とら×とら

篠瀬白子

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お兄ちゃん 2

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「あの、仕事戻りたいんですけど」
「んー、美味しい肴を逃がすのはもったいねぇなぁ、と思ってよぉ」
「……はぁー……」


ニヤニヤ。笑う巴さんは至極楽しそうではあるが、本能的にこの人に近づくのは危険だと感じている。西さん、いや変態に近い匂いがするというかなんというか。
俺の腕を掴む巴さんの手をぺちりと軽く叩き、少し睨む。


「ダメ、です」
「……」


なぜか俺の行動に呆気に取られている内に抜け出し、さっさとエレベーターへ。扉が閉まる直前、ガンッと大きな音がして、巴さんが足を突っ込んできた。なにしてんだこの人。


「お前、可愛すぎんだろ」
「はぁ?」


本当、この人なんなんだ。
っておい、乗り込んでくんな。どこのホラゲーだよおい!


「卵味噌、デリバリーな?」
「……はい」


んでサラリと注文するとかマジ分からん人だ。
それからカシストに戻り、またお粥を作ってデリバリー。毎度のことながら、もうちょい良い方法はないのだろうか。んー、でもきっとこれが一番なんだろうけどなー。
そんなことを思いながらエレベーターの扉が開いたので、前へ一歩足を進めた瞬間、デスリカに流れる爆音以上のざわつきがあった。
螺旋階段前にはすごい人だかりだし、スタッフの人たちもちょっと慌てた感じである。

なんだろう? 意識がそちらに向きつつも、カウンターで待っている巴さんの元へ。


「お待たせしました。あれ、なんですか?」
「んー? なーんか有名人らしいぜ? ま、んなことよりサンキューな。いただきまーす」
「? はい、召し上がれ。じゃあ俺はこれで」
「――なぁ小虎」
「はい?」


人だかりは気になるが、やはり仕事優先の俺が去ろうとすれば、またも巴さんに呼び止められた。
振り返る俺の視界には、さっそくお粥を食べている巴さんの背中が。


「玲央ってよぉ、誰ともキスしねーんだわ」


はぁ?


「泉を抜かして彼女って呼べる女を作ったこともまぁねぇけどよ、誰にも絶対キスしねーの」
「……はぁ、そうですか」


誰ともキスしない? まぁ、変な潔癖あるし、想像がつくっちゃつくが。
でもそうだとしたら、あの夜のことは? いいや、もっと前にここで、オーナールームで玲央は豹牙先輩と俺に――。

くるりと振り向いた巴さんが、俺の腕を引っ張った。


「だから大事にしろよ?」


と、耳元で一言。訳が分からず呆気に取られる俺の頭を、巴さんがぐしゃぐしゃと撫でた。


「でも隙あらば両方食うつもりなんで、そこんとこよろしく」
「……あえて突っ込みませんからね」


食うって単語がなにを意味しているかくらい、俺でも分かる。現実味はないが。
相変わらずニヤニヤ笑う巴さんにため息をこぼし、俺はさっさと背を向けた。
しかし先ほどの人だかりがエレベーター前に移動しており、前に進むことができない。困ったな、そう思い人だかりの先を覗いてみると、そこにいたのは玲央だった。玲央と、綺麗な女性が腕を組んでいた。


「……」


新しい彼女、だろうか。女性はすごく嬉々としているが、玲央は反対に無表情で、どこか機嫌が悪そうにも見える。
でもデスリカから出てどこ行くんだろ? デート?


「あ」


二人が乗り込んだエレベーターの扉が閉まる直前、玲央と目が合った気がした。そしたらなんだか悪いわけでもないのに、胸の奥がズキンと痛む。
なんだ、これ。分からず首を傾げる俺の周りでは、先ほどの二人をお似合いだと言うみんなの声が聞こえていた。

――その日、玲央は家に帰っては来なかった。
きっとどこぞでさっきの人と楽しい一夜を過ごしているのだろう。
モテる男は大変ですね。つーか泊りなら事前に連絡しとけって話なんだが。

そうやって悪態をつきながら、俺は静まり返った部屋の中、体を丸めて布団に潜った。


確かにここ最近、また帰りが遅くなることも多くなったけど、ちゃんと帰ってきてたじゃん。
自分が先に帰ったときは、俺にしょっぱい晩ご飯作ってくれてたじゃん。
前に俺が寝てから帰ってきたとき、何度か頭撫でてくれたこと知ってんだぞ。
いくら帰りが遅くたって、朝には欠伸しながらおはようって、言ってくれるじゃん。


「……」


朝、目覚めて誰もいない家の中は異様に広くて寂しくて、とっても寒かった。
朝食を作る気力すら湧かなくて、市販のコーンポタージュで済ませたが、美味しいのかどうかも分からない。

みんな、玲央のことをお願いね、と俺に言う。
そう言われるたびに、玲央はたくさんの人に愛されてるんだなぁって実感できて、本当に嬉しいんだ。
だから玲央の迷惑になったり、邪魔になったりすることだけはしたくない。でも、だから――やっぱりワガママを言うのは少し、怖い。

西さんは玲央の女だと言う。
巴さんは他人にキスしない玲央を大事にしろと言う。


「……んだよ、それ……」


玲央のことは大好きだ。そういう意味じゃなくて、家族として、兄として、人として、大好きだ。
そんな玲央に追いつきたいって、がむしゃらになっていたけれど……。


「…………女々しいなぁ、俺」


分かねーよ。大事にしてるじゃん。弟として、頑張ってるつもりだよ。
これ以上どうしろって言うんだよ。なにが足りないのか、教えてよ。

馬鹿レオ。ばか、ばか、ばか。
玲央のくれたケーキで俺、大事なことに気づけたんだよ。それを聞いて欲しかったんだよ。仁さんが受け入れてくれた、雄樹が受け入れてくれた昨日、それを他の誰より玲央に、聞いて欲しかったんだよ。

昨日じゃなくても今朝にでも、ありがとうって言いたかったんだよ。


「ばかれお……」


ぽつりと呟いたそれに、返事はなにも来なかった。


なんとも悲惨なことに、俺の日常には玲央という存在が大きく組み込まれてしまったらしい。
人はそれをブラコンというのかも知れんが、昔から結構ブラコンだったので納得してもやる。

玲央の香り、玲央の体温、無遠慮な撫でまわし、時折見せる優しい表情、昔じゃ考えられない言葉の数々。
おかえりもただいまも、おはようもおやすみも、言えるのは俺だけなんだって思っていたのは多分、優越感。

素直にどうして欲しいか言わずとも、俺は無意識に玲央に甘えていたんだって、分かってしまう虚しさ。


「……なぁ、ゆーきぃー」
「んー?」


あれからお弁当を作る気力もなく、昼は販売用のお粥を食べた。
午後の鐘が鳴っても調理室でぐうたらしている親友、雄樹に声をかける。


「お前ってさぁ、仁さんにどんな風に甘えんの?」
「はい!?」


しかし俺の質問を聞くなり飛び起きて、顔を赤くしながら冷や汗を流していた。
茫然とした表情のままそんな雄樹を見つめ、また口を開く。


「どーやって甘えんの?」
「あの、と、トラさん? 一体どうしちゃったの? ですか?」
「トラさん言うな。つか語彙が変だぞお前」
「だってトラちゃんが変なこと言うからじゃーん!」


変。まぁ、そうだよなぁ。
俺だっていきなり「どうやって甘えんの?」とか聞かれたビビるわ、うん。


「……や、俺さ、甘え方っての? よく分かんなくて」
「……うん?」
「だから、なんつーか、その、あれだ、アレ」
「あれ?」


首を傾げる雄樹とは逆に、今度は俺の頬が真っ赤に染まる。


「こ、恋人いる雄樹なら、あま、えかたとか、分かるかなって、思ったんだけ、ど……」
「…………」


かぁああ。男二人、向かい合わせで顔が真っ赤。なんだこの状態。
むずむずして頭を掻くと、急に雄樹が抱き着いて来た。


「トラちゃん! 可愛い!」
「……」


雄樹さん? 俺の話聞いてました?

あの後、なぜか雄樹は可愛い可愛いを連発し、俺の質問に答えることなくノロケていた。
いやまぁ、ノロケ内容から多少分かったような気もするが、聞く相手を間違えた感は否めない。
かと言って、もう一人の友人、志狼にこんなことを電話して聞くのも気が引ける。

釈然としない俺を気使ってか、雄樹は閉店後、帰ろうとする俺をとっ捕まえて酒盛りを開いたのであった。
雄樹と仁さんと三人で飲む酒はやはり喉をよく通り、同じように酔いが回った雄樹が仁さんにくっつくのを見て、こっちまで恥ずかしくなったほどだ。


「じんしゃーん」
「……おいこら、飲み過ぎだテメー」
「えへへへへ」


と、こんな調子なのだから本当に照れるわけで。
一人酔えずにいる仁さんは俺がいることで焦ってはいたが、その顔はやはり嬉しそうに見える。

別に羨ましいとか、思ってはいない。
あぁやって酒の勢いにまかせて抱き着くのも、きっと甘え方なんだと思う。
玲央にくっつくのは好きだ。ちょっと密着し過ぎかなって思うけど、でも好きなもんは好きだ。


「あ? もう閉店してんのか?」
「巴……」


デスリカとは違い早い時間に閉店するカシストに、ふらりと現れたのは巴さんだった。
仁さんは嫌そうな顔をしていたが、それは巴さんに対してではなく恥ずかしさからだろう。
巴さんは俺の隣に腰を下ろすと、勝手にグラスに酒を注いでいた。


「酒盛りか? いいねぇ、俺も一杯ひっかけていくかな
「おい巴」
「安心しろよ、仁の女にゃ手ぇ出さねぇし、小虎にだって多分出さねぇよ」
「お前な……あんまり玲央をからかうのは止めろ。この二年で変わったのはてめぇだけじゃねぇんだぞ」
「ははは。仁は相変わらず優しいねぇ」


暢気に話を進める二人を見ながら、ちびちび酒を飲む。
なんというか、巴さんは危険な感じもするけど不思議な人だと思う。
どんな場所にもするりと入り込んでくるというか、やっぱヘビみたい。


「おう小虎、このあいだやったアレ、使ったか? 薄くていいだろ、アレ」


ため息をつく仁さんとの会話も早々に、俺の方へくるりと体を向けた巴さんが笑う。指で輪っかを作り上下に動かすのはぜひとも止めて頂きたい。


「ちゅかってましぇんよ」
「あ? おい、お前酔っ払ってんのか?」
「よってないれす。ひょっとろれちゅ、回んないらけれす」
「はははっ! おいもっとなんかしゃべってみろよ。おもしれー」


むむむ。ちょっと呂律が回らないからって、馬鹿にすんなよチクショウ。


「巴しゃんはなんのお仕事してるんれすか」
「仕事かぁ? なんだと思う?」
「……にーと?」
「おいコラ」


ぐー。俺の頬を引っ張る巴さん。その手をぺちりと叩くと笑われた。


「官能小説家ってやつだよ。エログロ専門のな」
「かんのーしょーしぇちゅか」
「ぷはっ! そうそう、エログロな。言ってみ?」
「えりょぎゅろ」
「あははははっ!」


ぽわぽわしてきた頭で爆笑する巴さんを凝視する。仁さんはそんな巴さんの頭に煙草の空箱を投げていた。


「おい巴、トラになに教えてやがる」
「だってこいつ、おもしれー」
「アホなこと言ってねぇで水持って来てやれ」
「しゃあねーなー」


がっちり腰を抱き込み、夢の世界へ旅立った雄樹がくっついた仁さんは動けずにため息をつく。
巴さんは迷わず厨房のほうへ行くと、グラスに水を注いで戻ってきた。


「ほら飲め、酔っ払い」
「よってましぇん。ろれちゅまわんないらけれす」
「それを酔っ払いって言うんだよ。黙って飲まねぇと口移しすっぞコラ」
「やれす」


首を横に振り、大人しく水を受け取る。ずっと酒を注いできた体に無味無臭な水は味気がなく、つまらない。
すぐに酒に手を伸ばすと、巴さんは笑いながら新しい酒瓶を取りに行った。


「おいトラ、あんま飲むと吐くぞ」
「らいじょうぶれす」


心配そうにこちらを見る仁さんに満面な笑みを浮かべると、彼は深い深いため息をついたのだった。


「なぁ小虎。玲央って家じゃどんな感じ?」
「れお? ふちゅうでしゅよ? でもりょうりはしょっぱいれす」
「あ? 玲央って料理できんのか?」
「できましゅよ」
「んで全部しょっぱいのか?」
「しょっぱいれす」


俺の発言に一々笑いを堪える巴さんが肩を震わせながら焼酎をあおる。俺はちらりと手元の酒を見て、焼酎もいいなぁと考えていた。


「……でもしゃいきん、かえりおそいんれす。きのうなんか、どっかにとまっひゃみらいれ」
「泊まり? あぁ、昨日の女か」
「だれかしってりゅんれすか?」
「さてはお前、あんまテレビとか見ねぇな? ありゃ最近人気の歌姫さんだよ」
「うたひめしゃん?」
「そ。なんか今度のMVに玲央を使いてぇんだとさ」


MV? じゃあ昨日帰ってこなかったのは打ち合わせ? 打ち合わせで泊まりってあんの?


「ま、でも泊まりってことはそういうことなんだろうなぁ。いいねぇ、俺も有名人抱きてぇわ」
「……」


なんだよ。やっぱり楽しい一夜ってやつかよ。俺なんか待ってたんだぞ。早く玲央にありがとうって言いたくて、本当は寝れずにずっと期待してたんだ。
なのに玲央は女と……。


「……ふ、ぇ」
「!? お、おい小虎!?」
「巴てめぇ、なにトラ泣かしてんだ!」


バコッ! ふたたび巴さんの頭に空箱がヒットするも、巴さんは慌てた様子で俺の側に近寄ってくる。


「おいおい小虎、どうしたんだよ、え? お前あれか? 寂しいのか?」
「しょんなわけないれしょ! なんれおれがしゃみしいとかおもわなきゃなんないれすか!」
「はぁ? おい、今度はどうした」
「う~~、ともえしゃんのばかぁっ」
「……おい、罵られても喜ぶだけだからな、俺」
「へんちゃいめっ」


クソ、可愛いなお前。とか言いながら近づく巴さんが気持ち悪くて手を振り回すと、その振動でテーブルに置いてあった酒が落ちた。そんで俺の服にめちゃくちゃ跳ねた。


「ったく、なにしてんだお前。ほら、脱げ」


――と、巴さんが言いながら俺の服を捲った。
ひんやりとした外気を皮膚が感じ取った瞬間、言いようのない吐き気を催す。
巴さんの手が服を脱がせるため俺の背中を支えた瞬間、それまで保っていたなにかが音を立てて崩れた。

恐い、怖い、こわいこわい。やだ、やだよ、やめてよお父さん、もうやだってば。
許して、ごめんなさい、もうワガママ言わないから、もう殴らないで、蹴らないで、嫌いにならないで。
ごめんなさい、ごめんなさい、やだ、やだよ助けて、助けてお母さん、助けてお兄ちゃん、おにいちゃん、おにいちゃんっ!


「やらぁっ、やらやらっ! おにいちゃあん、おにいちゃんっ!」
「!? お、おい?」
「おいてかないれ、おいてかないれよぉ……にいちゃ……っ」


置いてかないでよ、お兄ちゃん……っ!

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