとても嬉しくて……。

 なんだろう、これは。
 なんでこんなに胸の中が淀んで、悲しくなるのだろう。
 彼は何一つ間違ったことをしていない。言っていない。
 自分も何も間違えていないはずだ。なのに。

<ああ、そういえばあの時初めてニコロが髪を解いてるのを見たな。あれは、何か意味があるのか?>

 当時のことを思い出しているらしいルーランが、屈託なく尋ねてくる。

「人や場合にもよるが、魔術を使う時には媒体を必要とすることがある。石や符がわかりやすいが、髪のように身体の一部を使うこともある。その時のニコロは自身の髪を使ったんだろう」

<ああ——なるほど。じゃああんたが髪を伸ばしてるのも?>

「そうだ。正装の時に髪を結う必要があるのが一番の理由だが、そういう側面もある」

 リィがひとつひとつ丁寧に答えると、ルーランは満足そうに頷く。
 リィも笑顔で頷くけれど、なんだか、そうしている自分が自分ではないかのようだ。声も自分のもののように思えない。
 
「…………」

 リィは、これ以上何も考えたくなくてルーランの身体に寄りかかったまま目を瞑った。

 眠ろう。
 
 そうだ。眠ってしまうのだ。何も考えず。
 
 そうすれば何も聞かなかったことにできる。
 何も聞かなかったことにすれば、今も胸の中でジリジリとうねるこの澱みもきっとなくなるに違いない。

 こんな——嫌な、膿んだような不快さも消えてなくなるはずに違いない。
 リィは不安から逃れるように小さく丸くなる。

<リィ?>

 すると、そんなリィの様子を不審に思ったのか、ルーランが気遣うように声をかけてくる。
 だがリィは眠ったふりでその声を聞こえなかったふりをした。
 
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