悪魔は甘美な罠を張る

篠瀬白子

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人間

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いつも見ていた。さりげなく、バレないようにこっそりと。
好きな食べ物や好きな色、音楽や映画の趣味も、今はまっている小説のシリーズだって見ていれば分かった。
だから彼は大丈夫だと、なぜ俺はそんなことを思ってしまったのか。


「ホモが、学校に来てんじゃねーよ」
「うつると困るから息止めてくんね?」


ギャハハハハッ! クラスに木霊する下品な笑い声。それを発する男たちのずっと向こうでこちらを見る彼の目は、俺を拒絶していた。

優しい彼だから、俺が告白してもちゃんと振ってくれるはずだし、誰かに言い触らすことなどしないだろうと、俺はなぜそんな思い込みをしていたのだろう。
それから始まった執拗なイジメの日々で、帰宅途中に体の痛みで周りを意識していなかった俺は車に轢かれた。
ぐにゃりと曲がった体がボンネットの上を転げ、重力に従い地面へと落下。あぁ世界が終わるのだ。なんて思ったけれどそんなことはなくて、


――ガァアアンッ!!

「わりぃ、今なんか言った?」


右頬をガーゼで覆った俺の隣から現れた、赤い髪の男は今しがた自分が蹴り上げた扉に寄りかかりながら、静まり返った教室を見下ろす。
男――瀧本はそんなクラスメートたちをカラカラと、独特な笑い声を上げて見下していた。


運悪く俺を轢いてしまったのは、地元でも関わるなと大人たちが口を揃えるヤクザだった。しかも、組頭を乗せた車だった。
運転手いわく、角から突然現れた俺に対応できずに轢いてしまったそうだが、俺は奇跡的にも右頬を地面に掠っただけで済んだ。そんな俺の治療費を出した組頭は、その夜うちに菓子折りを持って謝罪に来たほど紳士的で。
なんだ、ヤクザって言っても普通に常識人なんだなぁ、と家族揃って菓子折りを頂いた翌日、いつものように学校でイジメられている俺の前に現れたのが組頭の息子――瀧本だった。


『親父に轢かれた野郎に興味があって久々に登校したけど、来て良かったわ。
堀田、だっけ? お前さ、俺の使いどころを間違えんなよ?』


と、ボロボロになった教科書をゴミ箱から取り出す俺に、開口一番、瀧本は言ったのである。

俺一人だけだと思っていたクラスメートたちが、扉に寄りかかっていた瀧本の様子を伺った。瀧本はそんな彼らの視線一つ一つに応えるように教室内を舐め回したあと、ゆっくりと歩き出す。
俺はなにも言わずに瀧本のあとを追い、すっかり汚れてしまった自分の席に座ろうとした。瞬間、


――ガラァンンッ!!

「堀田ぁ、てめぇの机はこんなに汚くねぇだろぉ?」


と、空の机を蹴り上げた瀧本は、すぐ前にあった机を倒して中身を出すと、椅子の上で固まる俺の前にそれを引きずった。ゆっくりと瀧本を見上げれば、人の悪い笑みで見下ろす悪魔のような姿。じっとりと見上げる俺の視線に満足したのか、瀧本はすぐ後ろの席に座った。
そこはお前の席じゃないと、誰も言えないことをこの男は知っている。そうして静まり返った教室内で唯一鼻唄をもらす瀧本は、後ろの席から俺のうなじに指先でなんども、なんども円を描いて笑っていた。

使いどころを間違えるな。そう言って現れた瀧本はその日から俺を守るようになった。
いや、守っていると言うのは少し違うかもしれない。彼は、瀧本は遊んでいるのだ。

自分の名前が持つ権力と、人を人とも思えない残忍さの誇示、それによって怯える無力な人間を嘲笑う。
そして、そんな男に守られ自惚れて、自分の手の内に堕ちてくる俺を今か今かと、悪魔のような笑みで待ち望んでいる。

そんな甘い罠になど、誰が嵌ってやるものか。


「お前ってさぁ、意外と不良だよなー」
「瀧本には言われたくない」
「あはは、まぁそうだよなー」


あれから二限目まで真面目(とはいってもずっと俺のうなじで遊んでいたが)に授業を受けていた瀧本は、三限目の鐘が鳴る前に俺を屋上に引っ張ってきた。屋上の柵に背をつけて、並んで煙草を吸う俺たちが吐き出す紫煙が空中でゆらゆらと消えていく。
屋上には誰かが設置したパラソルとビーチチェアがあるが、その上は枯葉やゴミで汚れており、随分使われていないことが見て取れた。


「あれ、設置したの誰だと思う?」
「瀧本」
「ははは、ちげーし。つか俺も知らねー」


カラカラ。機械的な笑い声。
俺はそんな瀧本に目を向けることなく、二本目に火をつけた。

前門の虎、後門の狼。というのはまさに、今の俺の状況に相応しい。
俺をホモだと苛めるクラスメート、そんな彼らから守る振りをして舌なめずりしている悪魔。
あぁ、どちらも性質が悪い。と、思ったところで明日がどう転がるわけでもない。
俺は早々にこの状況を打破する答えを導き出さなければならなかった。


「堀田ってさぁ、分かりやすいよなぁー」


カラカラ。笑っていた瀧本が呟く。その視線がこちらに向いているのをジリジリ感じながら、大きく煙を吸い込んだ。


「そう、初めて言われた」
「へぇ、そうなん?」
「なに考えてるのか分かんないって、親にも言われるからね」
「あぁ、基本無表情だもんな、お前」
「そうらしいね」


口から吐き出る淡々とした言葉、それに混じる紫煙がゆらゆら彷徨って。


「でも、俺はなんでか、分かっちゃうんだよなぁ~」


悪魔は甘美な罠を張る。


◇◇◇◇◇


その日は珍しく、瀧本は学校を休んだ。
いや、珍しいというのも可笑しな話だ。俺の前に現れたあの日から約一週間、それまで学校に来ていたかも分からない瀧本は確かに教室に通い、授業を受けていた。
けれど、瀧本のいない教室こそが当たり前だったのだ。


「あれー? 今日は守ってくれる瀧本はいないんだ~?」
「瀧本もホモは嫌なんじゃねーの? うつっちゃーう、なーんてさぁ」
「ギャハハ! てめーマジその声キメー!」


バコッ。投げつけられた空の紙パックが頭に直撃。僅かに残っていた牛乳が髪にかかった。


「うわ、くせーんだけど、まじうぜー」
「おい誰かゴミ袋持って来いよ。早く捨ててきてー」


なんて低劣な考えしかできないのだろう。そっとため息をついた瞬間、額が机にめり込んだ。ぐわん、と揺れた脳が気持ち悪い。


「なにため息ついてんの? 息すんなって言っただろ?」


後頭部に触れたことで付着した牛乳を俺の制服に擦りつけ、まじ汚ねーとか言いながら手を洗いに行く彼らを横目に、俺は教室の隅でこちらを窺う彼を見てしまう。
まるで自分が被害者のような顔をして、俺を見ている彼。

あれ? 俺、なんであの人が好きになったんだっけ?


「……」


額に大きなガーゼを張りつけ、汚れた制服で帰った俺を、両親はさすがに気づいていたのか転校を進めた。通信制の高校でもいい、これ以上無理をするな、と。
お前の性癖がなんであれ、自分たちの大事な息子が傷つくことのほうが私たちは辛い。
そう言われて、俺は彼に告白してから初めて泣くことができた。


それから俺は高校を辞め、通信制の高校に通うことになった。週に一度は学校へ足を運ぶが、それ以外は在宅学習。余った時間でバイトも始めた。
結局、俺は一体なにがしたかったんだろうな。と、余裕が生まれてからたまに思う。
恋をして、告白して、苛められて、守られて。そのすべてから逃げるようにして訪れた今は、限りなく平和だ。


「よー、堀田ぁ」


再び、瀧本が現れるまでは。


「お前辞めたんだってな。今はなんだっけ、つーしんせい? 通ってんだろ。ははは、しかもバイトまでしてちょー満喫してんじゃん」
「……」
「ん? なにその顔、おもれーな」


バイト先の居酒屋、ゴミ出し中の俺の前に現れた瀧本は、その両隣にいる女性の腰を淫らに撫でつけながら、また悪魔のような笑みを浮かべて小首を傾げる。


「あいつら、入院させちゃった」
「え?」
「殴ったら頭から血ぃ出てさぁ、本当弱いのに吠える口だけは達者だよなー」
「なんで、殴ったの」
「なんで? それこそなんで?」


カラカラ。もう聞くこともないと思った、独特な笑い声。


「自業自得じゃん」


だろ? 今度は逆方向に小首を傾げた瀧本の手がこちらに伸びる。それだけじゃない。瀧本の両隣にいた女性たちも俺に手を伸ばした。
赤い口紅で染まった唇が張りつく。キラキラと光る爪が俺の服の中へ滑り込む。シルバーアクセで飾った筋張った大きな手が、俺のそれを握った。
ゾッと、した。拭いきれない嫌悪感に思わず吐くと、嘔吐物をかけられた女性はくすくすと笑いながら、俺の口周りに舌を這わせる。逃げるように一歩引いてつまずいて、その場に尻もちをついても伸びる手の数は減らず、ついには服が破かれた。
まるで別の生き物のような動きで俺に触れ、すべてを暴こうとする白い手と、最早凶器としか思えない怒張が口の中を襲う。

戻らない俺を心配して来た店長がその場に訪れたとき、俺はもうそこから消えていた。


痛む体を丸めて目を覚ます。瞬間、俺の中を犯すなにかが、怒張が熱を放つ。
寝ぼけ眼で開いた視界で、こちらを見下ろす瀧本が笑った。悪魔が笑った。


「起きた瞬間締めやがって、もっと欲しいのかよ」
「……たき、もと……」


瀧本越しに見知らぬ天井が映る。ここは、どこだ。ずるり、抜けた瞬間、自分の中から溢れる液体の匂いが鼻につく。いや、部屋中がその匂いで吐きそうだ。


「ははは、すっげー出てくる。ちょーエロい」
「……なんで、」
「なんで? そればっかだな、お前」


溢れる液体を指で押し戻しながら、覚えのない快楽のありかを突かれる。ひっ、と口から漏れた声を耳にした瀧本は、カラカラと笑いながら俺の喉仏に噛みついた。


「んっ……はっ、なんでだと思う?」
「しら、ないっ」
「ははっ、泣いてるよ。あー、興奮する……っ」


訳が分からない。突然現れた瀧本に犯されて、一緒にいた女性二人に跨れて、前も後ろも口も手も、すべて良いように扱われ、吐き出され、注がれて、自分の体がもう自分のものじゃあない。

ぼろぼろと泣きだす俺の涙を舐めとり、まつ毛を唇で銜えこむ瀧本がゆったりと離れる。


「お前を苛めてた奴らのさ、仲間がバイト先の同僚だって知らねーだろ?」
「……え、」
「バイトだけじゃねぇ。通信制の高校にだっていたんだよ。今か今か、お前を苛める算段を組んでやがった」
「……なに、言って」
「だからほら、守ってやっただろ?」


な? 笑う瀧本の異常さに体が震えはじめた。得体の知れない、腹の底が見えない。これは、なんだ。


「守ってやったらその報酬を貰う。常識だろ?」
「……意味、分かんない。お前、なんなの……、なにが、したいの……っ」
「またそれかよ、馬鹿の一つ覚えじゃねーんだし、この足りねぇ頭でちったぁ考えろよ堀田ぁ」


チッ、と舌打ちする瀧本に、俺はついに子供のようにわぁわぁと泣きだしてしまった。


「あーあ、目の下まで真っ赤じゃん。汗もすげーし、精液くせーし、今のお前、すっげー惨めだなぁ」
「ひっ、うぅっ、ひっ、うーっ、う、ひぐっ」


泣き崩れる俺を組み敷いたまま、瀧本が髪を梳く。その手の平すら、もう払うこともできない。


「俺は言ったよな。使いどころを間違えんなって。苛めから守ってやっただろ? 孤立するお前の隣にいてやっただろ? そんな俺が急にいなくなって、また惨めになっただろ? いつだってお前は俺に縋ってこれたのに、なんで勝手に消えてんだよ意味分かんねー、お前なんなの? って、俺が聞きてーよ」


髪を梳く指の繊細さとは裏腹に、瀧本の声は低い。


「なんで利用しなかった」
「したっ、ら……っ、今度はたきもとが、おっ、俺を苛めんだろ、がぁ……っ」
「当たり前だろ。お前がそれ分かってんの知ってて優しくしてやったんだ」


悪びれた様子もなく言い放つ瀧本が、中に納まる指を増やした。強くなった圧迫感に足を閉じようとして、瀧本の腰にかかとがぶつかる。


「苛めてくるクソ共、騙そうとする俺、そんな最悪の状況でもお前がどう抜け出すか、俺はこれでも楽しみにしてたんだ。毎日毎日、飽きることなく甘やかしてやったんだ。なのに勝手に消えるとか、そりゃねぇだろ。勝手に終わらせてんじゃねーよ」
「ふざっけ……っ」
「ふざけてんのはてめぇだよ、堀田。はじめに拒まなかったのはそっちだろ。利用したくなきゃ俺を拒めばよかった。なのにそれをしなかったのは寂しかったからだろーが」


核心を突くような戯言をほざき、引き抜いた指の本数を一気に増やした瀧本が奥を穿つ。瞬間、俺はあっけなく果ててしまい、痙攣する体から力を抜いた。


「だから、」


ずる……っ、抜かれた指の感触にさえ、放棄した体は健気に反応を示す。


「今度こそ間違えるな。俺を利用してこの状況から抜け出してみろ。ただし逃げてみろ? 次はこんなんじゃ済まさねぇぞ」


な? と、俺の耳元で囁く瀧本の声が鼓膜を舐め上げる。
呆然と見上げる男の顔は、悪魔なんて表現じゃあもう、可愛らしい。

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