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8 彼の後悔
しおりを挟む先刻のGDの声とはまるで違う、こちらを見下すような、嘲るような声だ。
(だからこんなところでいつまでもグズグスしているのは嫌だったんだ)
リィは後悔したが、もう遅い。
ルーランの肩越しに、二人の男が近づいてくるのが見えた。
彼らもまた、同じ年に騎士学校に入学した男たちだ。
そういう意味では同期と言えば同期だが、一人とは卒業年が違いリィの方が先に騎士となった。一人は途中で退学した。
どちらも騏驥や馬に騎乗する技術ではリィに及ばない者たちだ。
しかし彼らは高位の貴族の子弟である選民意識を振りかざし、ことあるごとにリィ絡んでくる。
彼らはリィたちの近くまでやってくると、
「こんなところでいったい誰が騏驥と乳繰り合っているのかと思えば……」
「まったく。見苦しいにも程がある」
いかにも意味ありげにニヤニヤと嗤いながらリィとルーランを見比べる。
「またか」と思いつつも、リィは柳眉を寄せる。
彼らはいつも自分たちの未熟さを棚に上げ、自分たちよりも「いい思い」をしていると思う者を、とにかく中傷するのだ。
他人に優しいものに対しては「媚を売っている」。
自分たちよりも裕福な者には「金を使った」。
等々、よくもそれだけ捩くれた想像ができるものだというほどの悪意まみれの想像を用いて。
そしてリィに対してのそれは、彼の外見についてだった。
騎士学校にいた頃からそれは変わらず、「成績がいいのは教官と親密な関係になっているからだ」という根も葉もない噂を何度も流され、どれだけ迷惑したかは数えることもできないほどだ。
騎乗の実力など、実際に馬に乗ってみればひと目で分かるものを、それが劣っていることを認めたくないがために。
騎士になってからもそうだ。
リィが手柄を上げるたび、「周りに取り入って、功を譲ってもらっているに違いない」と言いふらしているらしい。
同じ口で「あんなことをしでかした父親がいるのに、よく騎士としていられる者だ。皆に嫌われているのに」と言っていながらだ。
リィは、また聞かされることになった不愉快な言葉を必死で頭から追い出すと、ルーランを静かに押しのけ、男たちを冷たく見つめ返した。
「そう見えたのなら貴殿たちの目がおかしい。医師に診てもらった方がいいのではないか?」
「なんだと!?」
男たちは顔を歪め、前のめりになってリィを見上げてくる。
自尊心だけは十分育っているが、それ以外まるで、だ。
とはいえ、こうした貴族が多いのもまた事実なのだが。
彼らはしばらく口元を歪めてリィを見上げていたが、やがて、「ふん」と鼻で嗤った。
「口の減らない奴だ。得意なのは騏驥を誑かすだけではないということか。よかったな、少々綺麗な顔に生まれて。その顔で騏驥を惑わせれば、言いなりにするのも楽だろう。その口も、他のことに使う方が多いんじゃないのか」
「まったくだ。あぁ、俺もお前のように手段を選ばない厚顔さがあればなぁ。きっと楽に騎士にもなれていただろうに」
男たちの下卑た口調と声音に、リィはぎゅっと拳を握り締めた。
こんな奴ら相手に憤ることさえ馬鹿馬鹿しい。
頭ではそうわかっていても、感情は別だ。
顔を合わせるたびに蔑まれ——それも、誇りを持っている騎士としての自分を蔑まれて不快にならないわけがない。
だが城内で無闇に騒ぎを起こすわけにはいかない。
しかも、相手が相手だ。揉め事が起こっても公平に判断されることはないだろう。
騎士学校時代に、それは嫌というほど思い知った。
(相手にしないのが一番だ)
リイは込み上げてくる怒りを抑えるように唇を噛み締め、何度も自分にそう言い聞かせると、顔を逸らして立ち去ろうとする。
だが、そのとき。
「騏驥と懇ろになるのは父親譲りの手管か」
聞こえてきた嘲笑混じりの声がリィの足を止めた。
(この……っ――!)
父まで侮辱され、リィが我慢できずに振り返ったのとほぼ同時。
「あァ、思い出した」
ルーランの声がした。
不意のその声に驚いたのは、男たちだけではなかった。
リィも一瞬、怒りを忘れ、戸惑い、動きを止める。
その隙に、ルーランはリィと男たちの間に割って入ってくる。
「ル……!」
——近い。
どころではない。
ついさっきのやりとりを忘れたのか!?
リィ声を上げかけた寸前。
ルーランは男の一人を——騎士学校を中退した男の方を指さすと、さも愉快そうに笑って言った。
「あんたあれだろ? 騎士学校の騎乗実習の訓練で、もういいかげんじーさんになった騏驥から落ちたってヤツ」
「なっ——」
男の血相が変わる。みるみる真っ赤になっていく。
リィは目を瞬かせた。同期であっても各人の習得具合によって授業の進度は違う。リィは一番早い組で、彼はそうではなかったから実習の時間は全く重なっていなくて……そんなこと知らなかった。
憤慨する男と驚くリィの前で、ルーランは続ける。
「あんた、俺たちの間じゃ有名人だぜ? 『ほら、あの』で通用するって。なにせ歩かせる前に落馬だもんな」
(は?)
リィは信じられない思いで男を見た。
騎乗実習に使われる騏驥は、年齢のためや戦闘中の怪我のために一線を退いた騏驥たちだ。
ただその中でもとびきり性格が良く、大人しいものが使われる。
動きもそう速くなく、普通の馬よりものんびりしているものもいるぐらいだ。
しかも、歩かせる前とは。
要するに、乗っただけで落ちたということか。
(どうやって?)
不思議に思ってしまうリィに対し、男は憤懣やるかたないといった様子だ。
頭から湯気を出さんばかりの勢いで地団駄を踏んでいたかと思うと、
「貴様!」
顔を歪め、声を上げ、ルーランに掴みかかる。
リィは思わず息を呑んだが、ルーランはされるままだ。
胸元を掴まれていることなど一向に気にしていない顔で、「いいじゃん」と続ける。
虚を突かれ、男は訝しそうに眉を寄せる。
ルーランは笑みを深めて言った。
「大事な身体に何もなくてよかったじゃん、って言ってんの。あんた、いい家の人なんだろ? リィと違ってさ」
「…………」
男はしばらく何か言い返そうとするかのように口を開け閉めしていたが、やがて口をモゴモゴしながら黙ってしまう。
落馬を揶揄された事実は変わらないのに、「いい家」「リィとは違う」という彼にとって耳触りのいい言葉に毒気を抜かれたのだろう。
男の手が緩む。
と、ルーランは今度はもう一人の男に向いた。
騎士であるその男は、ルーランがどんな騏驥かよく知っている。
警戒して身構える男に、ルーランは肩を竦めて見せた。
「確かにリィは綺麗な顔してるけどさ。色香だの誑かすだのて騏驥を懐かせたいんなら、リィよりGDに相談した方がいいんじゃねえの?」
「なっ……ばっ——どっ、どうしてここでGDが……!」
思ってもいない方向に話が向いたからだろう。男の声が裏返るように上ずる。
構わずルーランが続けた。
「だって、あいつの方がよほど騏驥にモテてるぜ? なにせ調教騎乗の順番待ちで牝の騏驥同士が喧嘩して大騒ぎになるぐらいだからな。俺しか乗ってないリィよりよほど参考になると思うけど? なんなら俺が訊いておいてやろうか? あんたたちが、GDはどうやって驥騏を誑かしてるか知りたがってた、って」
「や、やめろ! なにを言ってる!」
ニヤニヤ笑いながら言うルーランに、男は狼狽したように幾度も首を振る。
自分たちとは比べ物にならない出自であり、騎士たちからだけでなく王や王子の信も篤いGDにそんな話をされては堪らないと思ったのだろう。
チッと舌打ちして顔を歪めると、「もういい!」と二人は足早に立ち去っていく。
荒い足音がだんだん遠くなり、やがて、辺りには静けさが戻る。
周囲からのひそひそとした声も程なく消えた。
王城に集う者たちは引き際をよく知っている。噂は広がるだろうが。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけだ。
騏驥に”庇われた”騎士の心臓の音だけだ。
その音は、一秒毎にリィを情けなく、惨めにさせる。
「……勝手なことを……」
やり場のない苛立ちがこみ上げ、リィは低く呟いていた。
ルーランが振り返る。
目が合うと、怒りが堪えられなくなった。
「お前に余計な口を出されなくても、あいつらなんてわたし一人で対処できたんだ! それを……っ。たかが騏驥のくせに出しゃばるな!」
「……」
「しかもGDの名前を出すなんて……あれではまるでわたしが彼の威を借りているみたいじゃないか!」
「…………」
「そもそも、お前がさっさと厩舎に戻らないからこんなことになったんだろう!? いつまでもぐずぐずとくっついてきて……そのせいであいつらに絡まれて……。いい迷惑だ! いつもいつもいつもお前は——」
父のことを言われたダメージが遅れてやって来ているのだろうか。
それとも——庇われた自分が許せないからだろうか。
自分の口がいつもより一層攻撃的な言葉を紡いでいることを知りながらも、リィはそれを止められない。
胸の中に生まれた嵐のせいで、目の奥も、指先まで熱く痺れる。
肩で息をしていると、
「……悪かった」
頭上から、ぽつり声がした。
ルーランが、小さな声で言った。
「悪かったよ。あんたの言う通りだ」
そしてそう続けると、彼はじっとリィを見る。
やがて、「馬房に戻る」と短く言うと、厩舎地区の方へ歩き始めた。
ややあって、リィもまた自らの部屋へ向かって歩き出したが、口の中に残った苦さは、なかなか消えてはくれなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
厩舎に向かって歩いている途中で、ルーランは馬に姿を変えた。
「塔」が近く、魔術の影響下にあるため騎士なしでの変化が許されている場所とはいえ、磨かれた白く美しい石材が整然と敷かれた城の廊下を、ぽくぽくと馬姿の騏驥が歩くさまは異様にも見えるだろう。
案の定。すれ違う人たちはルーランを見るとぎょっとした顔をして慌てて壁際へ避ける。
遠巻きにされる見せ物。
国の宝だの守護の化身だの言われていても実態はそんなものだ。
周りからのそんな態度と視線が嫌で、ルーランはいつもならできる限り人の姿でいるようにしていた。
けれど今は。
(失敗した……んだろうな)
寄り道することもなく、まっすぐに厩舎へ帰りながら、ルーランは胸の中で呟く。
周りから好奇の目で見られる馬の姿。だが、この姿になれば一つだけいいことがある。
どんな表情をしているか、知られないことだ。
今の自分は、きっと見るからに憂鬱そうなと言うか——イライラしたような顔をしているだろう。
そんな顔、あまり他人には見せたくはない。
無意味に周囲を威嚇したいわけではないのだ。
こうして一頭だけでつらつらと歩いていると、先刻のリィの表情が何度も脳裏に蘇り、その度、胸の奥が疼いた。
騎士は嫌いだ。
だからリィも嫌いだ。
が。
彼が辛そうにしているのはもっと嫌なのだ。
しかも、自分以外の奴のせいで。
あんな、顔も態度もリィの足元にも及ばない奴らのせいで。
(今思い出してもムカつくな……)
下手くそな騎士と騎士崩れの騎兵のくせに人のものにちょっかい出しやがって。
だからつい口を挟んでしまったのだが。
——だが。
結果として、それによって自分こそがより深くリィを傷つけてしまったことに、ルーランはイライラが収まらなかった。
怒られるのはいい。叱られるのも。鞭打たれるのも。
そんなもの、騏驥になって育成施設に放り込まれて調教される間にさんざん経験したから。
けれど……。
(ああいうのは——なあ……)
困る。
対処に困る。
あんな——声も上げずに泣くような姿は。
プライドを傷つけられたことに怒って、喚いて、なのに泣くまいとこちらを睨み付けて。
可愛げのないその様子は、だからなおさら痛々しい。
(なんであんなに面倒くさい性格なんだよ……)
ルーランは小さく溜息を吐く。
いやまあ確かにやりすぎたかなとは思ったのだ。
だから怒られるだろうことは予想していた。
リィが声を荒らげて言った言葉も、ほぼ予想通りだった。
だが予想外のことがあった。
彼は——リィはルーランを責めるだけでなく自分をも責めていたのだ。
騏驥に庇われた自らを。
(たく……)
なんなのだ。その潔癖さは。
こっちを怒ってそれで終わりにしておけばいいものを。
そんなふうに傷付けたかったわけではないのに。
謝る機会があったのはよかった——とはいえ、それがよかったのかどうかもわからない。
素行不良を謝罪したのとは訳が違うのだ。
そんなことでは謝らないけど——謝らないから。だからこそ、リィはさっきルーランが謝ったことさえ気にしそうで嫌になる。
(真面目すぎるんだよな、ホント……)
そういう態度だから、向けられる悪意にいちいち傷つくのだ。
(もっといい加減になりゃいいのに)
と、いい加減を絵に描いたような騏驥は思いつつ、しかし珍しく後悔に顔を顰める。
これで切れる縁ではないと思いたいが——果たしてどうだろうか。
リィ以外を乗せる気はさらさらないが、そんな事が許されるとも思えない。
待っているのは廃用だ。
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