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25 予兆

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 ニコロには悪いことをしたなと思いつつも、ルーランは足を止める気も戻る気もない。
 彼のことよりも、リィの方が気になっているからだ。

 ニコロの方は……まあ最悪怒られれば済むだろう。
 彼が最も神経質になっているのは騏驥が怪我をすることで、それさえ免れれば、基本的には問題ないはずだ。
 ああ、あとは他の騏驥や兵士たちと問題を起こさなければ(彼も言っていたように責任問題になってしまう)。

(それはまあ……運次第だな)
 
 それよりもリィだ。
 ルーランはここに着いてすぐに検査でリィと別れたから、その後、彼がどう過ごしたのか本当のところはわからない。
 けれど、検査中に天幕に出入りしていた医師や騏驥たちから聞こえてきた噂では、また面倒な軍議などが開かれていたらしい。
 人が大勢いるところを嫌っているリィが、にもかかわらずそれに参加しなければならないことを思うと、ルーランの眉間にも皺が寄る。
 リィが機嫌を損ねて、一番被害を受ける確率が高いのはルーランなのだ。

 ただでさえ、リィは遠征に出ると毎回どことなくナーバスになる。
 最初は「まあ戦闘があるし」と思っていたが、それ以外の時に落ち着かなくなっている様子で、ピンときた。
 おそらく、父親のことだろう
 リィは時折、ルーランの背の上から誰かを探しているような気配を窺わせることがある。

 普段の遠征からしてそうなのに、今回はそれに加えて、この遠征自体が彼を憂鬱にさせている様子だ。
 彼は騎士として手柄を上げることを望んでいるが、だからといって無闇に戦うことを望んではいない。
 なのにこの遠征だ。そしてそのきっかけは、おそらく、魔術師の部屋で会った、リィと親しいあの騎兵で……。
 
 とはいえ。
 
「…………」

 ここにたどり着くまでの道中のことを思い返し、ルーランはチッと舌打ちする。
 色々な想いが絡まり合っているリィの気持ちはわからなくはない。

 わからなくはない——が。

 面白くない、とも思うのだ。

 この俺に乗ってるときに——俺の背中の上で別のことに気を取られている、なんて。
 
 いっそ腹立ち紛れに暴れて落としてやろうか思いつつも大人しくしていたのは、大規模な戦闘を前に謹慎させられてはもったいないと思ったからだ。
 暴れられる機会が一つ減るのは惜しいと思ったからだ。

(まあ、そもそもリィなら少々ぼーっとしてたところで落ちやないだろうけどな)

 それでも面白くないのは変わらない。
 と同時に、彼のそんな様子は気がかりだった。
 まさか戦闘時に気を抜くことはないだろうが、万が一判断が遅れればルーランだってただではすまないのだ。

 騎士と騏驥は一蓮托生——ではあるが、より正確に比べるなら、やや騏驥の方が分が悪い。
 騏驥は危機察知の能力も回避の能力も優れてはいるが、それは騏驥単体であればの話。
 騎士を乗せていればその分動きは遅くなるし、もし意思の疎通がスムーズに行かなければ、一瞬の判断の遅れで窮地に立たされることにもなりかねないのだ。
 
 だからルーランとすれば、実際に戦闘になる前に、それとなくリィの様子を探っておきたかった。
 気分を切り替えられているなら構わないが、そうでないなら困る。
 
 ルーランはリィを探して歩きながらフンフンと軽く鼻をきかせてみる。
 目で、耳で、鼻で。全てで彼を探してみる。

 普段からきちんと身嗜みを整えているリィだが、逆に言えば彼はいつも必要最低限の身繕いしかしていない。
 皺一つない清潔な服と磨かれた長靴。鞭と剣。あとはせいぜい、髪を結ぶ飾り紐の色や装飾が少々違うぐらいだ。
 着飾ればそれはそれは綺麗だろうと思うのに、彼はそうしようとしない。
 香りもそうだ。

 騎士によっては「お前には鼻がついてないのか」と思うほど後付けの香りを強く香らせているものもいるが(そういう奴は大抵、録でもない貴族の子弟だ。「目に見えないもの・残らないものにこんなに金を使える自分」を誇示するためだけにやっている)、リィはそれが礼儀として必要とされる時以外は普段からどんな香りもつけようとしない。

 馬や騏驥といった、人よりもずっと鋭敏な嗅覚を持つものと接する騎士だから、と考えてのことだろう。
 確かめたことはないが、彼ならそう考えていてもおかしくはない。

 それに、彼はわざわざ後から香料などつけなくても、いつもとてもいい香りがするのだ。彼の肌から香る、ルーランの好きな林檎のような、爽やかだけれどどこか甘いような、そんな香り。
 すっかり覚えたその香りを探して、ルーランは人や馬の行き来する自陣の中を歩き回る。

(やっぱり多いな……)

 そうしていると、改めて人の多さに唸ってしまう。
 兵士の役割の違いなどルーランにはさっぱりだが、今までに比べて人が多いことはわかる。
 天幕の数もだ。
 
 ちらりと小耳に挟んだ話では、ここを拠点にして国境を越えることを目指し、その後は隣国の辺境にある城を奪取する……らしい。
 
 そう上手くいくのだろうか、と、最前線の兵器たるルーランなどは思うのだが、それを口にするほど馬鹿ではない。
 それに、考えることはこちらの仕事ではないのだ。
 
 騏驥がやるべきは敵のただ中に突っ込んでいき蹴散らすこと。より多く。より激しく。それだけだ。
 そしてそれだけのことをどの騏驥よりも上手くやるために、ルーランはリィを探している。
 
 しかし。
 匂いを追えばすぐに見つかるかと思いきや、人が多いせいか風向きのせいなのか、今ひとつ手応えがない。

(んー)

 そろそろ誰かに声をかけて尋ねるべきか、と考え始めたときだった。

「おい! 邪魔だ。こんなところをうろうろするな、騏驥が!」

 突然、明後日の方向から胴間声が聞こえた。
 目を凝らせば、ルーランからはやや遠く、心持ち大きな天幕と天幕の間で、鞭を手にした男が仁王立ちになっているのが見える。
 身なりからして騎士だ。それも「着飾りたい」騎士だ。
 つまり——ろくなやつじゃない。

 ルーランは0.1秒だけ「聞かなかったこと」にしようかと思ったが、直後、そちらへ足を向ける。
 あの「ろくなやつじゃない」男は「騏驥」と怒鳴った。
 騏驥は、馬の姿ならあの男よりも大きい。つまり、人の姿の騏驥を相手に怒鳴ったのだ。
 しかも、あの言葉からして自分が連れているわけではない騏驥を。
 見過ごせなかった。

(あーくそ)

 自分の耳の良さを呪いながら、ルーランは足早に男に近づく。
 やっぱり騏驥は人の姿だ。それも、多分女。男の向こうになんとなくその姿が見える。
 辺りには大勢の兵がいる。たまたま居合わせたのか男の取り巻きなのかはわからないが、ざっと見ればその表情は皆一様に強張っている。
 
(こんなの大丈夫か、俺)

 揉めずに丸く収めるのなんか無理そうだと思いつつ、しかしここまでくれば首を突っ込まざるを得ないだろうと、思った次の瞬間。

「聞こえないのか!?  さっさとあっちへ行け! この——」

 男が再び声を荒げ、あろうことか鞭を振り上げる。
 
「——!」

 ルーランは咄嗟に、背後からその腕を掴んでいた。
 びっくりしたように、男が振り返る。
 
「! 貴様!」
「?」

 男はルーランを見て顔色を変えて叫んだが、ルーランには覚えがない。
 
 ——ない。

(あ)

 いや、思い出した。
 確か、以前王城でリィにいちゃもんをつけていた男だ。
 名前なんか知らないが、父親のことでリィを侮辱した男の一人。

(こいつも今回の遠征にいたのか……)

 王都からここに来るまでの間には見なかった気がするが、と訝しく思ったものの、ここにいるということは遠征に参加しているということだ。

(…………)

 こいつのせいでリィと揉めかけたことを思い出し、ルーランは顔を顰める。
 会いたくない奴ランキングの中でもかなり上位の奴にここで会うとは。

 しかし会ってしまったものは仕方ない。
 ルーランはひとまず男の手を離す。と、男は何がおかしいのかニンマリと笑った。

「騏驥がとぼとぼと一匹で徘徊とは。どうした。あの『顔だけの騎士』に飽きられたか」

 相変わらず、聞いた者が不快になる声で、下卑た言葉を口にする。  
 鬱陶しいな、と思いつつもなんとか堪えて黙っていると、男はルーランが掴んだ手をこれ見よがしにさすって見せた。

「相変わらず無礼な騏驥だ。お前如きが私の身体に無断で触れていいと思っているのか!?」
「……」

 無断だろうが許可を得てだろうが、本当は触れたくもないしむしろ会いたくないですけどね、と言いたいのを堪え、ルーランは沈黙を守る。
 男の向こうから、小柄な騏驥がこちらの様子を気にしているのが見える。
 自らを庇った形になったルーランを心配てくれているのだろう。

(いいからあっち行きな)

 こんなクソに絡まれて可哀想に、と思いつつ、この場を去るように軽く手を動かして示そうとした、その瞬間。

「おい! 返事ぐらいしたらどうだ!」

 男は苛立っているような声を上げたかと思うと、手にしていた鞭をルーランの胸元に突きつけてくる。

 周囲が一斉に息を呑んだ。

 騎士が騏驥に鞭を突きつけるのは、相当に強い禁止・拒絶・非難の行為だということは、誰でも知っている。
 だから騎士は通常、自らが連れている騏驥にしかそれをしない。
 自分の管理下にない騏驥に対してそれをするのは、騏驥への、ひいてはその騏驥の本来の騎士への越権行為だからだ。
 騏驥の行為の責任は騎士にある。だから他の騎士が自分のものではない騏驥を「躾けてはいけない」のだ。

 ルーランは男を睨め付けた。

「……無礼はどっちだよ」

 流石に憤りがこみ上げる。
 自分がされたことに。つまりリィが軽んじられたことに。

 その声と視線に気圧されたのだろう。男は狼狽えたように慌てて下がる。頬が歪む。けれど、鞭はまだ突きつけられた格好のままだ。
 ルーランは男を睨んだまま、ジリっと距離を詰めた。

 お前は誰に向かって——そんなことをしている?
 
 無言のまま、殺す勢いで睨みつけると、男は圧されたように震え始める。

 次の瞬間。男はヒィッと悲鳴のような息を呑むような声を上げると、その鞭を振り上げ、ルーランに向かって振り下ろしてきた。
 踊るように悠々と身をかわし、ルーランは一層きつく目を眇める。
 
「なんのつもりだ?」

 男を見据えたまま、ルーランはまたじりっと距離を詰める。

「なんのつもりだって訊いてるんだ。聞こえねえのかよ」

 自分の声が低くなるのがわかった。
 騏驥は確かに騎士に鞭打たれる存在だ。
 だが人の姿で——しかもなんの咎もないこの状況でそうされるのは我慢ならない。

 憤りがこみ上げる。
 それが伝わるのだろう。男は慄くように顔を歪め、震えながら、なおじりじりと下がって行く。

「ぅ……ぐ……」

 顔が赤い。焦りのせいなのか額には汗が滲みはじめている。
 だが次の瞬間、男は再びルーランに向けて鞭を振るってきた。

「っ」

 それをルーランがあっさりとかわすと、男はますます顔を赤くし、バランスを崩した不格好な体勢のまま、また鞭を振り上げ、滅茶苦茶に振り回しはじめる。

「っ……に、逃げるな! 騏驥が! 逃げるなぁっ!」

「は? こっちはお前に黙って打たれる理由はねえんだよ」

「こ、この……っ! なんだその口の利き方は!」

「だから黙ってたのに、返事しろって言ったのはそっちだろ」

「喧しい! 黙れ黙れ! この畜生が!」

 男は遮二無二鞭を振るうが、どれだけ振り回しみても、それはルーランの服を掠めさえしない。
 そんな自分のみっともなさに狼狽したのだろう。
 男は、汗まみれになった赤い顔をくしゃくしゃに歪めると、様子を窺うように遠巻きにしていた兵士たちに向け、

「この騏驥を抑えろ!」

 と、ヒステリックな金切り声を上げた。

「……おいおい」

 そこまでするかよ、とルーランは呆れたが、それ以上に困ったのは、運悪く命令されてしまった兵士たちだろう。

 男が身分のある騎士だということは——つまり自分たちよりも偉い立場の者だということはわかるものの、その騎士が「捕まえろ」と命じたのはよりによって騏驥だ。

 兵士にすれば、騏驥がどんな生き物かはうっすら知っているし(それは大抵「酷く獰猛」だったり「凶暴」だったりする)、しかも、目の前にいるのは、そんな騏驥の中でも更に気性が悪いことが一目でわかる三つ輪の騏驥だ。
 さっきから男の振るう鞭を全て余裕を持って見切り、避けてしまうその姿を見ていれば、そうそう果敢に向かっていく気にはならないだろう。

 事実、彼らは顔を見合わせては困ったように右往左往するばかりで、一人としてルーランに触れようともしない。
 そろりと近づいてはびくりと離れるのを繰り返している。

「っ……こ、この……っ——お前ら! お前らはそれでも栄えある成望国の兵士か!」

 自分の言うことを聞かない者たちに我慢ならなくなったのか、男は声を荒らげると、あろうことか一番近くにいた兵士めがけて鞭を振り上げる。
 まだ少年のような兵士が逃げるに逃げられず、諦めたように身を強張らせ、ぎゅっと目をつぶった次の瞬間。

「——っ」

 ルーランは二人の間に割って入ると、再び男の腕をきつく掴み上げる。
 背後から、息を詰めていた兵士の安堵したような長い息の音が聞こえる。
 それに対し、二度もルーランに邪魔された男の息は荒く、憤怒の表情だ。

「な……っ……は、離せ! 離せ! この……っ! 貴様、さっきから……っ」

「それはこっちの台詞だろ。何度もみっともない真似ばっかりするなよ」

「貴様——」

「あんたそれで打たれたことあんのかよ。痛えんだよ、それは。魔術がかかってようがなかろうが、人に向けるもんじゃねえの」

 ルーランはうんざりしながら言ったが、男の耳には届いていないようだ。

「きさ、き、き、貴様が……っ!」

 激昂したまま喚き散らすと、ルーランの手からなんとか逃れようと全身をばたつかせて暴れる。
 あまりの醜態ぶりに、辺りからは困惑の気配が伝わってくる。

 それはそうだろう。

 これから戦いに赴こうかというのに、騎士の一人がこんなみっともない姿を晒しているのだ。
 いざというとき、こいつの命令に従って大丈夫なのだろうか。こいつのもとで大丈夫なのだろうか、と思って当然だ。

 ルーランは眉を寄せた。
 こんな風に兵士が動揺して、今後にいいわけがない。 
 こうなったら、男の気が済むまで打たれてやったほうがいいかもしれない。

 怪我をすればニコロに迷惑をかけるだろうし、リィは……。

(気にするかな)

 わからない。しないかもしれない。
 するかもしれない。

 いずれにせよ、目立つところを打たれなければ大丈夫だ。
 そう、大丈夫だ。
 隠せるし、この男程度の鞭の技量なら、打たれてさして影響のないところを打たせるように誘導することもできる。

 痛みを我慢すればいいだけだ。
 痛みと、人前で人の姿のまま打ち据えられる屈辱に耐えさえすれば。

 ルーランは、男が暴れるのに合わせて、さも掴みきれなかったかのようにその手を放す。
 次の瞬間、興奮も露わな男が、やっと念願叶ったとばかりに鼻息荒く鞭を振り上げる。

 そのとき。

「ルーラン!」

 彼の騎士の声がした。
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