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9 彼の懊悩
しおりを挟む回廊をいくつも過ぎ、歩き続けていると、次第に馬たちが生活する独特の香りが強くなる。
やがて、勝手知ったる厩舎地区へ辿り着いた。
城の西と東に設えられているこの地区は、普通の馬たちの他、数十頭の騏驥たちが日々を暮らしている。
馬と騏驥の住む場所は離れているし、牡と牝の厩舎も離れてはいるが、大きなくくりでは「ひとまとめ」にされているのが現状だ。
一人一人(一頭一頭)が暮らす個別の馬房、幾つもの広い放牧場、遊戯施設に診療所、調教場と、馬の姿でも人の姿でも暮らせる様々な施設が揃っている。
約十日ぶりの帰厩だ。
人の姿、馬の姿の騏驥たちが行き交う様子に、変わってないなと思いつつ、自分の馬房を目指していると、
「お帰り。お疲れだったな」
ルーランに気づいた壮年の男が、片手を上げて近づいてきた。
彼の名前はジァン。
昔は王族専用の騏驥集団である「王の騏驥」だったこともある、優秀なベテラン騏驥だ。
今は前線に出ることは殆どないが、調教師たちからも一目置かれていて、経験を生かしたアドバイスを求められる格好で今も厩舎に在籍している。
身体的に、または精神的にやっていけなくなった騏驥の晩年としては一つの理想の形だろう。
騏驥の将来は、限られている。
特別な殊勲を上げた騏驥は慰労施設で死ぬまで面倒を見てもらえるし、最高に運が良ければ子孫を残すために牝の騏驥との交配が許される。
他にも、気性が良くたまたま空きがあれば騎士学校の訓練用の騏驥として余生を送ることができるが、それ以外の騏驥の末路は悲惨なものだ。
人であり馬である驥騏は、裏返せば人でも馬でもない。
普通には暮らせないのだ。だから、役に立たなくなり、ここにいられなくなれば処分されるしかない。
そんな騏驥を、ルーランもう何頭も見てきた。
ルーランは、足を止めないまま、返事代わりにひょこんと頭を下げる。
年上の騏驥は不思議そうに首を傾げた。
「どうした。珍しいな、お前がその格好なのは。人になれなくなってるのか?」
極度の疲労状態だったり、長くストレスに晒されたり、逆に興奮しすぎている場合、人から馬の姿へ、馬の姿から人への相互の変化が上手くいかなくなることがあるのだ。
だがルーランははっきりと応えず、曖昧に頭を揺らすにとどめた。
違うけれど、それ以上尋ねられたくなかった。
普段は煩いほど喋るルーランの、いつにない態度に、なにか察するものがあったのだろう。
ジァンは微かに目を眇めて首を捻る。
馬のときも人の姿の時も、独特の苦み走った雰囲気のある彼がそうすると、場違いなほど絵になるものだ。
だが彼が再び口を開くより早く、長い髪を緩く結んだ白衣を着た男が駆け寄ってきた。
「お帰り、ルーラン! 身体はどう?」
魔術師で、騏驥や馬の医師の一人、ニコロ=トゥミ=ノク=ネクタだ。
こちらは見るからに見た目が若い。
リィと同い年ぐらいで、白衣も「着せられている」ような印象を与える。
だが彼は、そんな見た目を裏切る優秀な成績で王立学校を卒業し、現在の職についている。
ニコロは笑顔で近づいてくると、ルーランの肩を、背を、慰撫するように——同時に怪我の有無を確認するようにパンパンと叩く。
そして真正面から顔を見つめてきた。
「んん。ざっと触った感じだと、胴部の異常はない感じかな。戦闘後にあっちで一応全身のチェックはしたんだよね? 馬の姿も、人の姿もどっちも」
ルーランが肯くと、ニコロは「よしよし」と今度は足の様子を確かめはじめる。
しゃがみ込み、手早く四本の脚を撫でると、ホッとしたような顔で立ち上がった。
「足も見た感じは大丈夫みたいだね。念には念を入れて、明日か明後日に診療所でもう一度詳しく調べるけど、この感じなら問題はない……かな……」
<…………>
「? ルーラン?」
ルーランが返事をしなかったからだろうか。
話しながらも、顔から首、胸元、腹、尻……と、ルーランの全身を撫でて確認していたニコロの手が、ぴたりと止まる。
「ルーラン、何か気になるところがある?」
<……何でもない>
「本当? 何もない?」
真剣な眼差しでルーランを見つめるニコロのその顔は、年齢よりもしっかりとした顔だ。
プロの顔だ。
実際、彼はその才能と勤勉さ、優れた眼力で、獣医師として何人もの騏驥を助けてきた。
ニコロはルーランに「何かある」と感じたのだろう。
目を逸らさず見つめてきたまま、優しく、けれど諌めるように言う。
「きみは遠征から帰ってきたばかりなんだから、何か異常があっても普通だよ。問題があっても構わない。それを言っても弱みにはならないし、間違っていてもそれが原因で懲戒処分を受けることはない。それに、どんな怪我や病気でも、早く治療すればするほど早く治るんだ。何か気になることがあったら言ってよ。僕に言いたくないなら、ジァンに言ってもいい。それとも、診療所に行くかい?」
ニコロの優しさは、ルーランもよく理解している。
医者は騏驥の数少ない味方だ。
しかし今は、ルーラン自身も自分に何が起こっているのかよくわからない状況だった。
ルーランは首を振った。
<大丈夫だよ。何でもない。あんたの手を煩わせるほどのことじゃない>
「違和感は、ある? 何かいつもと違う気がする?」
<別に……>
「大体でいいよ。やっぱり足?」
<いや……なんか奥の方の……痛い……ような……>
「奥?」
ニコロの声が一瞬で緊迫感を帯びる。
骨折と腱の損傷は騏驥の命に関わる致命傷だ。
ニコロは顔色を変えて続ける。
「奥って、どこ? 足?」
ルーランは首を振った。
<わかんね。ただ足じゃなくて胸の……>
「胸? 奥の方なら骨じゃなくて肺の可能性もあるのかな……んん……。やっぱりすぐ検査しようか」
ニコロは焦ったような顔で言う。
しかし、ルーランはまた首を振った。
<いいんだって。”そんな気がする”ってだけで、実際にどうこうなってるわけじゃない……と思う。多分、疲れが原因だ。そのうち体調も良くなるさ。今日は、このまま馬房で休んでいいんだろ?>
「え……う、うん。でも、本当にいいの?」
<いいよ。俺は大丈夫だし>
ニコロが心配してくれているのは解っていても、ルーランの言葉はどうしても投げやりになってしまう。
<検査日が決まったら教えてくれ>
ルーランはそう言うと、自身の馬房へ向かう。
ジァンが追いかけてくるのは解ったが、突き放すことさえ面倒に思えた。
◇ ◇ ◇
馬房は長い厩舎を小分けにして造られている、騏驥にとっての私室——唯一のプライベート空間だ。
だがそうは言っても、部屋の前の廊下は常に厩務員や調教師が歩き回っているし、医師も頻繁に出入りしているため、プライバシーなどあるのかないのかわからないのが実情だ。
騎士も出入り自由だが、騏驥への用事は調教師を通じて伝えれば済むから、わざわざここに来ることはない。
部屋にはいろいろなものが置いてある。
馬の姿でも人間の姿でも使うための、二種類のものたち。
ベッドと寝藁、食器と飼い葉桶。
とは言え、ルーランの部屋に私物はほとんどなかった。
ルーランは馬の姿のまま馬房に戻ると、敷き詰められている寝藁やおがくずを器用に足でかき混ぜる。
そうして寝心地の良い場所を作ると、足を畳んで座り込む。そのままゴロリと横になると、さらに寝心地を良くするためにゴロゴロと転がってみる。
その度、寝藁がふわふわと舞った。
人の形になればベッドで寝ることもできるのだが、まだその気にはなれない。
それどころか、ずっと馬の形のままでいたいとさえ思ってしまう。
全く馬鹿げた考えだ。
一時の気の迷い。らしくない逡巡。
けれど、そんな下らない感情だと分かっていても考えることをやめられないから胸が苦しい。
「なにがあった」
そうしていると、ジァンの声がした。
彼は寝転んでいるルーランの傍にしゃがみ込んで訊ねてくる。
いつもの彼は、頼りになる存在だ。
けれど今のルーランには、鬱陶しい存在でしかない。
<疲れただけだ>
ルーランは言った。
<あんたももう出てけよ>
「…………」
<寝る>
「リィと何かあったのか」
<別に>
「…………」
<なにもない。いつもと同じだ。怒られた。叱られた。いつものことだ>
表面上は。
実際は……。
ルーランは壁に向くように寝返りを打った。
(まったく——いやまったく。本当にバカだった。バカなことをした)
思い出してしまうと、また後悔が襲ってくる。
らしくないことをした。
あんなもの、放っておけばよかったのだ。
騎士同士の揉め事なんか、こっちに関わりのないことなのに。
だが——と思う。
だが自分は、また同じ場面に出くわせば、同じことをしそうだ、と。
それまで何を言われても我慢していたのに、父親のことを言われた途端に耐えられなくなったリィ。
他人に興味のないルーランでさえ、彼の父親が行方不明になったことは知っている。
その裏で、囁かれている噂のことも。
『ある日、騎士が姿を消し、その騎士が乗っていた女の騏驥も姿を消した』
普段の騏驥は、それはそれは徹底的に管理されている。
勝手に厩舎から連れ出すことは許されないし、仮に騏驥が逃げ出そうとしても、魔術師が張り巡らせた結界がある限りそれは無理だ。
それなのに、その騏驥は姿を消してしまった。
表向きは、”偶然”ということになっている。
何らかの事情でたまたま一人の騎士が姿を消し、それと近い時期に、なぜかたまたま彼の騏驥もいなくなったのだ、と。
だがそんなもの、誰が信じるというのだ。
『騎士と騏驥は親密になりすぎて一緒に逃げたに違いない』
同じように真実がどうかわからないそんな噂の方が事実のように語られ続けている。
そしてこの噂は、行方不明になった騎士が犯した大罪を嘲笑し、彼を貶めるために騎士や貴族の間で囁かれ続けている。
その度、リィを傷付けながら。
(リィの耳を塞げばよかったのかな)
ルーランは考える。
彼らの暴言から彼を護るならば、そうすべきだったのだろうか。
(違うか)
どんな形でも、彼は騏驥に庇われたくないのだ。
本当は噂が消えれば一番いいのだが、それは無理な話だった。
貴族たちの間では、リィの父親を蔑むための噂。
けれど騏驥たちの間では、少し違ったニュアンスで語られているからだ。
行方不明の騎士と騏驥の噂。
それは、叶うことのない夢のような話として囁かれ続けている。
騏驥が自由と愛を得る、幸せな夢のような話として。
——夢のような。
そう。
現実には絶対に起こりえないからこその。
なぜなら、そもそも騎士は騏驥にそこまで執着していない。
騏驥は体調を整えるのが難しいためもあり、一人の騎士が一頭の騏驥にずっと乗り続けるのは稀だ。
騎士が遠征に出るときは、そのとき一番状態のいい騏驥を選ぶ。自分の功績のために。そのための効率の良い道具として。
もちろん相性はあるが、ルーランのようにリィしか乗らない騏驥の方が珍しい。
ただ、消えた騏驥は「始祖の血を引く騏驥」だった。
騎士を選べる、特殊な騏驥。
だとすれば少々話は変わってくるが……。
だがそれでも、騎士と騏驥が「親密になる」と言っても、騏驥は感情が昂りすぎると変化がうまく制御できなくなるから、色々と限界があるはずなのだが……。
<なあ、ジァン>
ルーランはふと、傍の騏驥に声をかけた。
彼はずっと前からここにいる。もっと詳しいことを知っているかもしれない。
<リィの……>
しかし、ルーランはそこで言葉を止めた。
「ん、どうした?」
ジァンがルーランに顔を近づけてくる。
ルーランは逃げるように彼から目を逸らした。
<何でもない。俺は寝る>
今日の俺は何をしてるんだろうな……。
目を閉じたルーランは、相変わらず胸にチクチクとした痛みを感じながら考える。
何をしているのだろう。
本当のことは、その人にしかわからない。
他人に聞いても意味がない。
けれどジァンに訊けば、噂は嘘だという答えが返ってくるのではないかと期待した。
リィの父親と、失踪した騏驥との間には何の繋がりもないことが解るのではないか、と都合の良い希望を持っていた。
そうすれば、リィが抱えている痛みを少しでも軽くすることができるのではないか、と。
そんな事ができるなら、噂などとっくになくなっていただろう。
ジァンだって、なにも知らないのだ。
それに、リィは騏驥である自分にそんなことを求めていないだろうに。
なんで俺はそんなことをしているんだろう?
(あー、くそ)
ルーランは自分に向けて毒づく。
胸がヒリヒリして落ち着かない。
(くそ...........きっとご褒美を貰えなかったからだ)
だから今日は変なんだ。
ルーランは瞼の奥に浮かぶ美しい騎士に文句を言う。
彼はいつもの冷たい目で睨み返してくる。
むかついたけれど、それはリィらしい顔で、だからなんだかほっとした。
それでいいか、と思った。
少なくとも、涙も零さずに泣かれるよりはずっといい、と。
ルーランはそのまま眠ろうとした。けれど胸は変わらず痛く、なかなか眠れなかった。
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