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那須田ハツ ※犯罪行為、一部グロ表現あり

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 那須田なすだハツは大きな商家に生まれた。


 自宅には立派な門や蔵があり、庭には池と季節ごとに花を咲かす木々が植えられている。
 大叔母達が元大名の武家に嫁入りした事もあり、ハツの家は商家だが、武家に近い家柄であった。

 ハツには4つ上の姉『イト』が居た。知的障害があり、発語も無いイトは外に出される事なく、敷地内の別宅で生活していた。

 ひと昔前ならばイトの様な人間は、座敷内に死ぬまで幽閉されただろう。だが、世は文明開化。
 これからの時代にそぐわないとの父の考えで、イトは敷地内で適度に外の空気も楽しみながら、ちゃんと3度の食事も与えられていた。

 ハツはそんな日常に、何の疑問も持たずに暮らしてきた。顔はほぼ合わせないし、会話も無い。
 イトの事は、棲み付いた猫の様な感覚だった。


 ハツには4人の妹がいたが、跡取りとなる弟は居なかったので、家督娘として育てられた。

 文字の読み書き、算術、女子のたしなみ、裁縫…。10歳の時には、女子らしい立ち振る舞いを、と舞踊や琴も習う事になった。
 遊びたい気持ちはあったが、この家を継ぐためにとグッと堪えた。


 14歳の時、祖父が死んだ。父は家督娘のハツには厳しかったが、祖父には可愛がられたので、とても悲しかった。

 葬儀の時、見慣れぬ住職を見かけた。齢若く長身で、整った顔立ち。
 あんな人、居ただろうか。母も同じ事を考えたようだ。

「…あの方、見た事が無いやね?」

 葬儀の手伝いに来た、近所の婦人が答えた。

「ああ、ご縁があってこちらに来られたそうですよ。とても頭の良い方だそうで」

 婦人の話では、3年前に江戸方面で修行中に震災に遭い、寺が被災し立ち行かなくなったので、縁あって、この瀬戸内近くの寺へやって来たらしい。
 今は那須田家の菩提寺の後継者として、お勤めしているそうだ。


 次に会ったのは、祖父の新盆の時。厠の後、施餓鬼法要の心づけを渡そうと待っていたが、一向に現れない。

 父が呟く。

「あの方、うちが初めてで迷われたのかもしれん。ハツ、ちょっと見てきなさい」

「はい」

 控えめに言っても、この家はかなり大きい。たまにそういう客も居たので、ハツは厠に繋がる廊下に行った。

「こんにちは。こちらの娘さんですよね? …何番目の方でしたかね?」

 若住職の声。妹にでも話しかけているのだろうか?

「初めまして。盆の法要で来ました、音楷おんかいと申します」

 ハツが廊下を曲がると、そこには爪を齧りつつ若住職を見つめるイトと、音楷が居た。
 ハツはイトの腕を掴み、諭す。

「姉さん、お客様は忙しいけえ。お部屋に戻りましょ?」

「あう」

 イトはドタドタと庭の奥へ行った。音楷は目を丸くした。

「あの方、あなたのお姉さんだったんですね」

「ええ、そうです」

 顔には出さなかったが、ハツは家の汚点を見られたようで、恥ずかしくなった。



 この音楷、変わり者で事あるごとにイトを構った。ろくに返答も出来ないのに話しかけたり、気に掛ける。
 近所や使用人の間でも、話題になっているようだ。

 ハツはそれを見かける度に、モヤモヤが募っていった。



 女学校へ通うようになったハツは、お見合いをする事になった。
 家業である呉服屋を継げる人材…そこそこの商家出身の次男や三男と顔を合わせたが、話はまとまらなかった。

 みな、江戸時代から続く『那須田呉服』の知名度に圧力を感じての辞退だが、ハツはそう思わなかった。

(絶対、姉さんのせいや)

 開け放した障子から、イトの別宅を見つめる。

(この家に婿入りしたら、姉さんの面倒も見ないといけんもの。嫌に決まってる!)

 食事などの世話は奉公人だが、外に出て面倒事を起こした時の責任は、家の主人だ。今までは無かったが、この先の保証は勿論無い。



「ねえ、ご存じ?」

 女学校の同級生が、昼食時に切り出す。

「三ツ辻の外れに空き家があるんよ。あそこ、人買いの溜まり場だそうよ」

「嫌ねえ」

「日が暮れてからは、近づかん方が良いわよ。遊郭に連れてかれちゃうから!」

 同級生はキャッキャッと騒いだ。


 イトの様な者が、親に守られている内はいい。それが病や老いなどで死に、身寄りがなくなると悲惨だ。
 子守奉公や飯炊きが出来ればまだいいが、出来ない場合、女は遊郭へ売られる事となる。そんな噂話も、それなりに訊いていた。

(空き家の場所は知っている。でも…)

 ハツは自身の考えにためらう。

(誰にも、婿入りしてもらえんのは嫌。それに、店をうちの代で終わりには出来へん)



「お加減いかがですか? お粥をお持ちしました」

 奉公人の女が声をかけて、襖を少しだけ開ける。ハツは寝床から答えた。

「ありがとう。頭は痛いけど、熱は無いから、今日はこのまま休ませてもらうけえ」

「分かりました。ではごゆっくり」

 ハツは粥を口にした後、明かりを消し横になった。
 しばらくして、様子を見に来た母が呼びかけて来たが、眠る振りのハツを見て熟睡してると思ったのか、すぐ居なくなった。


 イトの夕食は、家族の夕食が終わった後であり、奉公人が食器を下げに行ってからは、誰も部屋に行く事は無い。
 折を見てハツは起き上がると、手製の男物の着物を着て、男物の下駄も手に部屋を抜け出した。


 イトの部屋へ。既に消灯され、イトは横になっていたが、気配を感じたのか目を覚ましていた。

 ハツは笑顔で言った。

「姉さん、遊びましょ?」

 イトは目を丸くして飛び起きた。

 小さい頃は、よく遊んだ。いつからだろう、遊ばなくなったのは。

 そんな事を考えつつ、ハツは唇に立てた人差し指を添えた。

「しー…。着替えて。外でままごとしよう」

 イトも『しー』と真似すると、目を輝かせて頷いた。

「こっちよ」

 ドウダンツツジの生垣の下、根元付近をくぐり敷地外へ。祭りでもないのに、夜に家の外へ出るなんて、初めてだ。


 ハツはイトの手を引く。

「こっち。行くよ」

 月明かりの道。人の無い方を選んで歩く。そして、あの空き家が見えた。

 ハツはイトへ囁く。

「うちは『お父さん』だから、薪を集めるけえ。姉さんは『お母さん』だから、ご飯の支度。
…あの家の周りに白い花あるやね? あれを沢山摘んで」

 ハツはイトの背中を押し、送り出す。その後は一目散に、来た道を戻った。


 乱れた息を整え、ハツは無事自室へ戻った。着替えて横になったが鼓動は速いままで、眠れない。
 すると、それから半時ほどして、家の中がザワザワし始める。

(姉さんが居なくなったのが、ばれた?)

 聞こえる筈の無い声がして、ハツは飛び起きた。

(まさか)

 ハツは寝間着の上に羽織をすると、声のする方へ向かった。


 父の声。

「今まで、こないな事無かったのに…」

「ああー、あー」

 イトの泣き声。そして…、

「いやはや、何もなくて良かったですよ」

 土間には、イトと音楷が居た。


 葬式後の精進落としで遅くなった音楷が、泣きながら夜道を歩くイトを見つけた。それで、家まで連れて来たらしい。
 幸いにも、ハツの仕業とはバレなかったが、一世一代の覚悟はおじゃんとなった。

(あの男…!)


 イトの扱いは厳重になった。別宅は夜に鍵がかけられ、昼間も家族や奉公人が頻繁に様子見する。
 迂闊に連れ出せなくなった。



 いつしかハツは女学校の3年となっていた。相変わらず縁談はまとまらない。


 ある時、父が番頭と共に1週間ほど大阪へ行く事になった。時を同じく、末妹が脚気に罹った。

 ハツはある提案をした。

「岬山の神社へ、末妹ヨシの回復を願掛けさせて下さい」


 近所にある海の傍の小さいお宮は、昔から病平癒のご利益がある。
 特に百度参りすると、たちどころに治るという。家督娘として、父の代わりにやらせて欲しい、そうハツが言うと両親は快諾した。


 嫁入り前の娘なので、日の出から朝の7時半まで、1日10往復、10日間続ける事となった。
 奉公人が付き添う話も出たが、ハツは『それでは父の代わりにならないから』と丁重に断った。
 周囲の環境も、神主の常駐が無い事も、ハツはよく知っていた。



 3日目、ハツはイトの部屋の鍵を持ち出し、イトへこう話した。

「姉さん、ヨシの具合がはよう治るようにって、お願いしに行こう?」

 ぐずらないよう菓子を食べさせ、目をこするイトを連れ出した。


 静かな街並みを進み、鳥居をくぐる。坂道の先にお宮。ハツが手を打つと、イトもそれを真似た。

 終わると、ハツはイトの手を引いて歩き出す。

「裏の神様にも手を合わせるんよ」

 お宮の裏手、数本の木々と低木が茂る空間へ、イトを連れて行く。茂みの途切れた先、眼下は青い海。

 夜明けの海を眺めるイトへ、ハツは言った。

「もうちょい前にお宮さん、あるけえ」

「ああ?」

 辺りを見渡すイトへ、ハツは指示する。

「ほら、そこ!」

 低い所を示され、前屈みになるイトの後ろから、ハツはめいいっぱいの体当たりを食らわせる。

「!!」

 声にならぬ声を出し、イトは斜面を転げた。途切れた斜面の外へ抜け、イトの姿は見えなくなった。


(やった。やってしまった)

 大急ぎで石段へ戻ったハツは、思いもよらぬ人物と出くわした。

「おはようございます、あれ? イトさんは?」

 音楷だった。ハツの血の気が引く。

(一緒のとこを見られた)

 咄嗟にハツは言った。

「姉さんが転んで怪我をして…! 手を貸して下さい!」

 音楷はハツと共に、神社の裏手へ行った。

「イトさーん?」

 音楷はさっきまでイトが居た地点まで進み、下を覗き込む。

「まさか落ちた? イトさん!」

 膝に手を乗せ屈む音楷を、ハツは思い切り強く突き飛ばした。

「ああっ!」

 急勾配に体勢を崩した音楷は、イトと同様に斜面の外へ吸い込まれる様に転げて行った。

 血の様に赤く空を染めた日の出が、膝を震わすハツを照らした。




 白装束の人々が行きかう。まるで、現世ではなくあの世へ迷い込んだ様だ。

「おばあちゃん、麦茶どうぞ」

 自分と同じ、白装束姿の若者が笑顔でコップを差し出す。

「ありがとう」

 受け取ると、隣に居た50代半ばの女が言う。

さとしくん、若いのに気配り上手ね」

「いやいや、それ程でも」

 若者は頭を搔いた。


 聡はハツと同じ日に八十八か所巡礼が始まった。同日の参加者最高齢という事もあり、聡はハツを何かと気にかけてくる。


 今風の若者なのに参加するとは、随分と変わり者だ。聡は口を開いた。

「飛田さんは、どうしてお遍路を?」

「弟がね、大厄迎えてから色々と悪い事が重なって…。本当は弟が行く予定だったけど、入院してるから私が代わりにね。聡くんは?」

「俺は供養です」


 ハツは会話を聞きつつ、隣のテーブルを見ていた。12、3歳ぐらいか、やたら多弁な少年が、ずっと独り言を言っている。
 割り箸をロボットにでも見立てているのか、戦いごっこ。
 一緒の母親の接し方から見ても…。


(姉さんと同じ、か)

「おばあちゃんは? どうしてお遍路に?」

 聡が話しかける。ハツは言った。

「…供養だよ」

(誰も、うちを許しやせんけどな)



 遍路宿は、特に事情が無い限り、性別年齢を問わず同室だ。入浴後に布団を敷いてると、聡は窓を開けて煙草を吸っていた。

 ハツの視線に気づいたか、聡は口を開く。

「あのさ。俺、人を殺した事、あるんよ」

 ハツは怪訝な顔をした。聡はこっちを見た後、窓の外へ煙を吐いた。

「19の時にさ、付き合ってた彼女が妊娠してさ。喧嘩して、突き飛ばしちゃって、流産させちゃったん」

 聡は灰を落とす。

「謝っても謝り切れないよね。許してもらえんでもいいけど…。こういうんに参加するって事は、どっかで許してもらいたいって思ってんかな、俺は」

「…苦しんできたんか、お前さんは」

「苦しんで…。どうだろう?」

「お前さんが死ぬ時まで、その事を忘れずにいれば…。少しは許してもらえんやないか?」

 ハツはそう言うと、歯を磨きにその場を後にした。



 イトと音楷はあの後、すぐ下の岩場で亡骸が見つかった。
 イトがどうやって屋敷を出たかはともかく、音階がイトを構っていたのは周知の事実だったので、無理心中では?と囁かれた。


(うちのやった事は、誰にもバレへんかった)


 ハツはその2年後に結婚し、二男二女に恵まれた。だが、戦争が夫を奪い、原爆が家と家族と友人を奪った。


(神様には、ばれてはった)


 焼け野原から、ハツは生き残った息子と2人の針子と共に、1からの立て直しをした。戦後の混乱の中、那須田呉服は見事に復活できた。
 寝る間も惜しんで、全てつぎ込んだ。

 そして、孫にも恵まれた。


(あの2人は、忙しくしてあの事を忘れかけてしまったうちの事を、許さへんかった)


 息子が40で死んだ。原爆症だった。嫁は孫を連れて、実家へ帰ってしまった。
 『家』しか、手元に残らなかった。

 店は、再建当時から頑張ってた針子とその息子へ譲り、ハツは隠居した。



 木が裂ける様な音と異様な臭いがして、ハツは目を覚ました。廊下を誰かが走り、襖を勢いよく開ける。

「火事だ! 起きろ!!」

 大騒ぎとなった。火元は食堂らしく、宿泊客はぞろぞろ逃げる。
 途中で、あの少年の母親を見かけた。息子と思われる名前をヒステリックに叫んでいる。

(はぐれたんか)

 ハツの脳裏の、自分の母親の姿と重なった。岩場に打ち付けられ、無残な姿になったイトの亡骸に、取り縋り泣く姿。

(あの時、うちが奪ってしまったもの、救わんといけん)

 ハツは煙の立ち込める中を、戻って行った。



 それから30分後、髪や着衣の焼け焦げたハツが、消防隊によって外へ運び出された。
 件の少年は、先に外へ逃げていた様で無事だった。

(良かった。無事で)

 酸素マスクがハツにあてがわれたが、身体はもう、酸素を受け入れなくなっていた。



「大丈夫?」

「…大丈夫です」

 火事の人だかりの遥か後方。小太りの黒服の男が、小柄な黒服の女を気遣った。

 男は続けた。

「思ったよりキツイ現場になったかと思ってね」

「平気です。…もっと酷い地獄、見ましたので」

 淡々と答えたが、炎が女の記憶を逆撫でする。女はさり気なく現場に背を向け、尋ねた。

「彼女の『負債』は?」

 男は取り出した帳簿を見つつ答えた。

「彼女の場合、殺人は2件だがそれ以外は模範生。息子の早逝、一代で築いた大事業を他者へ逡巡せず譲渡、そしてこの『死に様』…。
これで『獄』は1桁になる」

「そうなんですね」

 影の無い2人は、誰にも気づかれる事無く、その場から消失した。

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