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11 ある夜の出来事 騎士と騏驥と林檎(2)

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 馬房は——部屋は、それなりの広さだったが簡素極まりなかった。
 入ってすぐ右手に、馬の姿で眠るときのための寝藁が敷かれている。嫌な香りはしないから、頻繁に取り替えられているのだろう。
 奥には人の姿で眠るときのためのものだろう、大きめの寝台が見えるが、それ以外のものほとんど置かれていない。
 どこで食事をしているのだろう。
 馬房では食べない主義なのだろうか。それとも馬の姿の時に餌を食べているだけなのだろうか……。
 

 騏驥の世話自体は、過去に経験がある。
 リィだけでなく、騎士は皆、騎士学校で授業の一環として、馬や騏驥の世話をすることになっているのだ。彼らに慣れるために。
 そしてリィは、特にその作業が好きだった。
 生徒によっては、匂いが嫌だ、とか疲れる、という理由で避けたりいい加減にする者もいたけれど、リィはむしろその時間が待ち遠しいほどだったのだ。
 人のことを噂するでもない馬や騏驥といるとホッとできたし、手をかければかけるほどそれに応えてくれる彼らは、とても愛しく思えたのだ。

 だが騎士になってからは、そんな風に世話をする機会もなくなっていった。
 ルーランに至っては、馬房に来たのも初めてだ。
 ずっと乗っているのに。
 知っているようで知らない、ルーランの生活。いや、今まで知ろうとも思わなかったのだが。
 そしてこんな事がなければ、知らないままだったのだろう。

「…………」

 リィは息を詰めてそっと周囲に視線を巡らせる。
 一通り馬房内を見回すと、サッと身を翻して部屋から逃げ出そうとした。
 ルーランに背を向け、引き戸に手をかける。
 だがそれを開ける寸前、

 ——バン!

 と、目の前の扉に大きな手が叩きつけられた。
 見覚えのある、騏驥の「輪」。
 驚いたリィが思わず手を離してしまうと、

「なにやってんの」

 背後からルーランの声がした。

「逃げるの早すぎだろ。まだなにも説明してもらってないんだけど?」
「…………」
「ん?」
「説明……って……」
「説明。『コレ』の、せ・つ・め・い」

 言いながら、ルーランは空いている手で背後からスイと林檎を差し出してくる。
 薄着のためか、触れられているわけではないのに、背中全体にルーランの体温を感じる。
 遠慮という言葉など知らなさそうな彼でも、流石に触れてはまずいと思ってのことだろうか。
 そんな配慮をしていたとしても、今の態度は無礼なのだが。

 リィは身体ごと振り返ると、すぐ近くにあるルーランの貌を睨み付けた。
 蜂蜜色の瞳は、馬房の薄暗い灯のせいでいつもよりも暗く見える。

「説明なんて……必要ないだろう」
「ふん……?」
「やる、と言ってるんだ。お前は大人しく受け取ればいい」
「…………なんだよそれ」

 ルーランが片眉を上げた。

「こんな時間にいきなり来ておいて『やる』? 説明は必要ない? なんだよそれ。そんなのでハイハイって受け取ると思ってんの」
「…………」

 見下ろされて、言い返さなければと思うのにすぐに言葉が出てこない。
 だって説明などできるわけがない。
 何と言えばいいのだ。
 いや——謝罪なのだと言えればいいのだけれど、今でさえ騎士に対してこんなに高圧的な彼に、弱みを見せたくない。
 黙ったまま、ただ睨み付けていると、ルーランはクッと笑った。

「なに、何でそんな困った顔してんの。そんなに説明しづらいワケ」
「……」
「ま、そんな格好で俺の好物持って夜中にいきなり来るぐらいだもんな。そういうの、普通なんて言うか知ってる? ——夜這い。『夜這い』って言うんだよ」
「っ——!」

 ふざけるな、と彼を突き放そうとした手が強く掴まれた。
 
「離……っ……!」
「人のこといきなり殴ろうとした奴の手を何で離さないといけないんだよ。無礼はそっちの方だろ」
「わ、わたしは——」
「『わたしは』? 誉れ高き騎士のあんたが騏驥の俺の馬房になんて何でわざわざ? その理由を聞きたいと思うのは、そんなに変か?」
「……」
「しかも——昼間あんな事があったってのに」
「…………」

 その言葉に、リィは目を合わせていられず静かに目を逸らす。
 俯いたまま、声を押し出した。
 
「……『やる』と言ってるんだ。受け取ればいいだろう」
「……」
「説明なんか。ない」
「——だったらいらねーよ」
「!」

 リィびくりと顔を跳ね上げる。
 その手を離したルーランが、林檎の入った袋を押し付けてきた。

「いらねえから、持って帰って」
「ど……」
「理由もねえのに受け取れねえだろ」
「……」
「そういうのは『施し』って言うんだよ。必要ない」
「…………」
「俺は充分食ってる。ここで世話してくれてる人たちのおかげで、あんたが気まぐれに投げてくれる餌をありがたく貰わなきゃ生きていけないほど飢えてないんだよ」
「そ……」

 そんなつもりで持ってきたんじゃない——。
 すぐに言い返したかったけれど、冷えた目で見下ろされると言葉に詰まってしまう。
 リィは突き返された袋をギュッと抱きしめた。
 それは、さっき林檎が落ちたはずみで破れてしまっている。その上、ここに来るまでに何度かリィが抱きしめたせいでシワシワになっている。
 
 来なければよかった。
 
 リィは唇を噛み締める。

 馬鹿なことをした。
 騏驥に対して「悪かった」などと思うことはなかったのだ。
 謝ろうなんて思う必要はなかったのだ。
 愚かなことにそんな気持ちを抱いてしまったばっかりに、こんな恥ずかしい思いをさせられて……。

 けれど今更これを持って帰る気にはなれなかった。
 これは彼のために持ってきたものだ。城の厨房のものに無理を言って集めてもらったものだ。自分で食べる気にはなれなかったし、部屋に持って帰るのも嫌だった。

「……もう——帰る。だがこれは置いて帰る」
「おい——」
「嫌なら捨てればいい」

 短く言うと、リィは紙袋を置けそうな場所を探す。床に置くのは気が引けて、目についた寝台に置こうと部屋の奥へ足を向ける。
 入り口から見ていたとき同様、やはり部屋には物がない。
 それでもなるべく周りを見ないようにして(それが礼儀だ)、寝台の上に持っていたものを置く。
 
 美味しそうなのに。
 捨てられるのか、この林檎は。
 わたしが持ってきてしまったばっかりに。

 愚かなことをした。

 自分に向けてふっと息をつき、帰ろうと振り返る。
 立ち塞がるように、ルーランがいる。
 目を合わさず傍をすり抜けようとしたとき。

「あのさ——」

 堪らず零した、といったような彼の声がした。

「こっちだって混乱してんだよ。今まで一回も馬房に来たことのないあんたがこんな時間にいきなりきてさ。しかもいい匂いさせて俺の好きなものと一緒に来てさ。それもこっそり来たんだろ? あんた俺の顔見たとき滅茶苦茶びっくりしてたもんな。そういうの、理由を聞きたいと思うのは、間違ってんの」
「……」

 投げ遣りと紙一重の苦しそうな声に、リィは思わず足を止める。


「もう、ご指名はないかもと思ってた」

 続いた言葉に、リィは思わずルーランを見る。
 僅かに見上げるような格好になる彼は、いつものような不遜な顔だ。けれどどこか、自嘲気味の笑みを浮かべていた。

「もう俺に乗る気はなくなったんじゃないか思ってた。明日も。明後日も。ずっと」
「……なぜ……」
「あんたに嫌な思いをさせたから」
「……」

 昼間のことを言っているのだろう。
 見つめるリィの視線の先で、ルーランは苦笑する。

「だからもうお払い箱かな——ってね。なのにいい匂いがして扉を開けたらあんたかいたから——びっくりした」

 思い出したのか、ルーランは笑う。
 リィも思い出す。
 そうだ。彼もとても驚いていた。
 いつもなにがあっても憎たらしいほどいい加減な態度の彼が、あの時は目を丸くしていた。

「……寝ていると、思っていた。こんな時間だし……遠征から戻って、疲れているだろうし……」
「俺もすぐ寝る気だったんだけどな。寝てたほうがよかった?」

 リィは肯く。
 それを見て、ルーランが笑った。
 次いで彼はふうっと大きく息をつくと、天井を仰ぐ。
 直後、大股に寝台まで近づくと、そして置かれている袋から林檎を取り出し、リィに向けて差し出してきた。

「これ——食わせてよ。貰う。理由は言わなくていい。だから食わせて」 
 

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