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第28章 外の者と内の者。

崖とサトリ。

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 いつもは、決してそう思う事は有りません。

 家事をしている時も、買い出しにと出掛けている時も、繕い物をしている時も。
 不器用なものですから、その事だけを考えており。

 決して、常日頃では御座いません。

 ですが、不意に手が空いた時。
 ふと、感じてしまうんです。

 まるで崖の縁に背中を向け立っている様な、目を隠し薄氷を歩いている様な、耳を塞ぎながら真っ暗な洞窟を歩いている様な。
 そうした心持ちに襲われ、絶望とは、こうしたモノなのかと。

 ですけど、用事は幾らでも有ります。
 幾らでも、手間暇を掛けられる場所は有ります。

 お料理、お洗濯、お掃除。
 幾らでも凝れますし、幾らでも手間暇を掛けられます。

 ですけれど、子無し、だからでしょうか。

 もう踵には崖の感触は無く、足先には薄氷のひび割れていく感触が有り、塞いだ耳へは猛獣の唸り声が割り込んで来る。

 それ程、酷く絶望的なのです。
 一緒に居たくも無い相手と寝食を共にし、夫婦として一緒に居る事が、酷く絶望を誘うのです。

 何年経っても、鋏の場所を覚えない。
 何年経っても、私の好物を勘違いし。

 何年経っても、私が嫌がる事を止めず、さも私を分かりきった様に語る。

 いっそ、殺してしまえば。

 ですが、アレのせいで牢屋に行くだなんて、歯痒くて堪らない。
 離れる為に不自由になるだなんて、本末転倒。

 なら、私が死ぬのが1番。

 ですけど、アレに殺される様なもの。
 それでもアレは、後悔なんて見せかけだけ、きっと直ぐに新たな獲物を探し出し夫婦になる筈。

 そうです、絶望しか無いんです。

 逃げ出さない限り、絶望しか無いんです。
 失敗でした、後悔しか有りません。

 ですから、ですから逃げ出します。

 傍に居ながら全く愛されないより、誰も居らず愛されない方が余っ程良い。
 アレは、人の皮を被った餓鬼、鬼や悪魔。

 私は逃げ出します。
 さようなら、私は助かる為に逃げ出します、さようなら。



《妻は体も心も弱く、コレはきっと幻覚か何かか、そう何かに取り憑かれ消えてしまったのではと。どうか、妻を探して下さい》

『何故、ですか』

《それは、妻だからです》
『離縁状は無かったのでしょうか』

《有りましたが、妻は不機嫌になると直ぐに離縁状を出してくる質で》
『アナタは記載なさっている離縁状でしょうか』

《まぁ、妻の機嫌を取る為に、致し方無く》
『では出されてしまえば妻では無いんですし、探す理由にもなりませんが』

心配不便なんです、どうか妻を探し出して下さい、お願いします》

『分かりました、手は尽くしますが、探し出せるかどうか。ですので今は前金だけで結構です、お戻りになりましたら成功報酬として、残りの金額を頂きますが。宜しいですか』
《はい、宜しくお願い致します》



 妻が居ない家は、酷く物悲しいと言うか、寂しさと言うものが有る。

 確かに、何度も少しばかり注意をされた事も有る。
 けれども、僕は良く稼いでいる。

 女も博打も、今はもうしていないのだし。
 楽しく晩酌をし合ったりだとか、旅行へと行く事も有る。

 だからこそ、なのに何故、何処かへ消えてしまったのだろうか。
 一時の気紛れで有って欲しい、居なくては困るのだから。



「ちゃんと稼ぎを入れてくれているのでしょう」
《女も博打も無いなら、良いじゃない》
『男って言うのは不器用なのよ、その位は許してやんなさいよ』

「その位、許してやれよ、お前も良い年だろう」
《暴力は無いんだろう、ほら、そうしたモノよりマシだろうに》
『欲張りが過ぎるんじゃないかい』

 さして欲しくないモノばかりを勝手に与えられ、1番に欲しいモノを全く得られない、そうした事は苦では無いんですね。
 そう尋ねると、掌を返した様に酷く怒り出すか、黙るか。

 私は可笑しいのでしょう。
 あの人に不満を抱くだなんて、酷く欲深い強欲女で、身の程を弁えない屑女。

 ですけど、少し違うんです。

 情愛が欲しい、と言うより。
 安心が欲しいんです。

 この人となら、何とかなるだろう。

 その真逆なんです。
 何をしても、必ず失敗するだろう。

 そうした気苦労無しに、心配事も無しに生きたいんです。
 それが出来無いからこそ、子無しなんです。

 赤子なんて任せた日には、一体、何度殺してしまうか。

 残念ですけど、大袈裟では無いのです。
 幾ら私が怖いと言っても、自分は怖くない、大丈夫だと言うだけ。

 アレに任せ、幾つ、皿だ何だと割れてしまった事か。
 夫婦茶碗も何もかも、もう無いんです。

 アレが割ってしまったんです。

 注意した瞬間、目の前で割ってしまう。
 そして何故か、欠けをなぞり確認し怪我まで。

 どうか、見逃して下さい。
 アレと居ては、寿命が直ぐに尽きてしまいます。

 どうか、放っておいて下さい。

 お願いします、アレに殺されるだなんて口惜しい。
 もう、考えたくも無いんです、アレの事はもう。



『見付かりましたが、離縁し離れたいんだそうです』

《妻に大した稼ぎ口は無い筈です、確かに僕と暮らす事は嫌かも知れませんが、乞食の様に暮らすよりはマシな筈》
『だからこそ、でしょうね、乞食として生きる方が遥かにマシだと。お手紙です、どうぞ』

 確かに女の事でも、博打事でも借金をし、酒の飲み過ぎで暴言を吐いた事も有った。

 だが、誰にでも失敗は有るんだ。

 それにもう借金も無い、女の影も無い、飲む事も程々にしているし。
 稼ぎも全て渡し、言う事は聞いている。

 確かに、偶に言い付けを忘れる事も有る、何度も同じ事を言わせている事も、申し訳無いと思い。
 だからこそ、出来るだけ言う通りに、と。

《一体、僕はどうすれば》
『馬鹿は死んでも直らないそうですし、来世に別の方へ期待なさる方が、遥かに可能性が有るかと』

《そんなに、他の男性は良く出来ているんですかね》
『はい、アナタは不出来が過ぎる。異国の奴隷制度なるモノとは違うんですから、奥様を解放なさってあげる事は、人として最低限すべき事かと』



 本当に、後悔している。
 もっと、しっかり言う事を聞いてやれば良かった。

 もっと意を汲み、もっと従属していれば。

「ごめんなさい、アナタとは、ちょっと無理ね」
『すまない、良くない所が有ったなら、出来るだけ直す。だから』

「何年もご結婚なさっていたのに、ソレなんですもの、元奥様の苦労が慮られますね。では、失礼致します」

 きっと、僕は妻に甘え過ぎていたのだと思う。

 けれど、僕も妻も人だ。
 癖を直す事は難しいのだし、完璧に忘れ無い様にするには無理が有る、しかも家の事は本来は妻の役目。

 確かに幾ばくか繊細さに欠ける事も有っただろう、けれど僕は男なのだし、仕事第一で家事は不得手だ。

 そう不得手な事を隠していた事は、借金の事も、確かに良くないとは思うけれど。
 誰もが多少は見栄を張り、誰もが多少は嘘を言っているのだし。

 今はもうしていないのだし、しない様に、と気を付けてもいる。

 僕の何が悪かったのか、分かってはいる、いるけれども妻の様に僕は器用では無いんだ。
 コレ以上、どうしろと言うんだろうか。

《死ね》

『うっ、ぐっ』



 サトリ、と言う怪異が居る事は知っていました。
 幸いにも探偵さんが紹介して下さった先で働き口を得て、移り住み、そこはサトリなる怪異が居る里山だとも知っていました。

 そして、サトリなるモノは、単に心を読む怪異なのだと。

《あぁ、今でも思い出してしまうのが口惜しい。悔しい、何の情も無いと言うのに、離れても私を苛む忌々しい人。とは誰の事だ》

 葉を蓑の様に頭から被った何かが話し掛けて来たのは、崖の傍でした。

「元夫の事です、ですが」
《身投げする気は有りませんので、どうか。もしかしてアナタは、サトリ、ですか。あぁ、そう呼ばれている》

「まるで」
《蓑虫の様ですけど、暑くは。暑い、この崖や麓の川辺りは俺の縄張りだ、来ないでくれないか》

「申し訳」
《景色が気に入ったか》

「はい、雲海なんて初めてでしたので」
《絵を描けるのだろう》

「そう上手いものでも」
《描けるなら描きたかったのだろう》

「お騒がせ」
《構わない、盗み聞いたも同然だ、来なければ構わない》

「はい」
《いや、騒々しさの事は問題無い、俺は慣れている》

「では」
《俺は怪異、サトリ、不用意に関わるべき者では無いだろう》

「何故、でしょうか」

《心を読まれる事は不快感だろう、気味が悪いだろう》

「いえ」

 私は可笑しくなっていたのかも知れません。

 言っても尚、全く分かってくれない者を夫とし、長年一緒に居たのですから。
 寧ろ、マトモなままでは一緒に居られなかったのです、可笑しくなって寧ろ当然でしょう。

《お前は可笑しいのか》
「はい、多分」

《だが身投げはしない》
「はい」

《飯は食えているのか》
「はい、お陰様で、ありがとうございます」

 村の者はサトリを恐れていました、心を読む怪異だ、と。
 けれども余所者の私は不思議に思っていたのです、何も害を成さないなら、恐れる事も無いのではと。

《こうして読み、口にする事は悪行だろう》
「事によりますね、ふふふ」

《お前は可笑しい、ココへ来る事を許可する》
「ありがとうございます」

 そうしてサトリに監視される為にも、私は景色を眺めに訪れ。
 私の監視の手間賃として、手弁当を2つ持参する様になり。

《お前は、可笑しい》
「そうですね」

 サトリに怯えられる日が続きましたが、私の料理を気に入ってか、いつしか真後ろでの監視から真横へ。

《野山の獣に里山の味を教える事は、罪だ》

「サトリは獣でしたか」
《いや》

「次は何が宜しいですか」

《お前は無駄な努力が好きだな、何がしたい、どうしたい》

 私はアレとの事かと思い、涙を止める事が出来ませんでした。
 いつしか無駄だろうと思いながらも、惰性で夫婦を続けていた事を咎められた様で。

「すみません」
《お前が夫にしていた事が無駄かどうかは分からない、俺は神では無い、単なる怪異なのだから》

「では、一体」
《監視は俺の為だ、手弁当は不要な事》

「一人前は難しいんですよ、それに美味しそうに食べて貰えると、何だか嬉しいんです」

 美味しそうに食べるアレの顔は、見た事が有りませんでした。
 顔すら見なくなったからでは無く、アレはそう食べる事が無い、美味いも何も聞くまで全く分からない能面男。

 今まで気にもしていませんでした。
 けれど、サトリは美味しそうに食べてくれるのです。

《そうした顔になっていたのか》
「はい、とても良い顔ですよ」

《怪異を受け入れてしまう程、お前を可笑しくした者が居るんだな》

「はい、選んでしまった私も、愚図なのです」

《そうか、見に行く》

「はい、お気を付けて」



 サトリとは単に心を読む怪異だ、と。
 ですが、それは思い違いでした。

《好き勝手しただけだ》
「ごめんなさい、ありがとうございます」

《知っていれば、夫の、元夫の事は考えなかったでしょう》
「はい」

《けれど、こうして添い遂げたいと思う相手と巡り合う事も無かった》
「はい」

《こう読まれて尚、だからこそ酷く安心する》
「はい」

《怖がらない私は可笑しいのでしょう、でも良いんです、今は酷く幸せなのですから》
「はい」

《心を読んで欲しいとも、先んじて欲しいとも思ってはいなかった。ただただ、慮り、思い遣りを持ち接して欲しかった》

「はい」
《泣くな、アレにそんなモノは最初から無かった、育つ事も無い器だった。だが無駄では無い、無駄な辛抱と実らぬ努力が有ると知ったんだ、無駄では無い》

「はい、ありがとうございます」
《俺は豆腐の味噌汁を、お前は得意な炊き込み飯を頼む》

「はい」

 サトリの見た目は其々だそうで。
 私の知るサトリは、赤目では無い白子で、非常に目と耳が良く。

 言葉には呪力が有るそうです。
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