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37 囚
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「お待たせしました」
診療所となっている大きな天幕の中から姿を見せた医師の青年は、疲れた顔をしつつも、リィに律儀に会釈した。
ニコロ=トゥミ=ノク=ネクタ。
普段の彼は、若さとも相まって、少々頼りなく思えるほど和やかな雰囲気を醸し出しているのだが——。
今は様々な意味での疲れのせいだろう。心なしか面やつれし、見るからに辛そうだ。
野営地への一時撤退がなんとか完了して、約半日。
負傷した兵馬や騏驥たちが休息をとり、治療に専念する一方で、リィたちは軍議漬けだった。
他でもない、これからどうすべきかについてだ。
王都まで引き上げるか否かという根本的な点はもちろんのこと、再び兵を進めるならどういう作戦を採るか、援軍の要請はするのかしないのか……。
人が多くなった弊害がここでも露わになり、どれだけ続けても全くまとまりそうにない話し合いが重ねられていたのだった。
しかもリィのような立場では、単に「参加しているだけ」の軍議だ。
そんな軍議が、夜も更け、ようやく一旦水入りになったタイミングで、リィはとるものも取りあえず、医師の元へやってきたのだった。
騏驥たちの様子を、詳しく知りたくて。
リィは「こちらこそ忙しいところ済まない」とニコロにことわると、「それで、皆の様子はどうだろう」と控えめに尋ねる。
ニコロはリィを安心させようとしてか、さっきよりはいくらか穏やかな貌で口を開いた。
「騏驥は、ほぼ全頭がなんらかの傷を負っておりますが、幸い、ほとんどの者は命に別状はありません。ただ、煙を吸ったせいで治療に時間がかかりそうな者もおりますので、彼らについては、今後の戦況がどうなるにせよ、すぐに王都に返すよう手配をいたしております」
「そうか…………」
皆、後遺症なく治ればいいが……と願いつつ、リィは頷く。
ややあって、
「ルシーは……どうだろうか」
本題に入った。
自分でも、声がいつもと違っているのがわかった。
瀕死のルシーは、あの後、駆け付けた医師たちによって運ばれて行った。
それからどうなったのかは、なによりも気になっていたことだ。
だが、答えを聞きたいのと同じぐらい聞きたくない。
途端、顔色を曇らせるニコロに、リィもまた自分の頬が強張るのを感じる。
ニコロは、ゆっくりと首を振った。
「彼女は……いい状態とは言えません。先ほど申し上げたように、すぐに命がどうこうというわけではないのですが、とにかく消耗と怯えが酷くて……。治療をしようにも、僕でも触れないんです。このままでは状態が悪くなる一方です。それに……」
ニコロが悲しそうに顔を歪める。
「それに……自身の姿を人か馬かのどちらかに保つことも、もう上手くできないみたいで……」
「…………」
人の姿と馬の姿。それらが入り混じった、あの残酷な姿が脳裏を過ぎり、リィは思わずきつく眉根を寄せた。
(あんな——あんな酷いことをよくも——)
ゾイエの愚行を思い出すと、怒りに全身が震える。
目の奥が赤くなる気がするほどだ。
仮にも騎士が、無抵抗の騏驥を相手に、それも人の姿の騏驥を相手に、よくもあんな恥知らずな真似が出来たものだ。
残酷という言葉でもまだ足りない。
しかも、あんなことに及んだ理由が、自身が安全に逃げ出すためだとは。
その上彼は、あんな騒ぎを起こしておきながら、騎兵たちに護られてここへ戻ってきてからは、自分の犯したことは棚に上げてルーランの行為について騒ぎ始めたのだ。
そのせいで、今彼は拘束され監禁されてしまっている。
疲れ果ててここへ戻ってきた途端、捕らえられ連れられていったルーランを思い出し、リィは唇を噛む。
彼があんな暴挙に至った心情は理解できるし、もちろん彼の弁護はするつもりだ。だが、騏驥として最もしてはいけないことの一つを犯してしまったのもまた事実。
この後、彼にどんな処分が下されるか考えると気が重いどころではない。
宥められなかった自分の未熟さに後悔ばかりだ。
「……彼女は、これからどうなるのだろうか。親元へ戻る、と言っていたが……」
暗い思いに囚われつつも、医師であるニコロならなにか少しでも光の見えそうな提案をしてくれるのでは、と淡い期待を抱きつつルシーの今後について尋ねてみる。
だが、そんな都合のいい返答は与えられなかった。
「…………どういう条件で戻れるようになっていたのか、詳しいことはわかりませんのではっきりとは申し上げられませんが……。おそらく、その話は『なかったこと』になる可能性が高いかと思われます。もちろん、これからの経過でどうなるかはまだわかりません。王都に戻り、効果的な治療が出来れば……あるいは……。ですが……今の状況のままでは……」
言葉を濁し、申し訳ありません、と頭を下げるニコロに、リィは慌てて「いや」と頭を振る。
彼のせいではない。
彼はやれるだけのことをやってくれている。むしろ医師である分、きっとリィより歯痒い思いをしているに違いない。
目の前の医師の姿からは、もどかしさや悔しさが伝わってくる。
そんなニコロを見つめたまま、
「それと……ルーランは……」
リィは、最後に自身の騏驥について尋ねた。
なるべくさりげなく切り出したかったが、上手くいったとは言いがたい。
するとニコロは、
「お会いになりますか?」
と訊ね返してくる。
リィは自分の胸が大きく鳴り、続いて鼓動が早くなるのかわかった。
ここまで戻る間、彼は一言も話さなかった。
再び馬の姿に変わり、それまでと同じように敵を蹴散らし、騏驥としての仕事をしていた時も、ずっと。
一言も話さず、まるで心などもう失くしてしまったかのように、ただ淡々と仕事をしていた。
もしくは——全てを拒絶してしまったかのように。
敵と戦っている時は、それでもよかった。
意思の疎通ができていないと感じていても、それでも互いに生きることを考えていれば良かったから。
けれど、今ここに至っては……。
改めて彼と会うとなると、どんな顔をすればいいのかわからない。
彼と対峙して、いったい何を話せばいいのか……。
(だが……)
彼の、ルーランの状態が気になるのも本当だ。
知らないままではずっと落ち着けないだろう。軍議の最中ですら、彼が今どうなっているのか気になって堪らなかった。
「出来れば会いたい……が……。彼はゾイエ殿の訴えによって拘束されている。
王都に戻って裁決が下るまで、わたしとは会えないのではないか……?」
そろそろとリィが尋ねる。
と、ニコロは「どうぞ」と白い衣を差し出してきた。
頭からすっぽりと被れる大きな衣だ。
「たとえ罪を犯し、裁決待ちの騏驥だとしても、適切な治療を受ける権利はあります。それを被って、医師のわたしの助手としてついてきてください。あまり格好がいいとはいえませんので、申し訳ないのですが」
「いや……感謝する」
リィは言われたようにその白い衣を被った。
頭から足元までがすっぽり隠れる。歩きづらそうだが、贅沢は言えない。むしろこれを準備してくれていたニコロには心からの感謝しかない。
「あ……あと、見張りを誤魔化すために少しばかり偉そうな口を聞くかもしれませんが、それもご容赦いただければ……」
「もちろんだ。気にするな。全てあなたに任せる」
「わかりました。では、ついてきてください」
言うと、ニコロはリィに小さな籠を渡して歩き始める。
薬草の香りがするそれを手に、リィは医師に続いた。
そして歩いて歩いて——見張りも幸い問題なく通り過ぎ、さらに歩いて辿り着いたのは野営地の端の端。
こんなところがあったのかと思うほどの寒々しい一角だった。
岩肌がむき出しになった荒れた地に、符とジェムでこれでもかと言うほど結界が張られている。
(こんな……)
これではまるで、大罪人を閉じ込めるためのそれのようではないか。
まだどんな罪とも決まったわけでもないものを。
あまり扱いにリィが顔を歪めると、
「『そこまでしなくても』と申し上げはしたのですが……」
しないようなら、代わりに見せしめのために縛って陣の真ん中に転がしておけ、と仰られまして……。
「まだこちらの方がましかと……。本当はどちらが良かったのかはわかりませんが……」
ニコロが暗い声で言う。
おそらく、ニコロもこの結界関わっているのだ。
これだけの結界を巡らせるには、相当に強力な魔術が必要になる。
つまり、相当に強力な魔術を使える者が。——魔術師が。
だが、そんな理由だったとは。
リィは吐き気のする想いだった。
見せしめ?
誰がどの口でそんなことを?
握りしめた拳が、爪が手のひらに食い込む。
だがそれほどまでに、騏驥の騎士への反抗は罪が重いのだ。
「殺されかけた」と言い張られれば、加害側である騏驥に対しては厳しくせざるを得ない。
ニコロはまだ進む。
辺りは静まりかえっている。
しかもほとんど灯りがない。二人の手元に発光石があるが、その明かりの範囲の及ばないところは、夜の暗さそのままだ。
「ここは……ひょっとしてもう陣の外なのではないか……?」
「はい……」
「! 大丈夫なのか!? こんな——」
こんな場所では、得体の知れない獣もふらりと姿を見せそうだ。
もしそれが人の肉を好むような獣だったら? 害を為すものだったら?
普段のルーランならそんな心配など必要ないが、今の彼は拘束されている。
『本当はどちらが良かったのかはわかりません』
さっきの言葉は、この状況も含んでのことなのだろう。
しかしニコロは答えない。
答えられないのだ。
ただ申し訳なさげに身を縮めるニコロに、リィは彼を責めるような発言をしてしまったことを悔やむ。
そうだ。これは彼のせいではない。
むしろ彼はわざわざ自分を案内してくれているのだ。
「リィ様」
やがて、彼は静かに足を止めた。
「この先を真っ直ぐに行かれれば彼がいます。わたしはこの辺りでお待ちします。ここなら声も聞こえないでしょうから」
「わかった」
「ですがあまり長い時間は取れません。どうかその辺りはお含みおきを」
「承知した」
リィは言うと、発光石の灯りを頼りに足を進める。
土の香りが強い。風の音がする。そして——気のせいだろうか? 獣の唸り声が聞こえるような気もする。
恐怖に、微かに背が震えた。思わず腰の剣を確かめてしまう。
ルーランは夜目が効く。暗くても辺りは見えているだろう。けれど見えていても逃げられなければ……。
(せめて、もう少しマシなところに移してもらえるように訴えなければ……)
リィは決心する。
見せしめなどという理由でわざと人前に引き出すのは論外だが、だからといってこれではあまりに酷い。
そうして、ニコロに言われたようにしばらく歩いていると、程なく少し開けた場所に出る。
その荒れた土の上に一人。
ルーランが——リィの騏驥が囚われていた。
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