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馬車に揺られ、本家に到着したのは昼前のことだった。由緒ある神社ではあるが、本殿はない。まだない、と言った方が正しいか。
おみが立派な龍神に成長した時に建てられる本殿は、まだ基礎しか造られていない。しかし本当に建てられたらきっとどこよりも素晴らしい本殿になるだろう。
それくらいこの小さな子に人間の期待が寄せられていた。
「おみ様、お待ちしておりました」
「み?」
奥の社務所から長兄、修一が私たちを出迎えにやって来た。人見知りなおみは怯えて私の後ろに隠れてしまう。
そういえば、初めて会った時も同じような反応をされたな。あの時は「前途多難だ」と思ったが、打ち解けてからはあっという間に懐いてくれた。人からの愛情を素直に受け取れるのだろう。そこが可愛らしく、そして愛おしいのだ。
「修三の兄で、ここの神主をしております。修一と申します。どうぞごゆっくりお過ごしください」
「しゅうのあに?」
「ええ。私には二人の兄がいます。こちらは長男、次男は東京の大学で教授をしているのですよ」
「きょーじゅ?」
「いずれ分かりますよ」
難しい話はこの辺にしておこう。とりあえず今は疲れた体を休めてあげたい。さっそくおみに用意された部屋へと向かう。荷物はそこまで多くない。キョロキョロしているおみが、私の手を繋いで少し後ろからついてくる。社務所は長兄の家を兼ねており、かつて私もここで生活をしていた。
裏には修行用の滝もあるし、霊力もふんだんに流れている。ここで生活することはおみにとって何不自由ないだろう。山での生活は自由があるが、その分自分たちでやるべきことも多い。せめて戦争が終わるまではここで安全に過ごせばいいだろう。その後私の後継者が見つかれば、またあの山に行けばいい。
「しゅうのおへやは?」
「おみの隣ですよ」
「よかったー!」
「今日は早く寝ましょうね。ここのお風呂は広くて気持ちいいですよ」
「まー!」
どうやら旅行か何かと思っているらしい。それならそれでいい。おみにはなんの心配もなく、穏やかに生きて欲しい。そんなことをしたら後からひどく恨まれるだろうが。これは私からの、せめてもの償いなのだ。
「おみ様、食事はお部屋に運ばせます。おかわりが欲しければすぐに言ってくださいね」
「あ、ありがとじゃいましゅ、しゅうにぃ」
「いえ……なんだかこそばゆいですな、その呼び方は」
「だめだったの?」
「いいえ。嬉しい限りです、おみ様」
想定外の呼び方に、普段は険しい表情の長兄も絆されている。さすがおみ。
案内された部屋はほどよく広く、日当たりのいいところだった。客人をもてなす部屋としては最も上等な部屋だ。ふかふかの布団と手入れされた文机、それから十分すぎるほどの箪笥が置かれている。ここならおみものびのび過ごせるだろう。
「ご飯の前にお風呂をどうぞ」
「ありがとー! しゅう、いってくるねー!」
「はい。いってらっしゃい」
側仕えの巫女に案内され、おみは意気揚々と部屋を出て行った。そうして、部屋には私と長兄だけになる。ちゃんと話ができるのは、きっと今が最初で最後だろう。
「修三、本当にいいのか」
「これ以外方法が分かりませんでした」
「……すまない」
「いえ。私も室生の人間です。やるべきことはやらなくては」
そう言って懐から折り畳んだ半紙を取り出す。昨夜、このことを決めてから書いたものだ。これがあれば次に受け継いでいける。私が残すこの言葉があれば。
また、新しい人がおみのそばにいられる。
「辞世の句か」
「はい。かつての歌人から借りさせてもらいました」
「……明日は、何時に出る」
「夜明け前には。おみが起きる前にはここを出たい」
おそらく話はついているだろう。ここから少し離れた場所に海軍の基地がある。そこに行って、自分の能力以上の霊力を使い、そして嵐を起こす。まあ、きっとうまくはいかないだろう。私にできるのはおみのために結界を張ることくらいだ。
どんなに頑張っても嵐なんか起こせない。しかし、それでも「室生の人間が手を貸した」という事実が大切なのだ。それによって本家を、おみを守ることができる。
「日本は、勝てない」
「そうでしょうね」
「命を無駄に捨てることになる。政府からの要請は私がどうにかしよう」
「今更何を言っているんですか。室生の立場を考えてください。今は良くてもその先が無くなってしまう」
「……どうしてこんなことになったのか」
「どうして、でしょうね」
戦争が悪い。時代が悪い。何もかもが、悪い方向に流れていた。もしも戦争が起きなければ私はもっとおみと一緒にいられただろう。平和に、あの山で、のんびりと過ごせていただろう。
しかし時代の流れに飲み込まれた私たちはこういう方法しか選べなくなっていた。
「そうだ、兄上。最後に一つ、私のわがままを聞いてくださいますか」
「なんでも言え」
「ありがとうございます」
自分の命を持って室生の家を守ることに迷いはない。おみのためなら私はいくらでも命を差し出そう。
だからこれは、私の唯一のわがままだ。禁忌であっても。
せめてこれくらいは。叶えて欲しい。
「どうかご無事で。平和な世界がすぐに訪れることを願っております」
「私もだ」
空はどこまでも青く、澄み渡っている。
明日、雨は降るだろうか。そんな残酷なことを考えながら、長兄の隣で静かに夜を待っていた。
おみが立派な龍神に成長した時に建てられる本殿は、まだ基礎しか造られていない。しかし本当に建てられたらきっとどこよりも素晴らしい本殿になるだろう。
それくらいこの小さな子に人間の期待が寄せられていた。
「おみ様、お待ちしておりました」
「み?」
奥の社務所から長兄、修一が私たちを出迎えにやって来た。人見知りなおみは怯えて私の後ろに隠れてしまう。
そういえば、初めて会った時も同じような反応をされたな。あの時は「前途多難だ」と思ったが、打ち解けてからはあっという間に懐いてくれた。人からの愛情を素直に受け取れるのだろう。そこが可愛らしく、そして愛おしいのだ。
「修三の兄で、ここの神主をしております。修一と申します。どうぞごゆっくりお過ごしください」
「しゅうのあに?」
「ええ。私には二人の兄がいます。こちらは長男、次男は東京の大学で教授をしているのですよ」
「きょーじゅ?」
「いずれ分かりますよ」
難しい話はこの辺にしておこう。とりあえず今は疲れた体を休めてあげたい。さっそくおみに用意された部屋へと向かう。荷物はそこまで多くない。キョロキョロしているおみが、私の手を繋いで少し後ろからついてくる。社務所は長兄の家を兼ねており、かつて私もここで生活をしていた。
裏には修行用の滝もあるし、霊力もふんだんに流れている。ここで生活することはおみにとって何不自由ないだろう。山での生活は自由があるが、その分自分たちでやるべきことも多い。せめて戦争が終わるまではここで安全に過ごせばいいだろう。その後私の後継者が見つかれば、またあの山に行けばいい。
「しゅうのおへやは?」
「おみの隣ですよ」
「よかったー!」
「今日は早く寝ましょうね。ここのお風呂は広くて気持ちいいですよ」
「まー!」
どうやら旅行か何かと思っているらしい。それならそれでいい。おみにはなんの心配もなく、穏やかに生きて欲しい。そんなことをしたら後からひどく恨まれるだろうが。これは私からの、せめてもの償いなのだ。
「おみ様、食事はお部屋に運ばせます。おかわりが欲しければすぐに言ってくださいね」
「あ、ありがとじゃいましゅ、しゅうにぃ」
「いえ……なんだかこそばゆいですな、その呼び方は」
「だめだったの?」
「いいえ。嬉しい限りです、おみ様」
想定外の呼び方に、普段は険しい表情の長兄も絆されている。さすがおみ。
案内された部屋はほどよく広く、日当たりのいいところだった。客人をもてなす部屋としては最も上等な部屋だ。ふかふかの布団と手入れされた文机、それから十分すぎるほどの箪笥が置かれている。ここならおみものびのび過ごせるだろう。
「ご飯の前にお風呂をどうぞ」
「ありがとー! しゅう、いってくるねー!」
「はい。いってらっしゃい」
側仕えの巫女に案内され、おみは意気揚々と部屋を出て行った。そうして、部屋には私と長兄だけになる。ちゃんと話ができるのは、きっと今が最初で最後だろう。
「修三、本当にいいのか」
「これ以外方法が分かりませんでした」
「……すまない」
「いえ。私も室生の人間です。やるべきことはやらなくては」
そう言って懐から折り畳んだ半紙を取り出す。昨夜、このことを決めてから書いたものだ。これがあれば次に受け継いでいける。私が残すこの言葉があれば。
また、新しい人がおみのそばにいられる。
「辞世の句か」
「はい。かつての歌人から借りさせてもらいました」
「……明日は、何時に出る」
「夜明け前には。おみが起きる前にはここを出たい」
おそらく話はついているだろう。ここから少し離れた場所に海軍の基地がある。そこに行って、自分の能力以上の霊力を使い、そして嵐を起こす。まあ、きっとうまくはいかないだろう。私にできるのはおみのために結界を張ることくらいだ。
どんなに頑張っても嵐なんか起こせない。しかし、それでも「室生の人間が手を貸した」という事実が大切なのだ。それによって本家を、おみを守ることができる。
「日本は、勝てない」
「そうでしょうね」
「命を無駄に捨てることになる。政府からの要請は私がどうにかしよう」
「今更何を言っているんですか。室生の立場を考えてください。今は良くてもその先が無くなってしまう」
「……どうしてこんなことになったのか」
「どうして、でしょうね」
戦争が悪い。時代が悪い。何もかもが、悪い方向に流れていた。もしも戦争が起きなければ私はもっとおみと一緒にいられただろう。平和に、あの山で、のんびりと過ごせていただろう。
しかし時代の流れに飲み込まれた私たちはこういう方法しか選べなくなっていた。
「そうだ、兄上。最後に一つ、私のわがままを聞いてくださいますか」
「なんでも言え」
「ありがとうございます」
自分の命を持って室生の家を守ることに迷いはない。おみのためなら私はいくらでも命を差し出そう。
だからこれは、私の唯一のわがままだ。禁忌であっても。
せめてこれくらいは。叶えて欲しい。
「どうかご無事で。平和な世界がすぐに訪れることを願っております」
「私もだ」
空はどこまでも青く、澄み渡っている。
明日、雨は降るだろうか。そんな残酷なことを考えながら、長兄の隣で静かに夜を待っていた。
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