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メンヘラ
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彼女との距離が近づいたきっかけは、一体何だっただろうか。
「お疲れ様です」
初めて見かけたのは、SC内ゴミ集積所。通り過ぎる時に挨拶したが、そっぽを向かれ無言だった。
「…あれ、文句言った方がいいですよ」
見ていた所員の森下が口を尖らせると、傍に居た清掃員も、苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「でもあそこの店、店長もあんな感じだから、言ったとこでど~だか!」
他店舗従業員からも、設備管理従業員(清掃員・警備員など)からも評判はかなり悪かった。が、本人は自店舗以外を見下しているのか、どこ吹く風の如く気にしてないようだった。
(すごいメンタル。従業員教育が『しっかり』しているのね、きっと)
「鳴瀬さぁん、何か面倒くさい人に目を付けられてます~」
「え、なーに? お客さん?」
「いいえー、パティスリーの若い女の店員さんです」
唐揚げ屋従業員:間渕がゆず子に愚痴って来たのは、パティスリーが開店してから4ヶ月くらいの頃だった。ゆず子は手を止めて尋ねた。
「どういう事? クレーマーとか?」
「稲田さんって言ったかな、あの人。どうやら赤石店長を狙ってるみたいなんですよ。それで齢が近い私に色々話しかけて来るんです」
「ああ、そういうこと。赤石くん男前だものね。結婚してるって教えたら?」
「教えたけどダメなんですよ。ワンチャンでも狙ってんのかな?」
(『標的攻略』のために、年の近い同性と仲良くなろうとするなんて、まるで子供みたいね)
『既婚』関係無しに狙ってるなら、協力者などいちいち作らず、待ち伏せなり連絡先を渡すなりするものだ。
稲田のは『憧れの先輩』とか、『推し』に近い感情みたいだ。間渕は続けた。
「この前も休憩時間被った時に、『赤石店長って、いつ頃休憩ですか?』とか『同い年だし、敬語やめない?』とか、グイグイ来られて参っちゃったんです」
「へえ、あの人そういう性格なんだ」
ゆず子が感心して言うと、間渕はゲンナリした顔をした。
「自分とは合わないっす。何か、粘着っぽいと言うか、依存っぽいと言うか。勝手に友達認定されちゃったし」
「本人に悪気ないから、余計に困るわね」
ゆず子も苦笑いをした。
ある時、従業員休憩室の掃除をしていた時だ。赤石の声が聞こえてきた。
「え、好みのタイプ? 女の人で?」
「はい!」
思わず振り返ると、赤石と向かい合わせに稲田と間渕が座っていて、稲田はキラキラした目で返事をしていた。赤石は腕組みした。
「えー…? 芸能人で言うならグラドルの『米華イブ』だけど…」
「あ、店長、古過ぎて我々分からないです」
間渕が言うと赤石はずっこけた。
「え、『イブっち』知らない? そういう世代かぁ」
「あの、なら逆に『こういう人嫌い』っていうのは?」
稲田が言うと、赤石は即座に答えた。
「挨拶しない人!」
「ああ、よく言ってますね」
間渕が笑うと、赤石は頷いた。
「挨拶なんて学歴も年齢も関係なく出来るじゃん。やらない奴大っ嫌い。あとは肩書とか見た目とかで態度変える奴かな」
「そうなんですね」
稲田は真剣な表情で聞いていた。赤石はゆず子に気づくと、手招きして呼んだ。
「お疲れ様です、どうしたの?」
やって来たゆず子を前に、赤石は稲田にこう言った。
「紹介するよ、清掃の鳴瀬さん。俺の第二のマザーね」
「あら、何言ってんの」
「めっちゃイイ人なんだよ、常識人だし分け隔てなく声掛けてくれるし」
(『常識人』…、どうかな?)
照れるゆず子を尻目に、稲田は真剣な眼差しを向ける。
「『お母さん』ですね…、稲田です。よろしくお願いします!」
以来、稲田はバック通路などで会う度、挨拶もして慕ってくるようになった。
「はあーあ、赤石店長かっこいいなぁ。奥さん、絶対美人だろうなあ。鳴瀬さんは会った事あります?」
「うちの会社って、月一で店休日に合わせて講習会あるんですよ。有休扱いじゃないんです、休み潰してるのにありえなくないですか?」
(最初のツンケンした態度が嘘の様ね。赤石くんのお陰ではあるけれど、こんなに素直な子だったんだ。意外ね)
クルクル変化する表情の豊かさは、可愛い半面、心配な部分もあった。
「大学行ってる友達が、そろそろ就活なんですよ。大変だなとは思うけど、羨ましくも感じるんです」
「そうなの?」
「あたしなんて、売り上げが陰りつつあるケーキ屋の社員だけど、同い年の友達の進路はまだですからね。大手からの求人、幾らでもあるんだろうな」
高校を卒業後、製菓学校で資格を取り、パティスリーの本社に内定した稲田は、人生における選択を間違えたと言いたげだった。ゆず子は言った。
「その気になれば70代でも、こうやって勤め先見つける事も出来るのよ。稲田さんも1度きりの人生なんだから、行動起こすのに遅すぎる事は無いと思うよ」
「え…、でも面接とかめんどくさいんで。赤石店長にも会えなくなるの嫌だし、もうちょっと後にしようかなぁ」
稲田は爪先で床をカリカリなぞった。
異変を垣間見たのは、『洋酒窃盗事件』の少し後だった。
その日、ゆず子は従業員トイレの掃除をしていた。出入口から、稲田が笑って入って来た。
「あー、今日鳴瀬さんだった! 良かったー!!」
稲田はハイテンション。てっきり、赤石絡みでいいことでもあったのかと思ったが。
「どうしたの? 何かイイ事でもあった?」
「違う、その逆!! トンデモねえ事あったんですよ」
「とんでもねえ?」
「そうなんです! 実はうちの店にアル中の人が居て、事もあろうか商品に使う洋酒を、仕事中に盗んでたんですよ」
(声、大きいけど大丈夫なのかしら?自店のトラブルの話よね)
「あら、そんな事あったんだ」
「そう。どういう手口だと思います? 仕事場に何本も水筒持って来てて、それに移し替えて持ち出してたんですよ」
稲田は終始笑顔。
「あらあら…」
「でね! あたしのと同じ色と形の水筒を偶然持って来てて、それにお酒入れて後は鞄にしまうだけの状態に、どうやらしてたんですね。で、あたし自分の持ってきた水筒だと思って、グビっと飲んだら、中身お酒で…! チョーびっくりした!! ははは!」
稲田は底抜けに明るい。だが、心配になるぐらいの語り口だ。
「いやね、最初『味違う!毒かも!!』って吐き出しちゃって。でもよく考えたら高くていい酒なんですもん。今更、味わっておけば良かった、なんて思っちゃったり。あはは、とんだ体験ですよね!」
「…そうだったのね、災難ね」
「そうなんですよ、それだけ話したかったんです。それでは!!」
稲田はそう言うと、トイレを後にした。
別の日。従業員休憩室で、稲田と瀬戸が昼食を取っていた。
「瀬戸さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんって、健在ですか?」
「うーん、父方の祖父ちゃんは死んでて、祖母ちゃんは施設。母方は両方居ない」
「母方は、両方お亡くなりに? いつですか?」
「母方の祖父ちゃんは病気で高校生の時かな。祖母ちゃんは5年前。父方の祖父ちゃんは去年」
「え…、そんなに早く?」
「いや、うちの母親末っ子だから、祖父ちゃん祖母ちゃんは父方よりも10個ぐらい上なのよ。そんな早くもないよ、3人とも80代だったし」
稲田の表情が曇り出す。
「80代か、それぐらいなんだ。…今、うちの祖母ちゃんが78なんですよ。あたし、おばあちゃん子だから心配で…」
「でも、寿命なんて個人差激しいから。よその祖父ちゃん祖母ちゃんの没年なんて、何の参考にもならないよ!」
だが、稲田の目はみるみるうちに涙目になる。
「分かってるんです。でもあたし、おばあちゃんが大好き過ぎて、元気な今の段階から居なくなる時の事、考えてしまって悲しくなっちゃうんです」
稲田は涙を一粒落とし、顔を覆った。瀬戸が困惑する。
「え! あ、うん。大丈夫? …何かごめんね!」
(え、大丈夫なの?あの子)
少し離れた場所で、人知れずゆず子も困惑していると、稲田は涙を拭い、いつもの笑顔を浮かべた。
「…すみません、おばあちゃんの事となると、いつでもどこでも泣けてしまうんです。大丈夫ですので!」
ゆず子は、稲田に異常さを感じた。
(元からそういう気質なのかな。それとも精神的に参っているのかな?)
瀬戸が悪阻で休みがちの時、元気の無い稲田はこんな事を言って来た。
「何かもう、仕事、辞めようかな。最近そう思うようになってるんです」
「そうなの。何か顔色も優れないわね」
「体調は、まあ。…売り上げ悪くって、パートさんを全員辞めさせたんですよ。レジとか接客を社員皆で当番制にして。人件費のために社員も最低人数しか入れないから、週に2日はパティシエなのに1日中レジ打ちなんです。何か、レジ打ちする為に製菓学校通ったのかな?なんて考えちゃって」
噂でパティスリーの業績悪化は聞いていたが、打てる手をかなり打っているようだ。
(社会人になって初めての会社だもんね。仕事に対する思い入れもあるだろうし、会社の状態に精神状態が左右されてるのかも)
とは言え、他所の会社の問題だ。一朝一夕で問題が解決する訳でもない。
「鳴瀬さん、パティスリーの稲田さん分かります? あの人、辞めたみたいですよ」
間渕から情報をもたらされたのは、瀬戸の退職からひと月ぐらいの頃だ。
「あら、そうなの?」
「何か、おばあちゃんが具合悪くなったとかで、家族総出で介護する事になりそうとか? ご丁寧にもうちのお店に来て、私と店長にご挨拶されました」
「あー、何か前におばあちゃんの事で泣きそうになってたから、それかぁ」
だが、間渕は懐疑的な表情だった。
「どうてすかね? 家庭の問題って言えば、誰も分からないし文句も言えないじゃないですか」
「うーん…、それもあるかぁ。何か、精神的にちょっと不安定な子だったわね」
「確かに、テンションおかしい子でしたね」
ゆず子の顔を見ると犬の様に人懐こく寄って来る子だったのに、挨拶も前触れもなく、稲田は居なくなった。
「もしかして、鳴瀬さん?」
聞き覚えのある声で呼び止められたのは、それからふた月後。客用トイレ掃除をしている時だった。
「え、稲田さん?」
「あー、やっぱり鳴瀬さんだぁ! ご無沙汰です!!」
私服の稲田はとびきりの笑顔だった。
「久しぶりね、辞めたって聞いたけど、おばあちゃんは元気なの?」
「あー、はい! 元気です! すみません、挨拶まともにしないで辞めて」
(やっぱりおばあちゃんは口実だったのかな)
ゆず子はそんな事はおくびにも出さずに、口を開いた。
「いいのよ、あたしはただの掃除のおばちゃんだし。元気そうね」
「はい! いま○○駅のビルに入ってるケーキ屋で働いてるんです。今日は定休日で、買い物に」
「転職したのね。どう? 仕事は」
「パティスリーとまた違って、楽しいです。そうそう、鳴瀬さん、ありがとうございました」
「え、どうしたの? 急に」
「あの時、何歳でも挑戦できるって背中押してくれて。お陰でちゃんと転職できました!」
「あら。そうだったっけ」
稲田は在職中に比べると、自然体の笑みだ。
「うちのお祖母ちゃんや両親は、『大手や有名企業じゃないと働いて損をする』みたいに常々言っていたんです。だからあたし、テレビとかに取り上げられたパティスリーに、しがみついてたんですね」
「…そうだったのね」
「有名どころだからいいなんて、ありませんよね。今の職場、小さいけど毎日楽しいですもん」
彼女は幸運にも、転職で天職にありつけたのか。ネームバリューよりも大切な物に気づいた、彼女の1年間であった。
「お疲れ様です」
初めて見かけたのは、SC内ゴミ集積所。通り過ぎる時に挨拶したが、そっぽを向かれ無言だった。
「…あれ、文句言った方がいいですよ」
見ていた所員の森下が口を尖らせると、傍に居た清掃員も、苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「でもあそこの店、店長もあんな感じだから、言ったとこでど~だか!」
他店舗従業員からも、設備管理従業員(清掃員・警備員など)からも評判はかなり悪かった。が、本人は自店舗以外を見下しているのか、どこ吹く風の如く気にしてないようだった。
(すごいメンタル。従業員教育が『しっかり』しているのね、きっと)
「鳴瀬さぁん、何か面倒くさい人に目を付けられてます~」
「え、なーに? お客さん?」
「いいえー、パティスリーの若い女の店員さんです」
唐揚げ屋従業員:間渕がゆず子に愚痴って来たのは、パティスリーが開店してから4ヶ月くらいの頃だった。ゆず子は手を止めて尋ねた。
「どういう事? クレーマーとか?」
「稲田さんって言ったかな、あの人。どうやら赤石店長を狙ってるみたいなんですよ。それで齢が近い私に色々話しかけて来るんです」
「ああ、そういうこと。赤石くん男前だものね。結婚してるって教えたら?」
「教えたけどダメなんですよ。ワンチャンでも狙ってんのかな?」
(『標的攻略』のために、年の近い同性と仲良くなろうとするなんて、まるで子供みたいね)
『既婚』関係無しに狙ってるなら、協力者などいちいち作らず、待ち伏せなり連絡先を渡すなりするものだ。
稲田のは『憧れの先輩』とか、『推し』に近い感情みたいだ。間渕は続けた。
「この前も休憩時間被った時に、『赤石店長って、いつ頃休憩ですか?』とか『同い年だし、敬語やめない?』とか、グイグイ来られて参っちゃったんです」
「へえ、あの人そういう性格なんだ」
ゆず子が感心して言うと、間渕はゲンナリした顔をした。
「自分とは合わないっす。何か、粘着っぽいと言うか、依存っぽいと言うか。勝手に友達認定されちゃったし」
「本人に悪気ないから、余計に困るわね」
ゆず子も苦笑いをした。
ある時、従業員休憩室の掃除をしていた時だ。赤石の声が聞こえてきた。
「え、好みのタイプ? 女の人で?」
「はい!」
思わず振り返ると、赤石と向かい合わせに稲田と間渕が座っていて、稲田はキラキラした目で返事をしていた。赤石は腕組みした。
「えー…? 芸能人で言うならグラドルの『米華イブ』だけど…」
「あ、店長、古過ぎて我々分からないです」
間渕が言うと赤石はずっこけた。
「え、『イブっち』知らない? そういう世代かぁ」
「あの、なら逆に『こういう人嫌い』っていうのは?」
稲田が言うと、赤石は即座に答えた。
「挨拶しない人!」
「ああ、よく言ってますね」
間渕が笑うと、赤石は頷いた。
「挨拶なんて学歴も年齢も関係なく出来るじゃん。やらない奴大っ嫌い。あとは肩書とか見た目とかで態度変える奴かな」
「そうなんですね」
稲田は真剣な表情で聞いていた。赤石はゆず子に気づくと、手招きして呼んだ。
「お疲れ様です、どうしたの?」
やって来たゆず子を前に、赤石は稲田にこう言った。
「紹介するよ、清掃の鳴瀬さん。俺の第二のマザーね」
「あら、何言ってんの」
「めっちゃイイ人なんだよ、常識人だし分け隔てなく声掛けてくれるし」
(『常識人』…、どうかな?)
照れるゆず子を尻目に、稲田は真剣な眼差しを向ける。
「『お母さん』ですね…、稲田です。よろしくお願いします!」
以来、稲田はバック通路などで会う度、挨拶もして慕ってくるようになった。
「はあーあ、赤石店長かっこいいなぁ。奥さん、絶対美人だろうなあ。鳴瀬さんは会った事あります?」
「うちの会社って、月一で店休日に合わせて講習会あるんですよ。有休扱いじゃないんです、休み潰してるのにありえなくないですか?」
(最初のツンケンした態度が嘘の様ね。赤石くんのお陰ではあるけれど、こんなに素直な子だったんだ。意外ね)
クルクル変化する表情の豊かさは、可愛い半面、心配な部分もあった。
「大学行ってる友達が、そろそろ就活なんですよ。大変だなとは思うけど、羨ましくも感じるんです」
「そうなの?」
「あたしなんて、売り上げが陰りつつあるケーキ屋の社員だけど、同い年の友達の進路はまだですからね。大手からの求人、幾らでもあるんだろうな」
高校を卒業後、製菓学校で資格を取り、パティスリーの本社に内定した稲田は、人生における選択を間違えたと言いたげだった。ゆず子は言った。
「その気になれば70代でも、こうやって勤め先見つける事も出来るのよ。稲田さんも1度きりの人生なんだから、行動起こすのに遅すぎる事は無いと思うよ」
「え…、でも面接とかめんどくさいんで。赤石店長にも会えなくなるの嫌だし、もうちょっと後にしようかなぁ」
稲田は爪先で床をカリカリなぞった。
異変を垣間見たのは、『洋酒窃盗事件』の少し後だった。
その日、ゆず子は従業員トイレの掃除をしていた。出入口から、稲田が笑って入って来た。
「あー、今日鳴瀬さんだった! 良かったー!!」
稲田はハイテンション。てっきり、赤石絡みでいいことでもあったのかと思ったが。
「どうしたの? 何かイイ事でもあった?」
「違う、その逆!! トンデモねえ事あったんですよ」
「とんでもねえ?」
「そうなんです! 実はうちの店にアル中の人が居て、事もあろうか商品に使う洋酒を、仕事中に盗んでたんですよ」
(声、大きいけど大丈夫なのかしら?自店のトラブルの話よね)
「あら、そんな事あったんだ」
「そう。どういう手口だと思います? 仕事場に何本も水筒持って来てて、それに移し替えて持ち出してたんですよ」
稲田は終始笑顔。
「あらあら…」
「でね! あたしのと同じ色と形の水筒を偶然持って来てて、それにお酒入れて後は鞄にしまうだけの状態に、どうやらしてたんですね。で、あたし自分の持ってきた水筒だと思って、グビっと飲んだら、中身お酒で…! チョーびっくりした!! ははは!」
稲田は底抜けに明るい。だが、心配になるぐらいの語り口だ。
「いやね、最初『味違う!毒かも!!』って吐き出しちゃって。でもよく考えたら高くていい酒なんですもん。今更、味わっておけば良かった、なんて思っちゃったり。あはは、とんだ体験ですよね!」
「…そうだったのね、災難ね」
「そうなんですよ、それだけ話したかったんです。それでは!!」
稲田はそう言うと、トイレを後にした。
別の日。従業員休憩室で、稲田と瀬戸が昼食を取っていた。
「瀬戸さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんって、健在ですか?」
「うーん、父方の祖父ちゃんは死んでて、祖母ちゃんは施設。母方は両方居ない」
「母方は、両方お亡くなりに? いつですか?」
「母方の祖父ちゃんは病気で高校生の時かな。祖母ちゃんは5年前。父方の祖父ちゃんは去年」
「え…、そんなに早く?」
「いや、うちの母親末っ子だから、祖父ちゃん祖母ちゃんは父方よりも10個ぐらい上なのよ。そんな早くもないよ、3人とも80代だったし」
稲田の表情が曇り出す。
「80代か、それぐらいなんだ。…今、うちの祖母ちゃんが78なんですよ。あたし、おばあちゃん子だから心配で…」
「でも、寿命なんて個人差激しいから。よその祖父ちゃん祖母ちゃんの没年なんて、何の参考にもならないよ!」
だが、稲田の目はみるみるうちに涙目になる。
「分かってるんです。でもあたし、おばあちゃんが大好き過ぎて、元気な今の段階から居なくなる時の事、考えてしまって悲しくなっちゃうんです」
稲田は涙を一粒落とし、顔を覆った。瀬戸が困惑する。
「え! あ、うん。大丈夫? …何かごめんね!」
(え、大丈夫なの?あの子)
少し離れた場所で、人知れずゆず子も困惑していると、稲田は涙を拭い、いつもの笑顔を浮かべた。
「…すみません、おばあちゃんの事となると、いつでもどこでも泣けてしまうんです。大丈夫ですので!」
ゆず子は、稲田に異常さを感じた。
(元からそういう気質なのかな。それとも精神的に参っているのかな?)
瀬戸が悪阻で休みがちの時、元気の無い稲田はこんな事を言って来た。
「何かもう、仕事、辞めようかな。最近そう思うようになってるんです」
「そうなの。何か顔色も優れないわね」
「体調は、まあ。…売り上げ悪くって、パートさんを全員辞めさせたんですよ。レジとか接客を社員皆で当番制にして。人件費のために社員も最低人数しか入れないから、週に2日はパティシエなのに1日中レジ打ちなんです。何か、レジ打ちする為に製菓学校通ったのかな?なんて考えちゃって」
噂でパティスリーの業績悪化は聞いていたが、打てる手をかなり打っているようだ。
(社会人になって初めての会社だもんね。仕事に対する思い入れもあるだろうし、会社の状態に精神状態が左右されてるのかも)
とは言え、他所の会社の問題だ。一朝一夕で問題が解決する訳でもない。
「鳴瀬さん、パティスリーの稲田さん分かります? あの人、辞めたみたいですよ」
間渕から情報をもたらされたのは、瀬戸の退職からひと月ぐらいの頃だ。
「あら、そうなの?」
「何か、おばあちゃんが具合悪くなったとかで、家族総出で介護する事になりそうとか? ご丁寧にもうちのお店に来て、私と店長にご挨拶されました」
「あー、何か前におばあちゃんの事で泣きそうになってたから、それかぁ」
だが、間渕は懐疑的な表情だった。
「どうてすかね? 家庭の問題って言えば、誰も分からないし文句も言えないじゃないですか」
「うーん…、それもあるかぁ。何か、精神的にちょっと不安定な子だったわね」
「確かに、テンションおかしい子でしたね」
ゆず子の顔を見ると犬の様に人懐こく寄って来る子だったのに、挨拶も前触れもなく、稲田は居なくなった。
「もしかして、鳴瀬さん?」
聞き覚えのある声で呼び止められたのは、それからふた月後。客用トイレ掃除をしている時だった。
「え、稲田さん?」
「あー、やっぱり鳴瀬さんだぁ! ご無沙汰です!!」
私服の稲田はとびきりの笑顔だった。
「久しぶりね、辞めたって聞いたけど、おばあちゃんは元気なの?」
「あー、はい! 元気です! すみません、挨拶まともにしないで辞めて」
(やっぱりおばあちゃんは口実だったのかな)
ゆず子はそんな事はおくびにも出さずに、口を開いた。
「いいのよ、あたしはただの掃除のおばちゃんだし。元気そうね」
「はい! いま○○駅のビルに入ってるケーキ屋で働いてるんです。今日は定休日で、買い物に」
「転職したのね。どう? 仕事は」
「パティスリーとまた違って、楽しいです。そうそう、鳴瀬さん、ありがとうございました」
「え、どうしたの? 急に」
「あの時、何歳でも挑戦できるって背中押してくれて。お陰でちゃんと転職できました!」
「あら。そうだったっけ」
稲田は在職中に比べると、自然体の笑みだ。
「うちのお祖母ちゃんや両親は、『大手や有名企業じゃないと働いて損をする』みたいに常々言っていたんです。だからあたし、テレビとかに取り上げられたパティスリーに、しがみついてたんですね」
「…そうだったのね」
「有名どころだからいいなんて、ありませんよね。今の職場、小さいけど毎日楽しいですもん」
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