上 下
68 / 93

メンヘラ

しおりを挟む
 彼女との距離が近づいたきっかけは、一体何だっただろうか。

「お疲れ様です」

 初めて見かけたのは、SC内ゴミ集積所。通り過ぎる時に挨拶したが、そっぽを向かれ無言だった。

「…あれ、文句言った方がいいですよ」

 見ていた所員の森下が口を尖らせると、傍に居た清掃員も、苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「でもあそこの店、店長もあんな感じだから、言ったとこでど~だか!」

 他店舗従業員からも、設備管理従業員(清掃員・警備員など)からも評判はかなり悪かった。が、本人は自店舗以外を見下しているのか、どこ吹く風の如く気にしてないようだった。

(すごいメンタル。従業員教育が『しっかり』しているのね、きっと)



「鳴瀬さぁん、何か面倒くさい人に目を付けられてます~」

「え、なーに? お客さん?」

「いいえー、パティスリーの若い女の店員さんです」

 唐揚げ屋従業員:間渕がゆず子に愚痴って来たのは、パティスリーが開店してから4ヶ月くらいの頃だった。ゆず子は手を止めて尋ねた。

「どういう事? クレーマーとか?」

「稲田さんって言ったかな、あの人。どうやら赤石店長を狙ってるみたいなんですよ。それで齢が近い私に色々話しかけて来るんです」

「ああ、そういうこと。赤石くん男前だものね。結婚してるって教えたら?」

「教えたけどダメなんですよ。ワンチャンでも狙ってんのかな?」

(『標的攻略』のために、年の近い同性と仲良くなろうとするなんて、まるで子供みたいね)

 『既婚』関係無しに狙ってるなら、協力者などいちいち作らず、待ち伏せなり連絡先を渡すなりするものだ。
 稲田のは『憧れの先輩』とか、『推し』に近い感情みたいだ。間渕は続けた。

「この前も休憩時間被った時に、『赤石店長って、いつ頃休憩ですか?』とか『同い年だし、敬語やめない?』とか、グイグイ来られて参っちゃったんです」

「へえ、あの人そういう性格なんだ」

 ゆず子が感心して言うと、間渕はゲンナリした顔をした。

「自分とは合わないっす。何か、粘着っぽいと言うか、依存っぽいと言うか。勝手に友達認定されちゃったし」

「本人に悪気ないから、余計に困るわね」

 ゆず子も苦笑いをした。



 ある時、従業員休憩室の掃除をしていた時だ。赤石の声が聞こえてきた。

「え、好みのタイプ? 女の人で?」

「はい!」

 思わず振り返ると、赤石と向かい合わせに稲田と間渕が座っていて、稲田はキラキラした目で返事をしていた。赤石は腕組みした。

「えー…? 芸能人で言うならグラドルの『米華イブ』だけど…」

「あ、店長、古過ぎて我々分からないです」

 間渕が言うと赤石はずっこけた。

「え、『イブっち』知らない? そういう世代かぁ」

「あの、なら逆に『こういう人嫌い』っていうのは?」

 稲田が言うと、赤石は即座に答えた。

「挨拶しない人!」

「ああ、よく言ってますね」

 間渕が笑うと、赤石は頷いた。

「挨拶なんて学歴も年齢も関係なく出来るじゃん。やらない奴大っ嫌い。あとは肩書とか見た目とかで態度変える奴かな」

「そうなんですね」

 稲田は真剣な表情で聞いていた。赤石はゆず子に気づくと、手招きして呼んだ。

「お疲れ様です、どうしたの?」

 やって来たゆず子を前に、赤石は稲田にこう言った。

「紹介するよ、清掃の鳴瀬さん。俺の第二のマザーね」

「あら、何言ってんの」

「めっちゃイイ人なんだよ、常識人だし分け隔てなく声掛けてくれるし」

(『常識人』…、どうかな?)
 照れるゆず子を尻目に、稲田は真剣な眼差しを向ける。

「『お母さん』ですね…、稲田です。よろしくお願いします!」



 以来、稲田はバック通路などで会う度、挨拶もして慕ってくるようになった。

「はあーあ、赤石店長かっこいいなぁ。奥さん、絶対美人だろうなあ。鳴瀬さんは会った事あります?」

「うちの会社って、月一で店休日に合わせて講習会あるんですよ。有休扱いじゃないんです、休み潰してるのにありえなくないですか?」

(最初のツンケンした態度が嘘の様ね。赤石くんのお陰ではあるけれど、こんなに素直な子だったんだ。意外ね)



 クルクル変化する表情の豊かさは、可愛い半面、心配な部分もあった。

「大学行ってる友達が、そろそろ就活なんですよ。大変だなとは思うけど、羨ましくも感じるんです」

「そうなの?」

「あたしなんて、売り上げが陰りつつあるケーキ屋の社員だけど、同い年の友達の進路はまだですからね。大手からの求人、幾らでもあるんだろうな」

 高校を卒業後、製菓学校で資格を取り、パティスリーの本社に内定した稲田は、人生における選択を間違えたと言いたげだった。ゆず子は言った。

「その気になれば70代でも、こうやって勤め先見つける事も出来るのよ。稲田さんも1度きりの人生なんだから、行動起こすのに遅すぎる事は無いと思うよ」

「え…、でも面接とかめんどくさいんで。赤石店長にも会えなくなるの嫌だし、もうちょっと後にしようかなぁ」

 稲田は爪先で床をカリカリなぞった。



 異変を垣間見たのは、『洋酒窃盗事件』の少し後だった。

 その日、ゆず子は従業員トイレの掃除をしていた。出入口から、稲田が笑って入って来た。

「あー、今日鳴瀬さんだった! 良かったー!!」

 稲田はハイテンション。てっきり、赤石絡みでいいことでもあったのかと思ったが。

「どうしたの? 何かイイ事でもあった?」

「違う、その逆!! トンデモねえ事あったんですよ」

「とんでもねえ?」

「そうなんです! 実はうちの店にアル中の人が居て、事もあろうか商品に使う洋酒を、仕事中に盗んでたんですよ」

(声、大きいけど大丈夫なのかしら?自店のトラブルの話よね)
「あら、そんな事あったんだ」

「そう。どういう手口だと思います? 仕事場に何本も水筒持って来てて、それに移し替えて持ち出してたんですよ」

 稲田は終始笑顔。

「あらあら…」

「でね! あたしのと同じ色と形の水筒を偶然持って来てて、それにお酒入れて後は鞄にしまうだけの状態に、どうやらしてたんですね。で、あたし自分の持ってきた水筒だと思って、グビっと飲んだら、中身お酒で…! チョーびっくりした!! ははは!」

 稲田は底抜けに明るい。だが、心配になるぐらいの語り口だ。

「いやね、最初『味違う!毒かも!!』って吐き出しちゃって。でもよく考えたら高くていい酒なんですもん。今更、味わっておけば良かった、なんて思っちゃったり。あはは、とんだ体験ですよね!」

「…そうだったのね、災難ね」

「そうなんですよ、それだけ話したかったんです。それでは!!」

 稲田はそう言うと、トイレを後にした。



 別の日。従業員休憩室で、稲田と瀬戸が昼食を取っていた。

「瀬戸さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんって、健在ですか?」

「うーん、父方の祖父ちゃんは死んでて、祖母ちゃんは施設。母方は両方居ない」

「母方は、両方お亡くなりに? いつですか?」

「母方の祖父ちゃんは病気で高校生の時かな。祖母ちゃんは5年前。父方の祖父ちゃんは去年」

「え…、そんなに早く?」

「いや、うちの母親末っ子だから、祖父ちゃん祖母ちゃんは父方よりも10個ぐらい上なのよ。そんな早くもないよ、3人とも80代だったし」

 稲田の表情が曇り出す。

「80代か、それぐらいなんだ。…今、うちの祖母ちゃんが78なんですよ。あたし、おばあちゃん子だから心配で…」

「でも、寿命なんて個人差激しいから。よその祖父ちゃん祖母ちゃんの没年なんて、何の参考にもならないよ!」

 だが、稲田の目はみるみるうちに涙目になる。

「分かってるんです。でもあたし、おばあちゃんが大好き過ぎて、元気な今の段階から居なくなる時の事、考えてしまって悲しくなっちゃうんです」

 稲田は涙を一粒落とし、顔を覆った。瀬戸が困惑する。

「え! あ、うん。大丈夫? …何かごめんね!」

(え、大丈夫なの?あの子)
 少し離れた場所で、人知れずゆず子も困惑していると、稲田は涙を拭い、いつもの笑顔を浮かべた。

「…すみません、おばあちゃんの事となると、いつでもどこでも泣けてしまうんです。大丈夫ですので!」

 ゆず子は、稲田に異常さを感じた。



(元からそういう気質なのかな。それとも精神的に参っているのかな?)

 瀬戸が悪阻で休みがちの時、元気の無い稲田はこんな事を言って来た。

「何かもう、仕事、辞めようかな。最近そう思うようになってるんです」

「そうなの。何か顔色も優れないわね」

「体調は、まあ。…売り上げ悪くって、パートさんを全員辞めさせたんですよ。レジとか接客を社員皆で当番制にして。人件費のために社員も最低人数しか入れないから、週に2日はパティシエなのに1日中レジ打ちなんです。何か、レジ打ちする為に製菓学校通ったのかな?なんて考えちゃって」

 噂でパティスリーの業績悪化は聞いていたが、打てる手をかなり打っているようだ。

(社会人になって初めての会社だもんね。仕事に対する思い入れもあるだろうし、会社の状態に精神状態が左右されてるのかも)

 とは言え、他所の会社の問題だ。一朝一夕で問題が解決する訳でもない。



「鳴瀬さん、パティスリーの稲田さん分かります? あの人、辞めたみたいですよ」

 間渕から情報をもたらされたのは、瀬戸の退職からひと月ぐらいの頃だ。

「あら、そうなの?」

「何か、おばあちゃんが具合悪くなったとかで、家族総出で介護する事になりそうとか? ご丁寧にもうちのお店に来て、私と店長にご挨拶されました」

「あー、何か前におばあちゃんの事で泣きそうになってたから、それかぁ」

 だが、間渕は懐疑的な表情だった。

「どうてすかね? 家庭の問題って言えば、誰も分からないし文句も言えないじゃないですか」

「うーん…、それもあるかぁ。何か、精神的にちょっと不安定な子だったわね」

「確かに、テンションおかしい子でしたね」

 ゆず子の顔を見ると犬の様に人懐こく寄って来る子だったのに、挨拶も前触れもなく、稲田は居なくなった。



「もしかして、鳴瀬さん?」

 聞き覚えのある声で呼び止められたのは、それからふた月後。客用トイレ掃除をしている時だった。

「え、稲田さん?」

「あー、やっぱり鳴瀬さんだぁ! ご無沙汰です!!」

 私服の稲田はとびきりの笑顔だった。

「久しぶりね、辞めたって聞いたけど、おばあちゃんは元気なの?」

「あー、はい! 元気です! すみません、挨拶まともにしないで辞めて」

(やっぱりおばあちゃんは口実だったのかな)
 ゆず子はそんな事はおくびにも出さずに、口を開いた。

「いいのよ、あたしはただの掃除のおばちゃんだし。元気そうね」

「はい! いま○○駅のビルに入ってるケーキ屋で働いてるんです。今日は定休日で、買い物に」

「転職したのね。どう? 仕事は」

「パティスリーとまた違って、楽しいです。そうそう、鳴瀬さん、ありがとうございました」

「え、どうしたの? 急に」

「あの時、何歳でも挑戦できるって背中押してくれて。お陰でちゃんと転職できました!」

「あら。そうだったっけ」

 稲田は在職中に比べると、自然体の笑みだ。

「うちのお祖母ちゃんや両親は、『大手や有名企業じゃないと働いて損をする』みたいに常々言っていたんです。だからあたし、テレビとかに取り上げられたパティスリーに、しがみついてたんですね」

「…そうだったのね」

「有名どころだからいいなんて、ありませんよね。今の職場、小さいけど毎日楽しいですもん」


 彼女は幸運にも、転職で天職にありつけたのか。ネームバリューよりも大切な物に気づいた、彼女の1年間であった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

処理中です...