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第26章 鳥と獣。
1 六三亭。
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酔い潰れて起きた後。
『おはようございます』
前日に共に飲んでいた女が、どうしてココに。
「あの、どうして、君がココに」
『あぁ、やっぱり、深酒をしてらしたから。コレですコレ、覚えてらっしゃいません?』
彼女が差し出したのは。
「婚姻、届け」
『はい、君と結婚するんだと。ですけど届け出るには、やはりお酒が抜けるか、翌日にと思いまして』
思い出した。
思い出した思い出した、確かに婚約はしていなかったが、付き合いの有った女に。
「すまない」
『いえ、父を深酒で亡くしたので、気になってコチラに居ただけですから。では』
「いや、待ってくれ、先ずは礼をさせて欲しい」
『では、六三亭にお越し下さい』
あぁ、思い出した。
なんて事を。
「すまなかった、世話をさせてしまって」
『いえいえ、良いんですよ、お辛い事が有ったんですし。私も、一時の良い夢を見れましたから』
結婚を申し込みに行こうとした矢先だった、自分の女だと思っていた筈の女が、他の男と腕を組み歩いていた。
落胆と混乱と悔しさから、はしご酒をし、酔いが回った頃に適当な店へと。
そうして、いつもなら入らぬ様な少し敷居の高い店に入り、美味い美味いと。
「念の為に聞きたい、支払いは」
『あぁ、良いんですよ、残り物でしたから』
「だとしてもだ、すまない、支払いをさせてくれ」
『じゃあ、この位で』
値段は良心的だった。
あぁ、そうだった、もっと高くても良いと僕は言ったんだ。
「詫び代も受け取って欲しい」
『あぁ、いえ、そんな』
「いや、本当にすまなかった」
『やっぱり、結婚の申し込みの事まで忘れてくれ、そう言われ』
「いや」
『良いんです、愛嬌と料理の腕だけですから、ありがとうございました』
「いや、結婚はしたい、したいんだが」
『良いんです、何も無かったんですし、ありがとうございました。仕込みがまだ有るので、失礼しますね』
「こんな男で構わないなら、結婚してくれないだろうか」
最初から、良いと思っていた。
自棄っぱちで言ったが、本心だった。
もし、彼女が妻なら。
『ですけど、誰かにご相談なさったりだとか、言っては』
「あぁ、保証人の事なら、もう書いて貰っていたのは大家さんと仕事場の人だけれど。すまない、まだ言っていないんだ」
『あぁ、昨日の今日でいきなりは、少し。なので少し間を空けた方が、お互いの為になるかと』
「あぁ、すまない。いや、いや、僕と結婚してくれるのかい?」
『もし、しっかりと内密にして下さったら』
「分かった、けれどどうか通わせてくれないか、ココに」
『はい、勿論』
そうして僕は六三亭に通う事になった。
彼女の愛嬌の有る笑顔に、若いながらに店を回せる度量。
その全てに、毎日想いを募らせていった。
そうして3ヶ月が過ぎた頃。
「そろそろ、構わないだろうか」
『ええ、勿論』
酔って結婚を口にする者に、碌な者はいない。
結婚や恋愛に興味が無かったから、と三井先生の指南書も読まず、周りからも学ぼうとせず。
あんな見え透いたアバズレに惚れた男に、どうしてマトモな女が惚れるだろうか。
見る目も無い、学ぶ知恵の無い男の子を、どうして身に宿したい等と思えると言うのだろうか。
あまり馬鹿にされるのは好きでは無い、安く見られ、見下げられるだなんて以てのほか。
はぁ、惚れるにしても、せめて身を弁えて欲しいもの。
《アンタにも惚れたものの、失恋し、田舎に帰ったらしい》
『あぁ、真面目に約束を守った事だけ、は褒めてあげないとね』
《だが、だけ、じゃな。アンタを安く見積もり過ぎだ、自身を高く見積もり過ぎた》
『本当に、顔も何も平凡で凡庸、かと言って優しさも賢さも特段の経験も無い。まぁ、平々凡々な家に育った悲運、とでも言うしか無いけれど。こんなんじゃ、種馬にも使えやしない』
《全くだ、だが凡人も来るのが都会のマヨイガだ、仕方ねぇな》
『まぁ、健康でしょうし、使い道は有るでしょう』
《だな、じゃ》
『はい、またね』
どう使われるのかは、忘れた頃にオサキモチから伝えては貰えるけれど。
あんまり役に立たなかったのを送り込んだとなると、申し訳無さの方が大きくなる。
運でしか無い、とは分かってはいるけれど。
「お邪魔します」
『はい、はいはい』
「夜分遅くにすみません、知り合いが近くで酔い潰れてしまって、お水を頂けませんか」
『ならウチに寄越して下さって大丈夫ですよ、今日はもう店仕舞いをするだけですから』
「いえいえとんでもない、汚してしまってもアレですし、碗で構いませんから」
良い子ね。
『じゃあ、はい、また足りなくなったら来て下さい。暫く片付けだけですから』
「はい、ありがとうございます」
こう、良い子だけが来てくれたら良いのだけれど。
玉石混淆、ココは誰でも来れる場所、都会の六三亭。
「ココですココ、女将さんは若いのに気立てが良くてしっかり者で、しかも料理も絶品なんですよ」
外観は僕の様な庶民にしてみれば、敷居が高く見える。
立派な門構えに、小洒落た生地の暖簾、中からは程良い塩梅の酔語がチラホラ。
《担当君、本当に》
「大丈夫ですって、1度お礼に来た時も確認しましたから。さ、行きましょう」
《あ》
「どうも、2人なのですが、空いてらっしゃいますか」
『あぁ、いらっしゃい』
僕には、女将が天女に見えた。
白いたすき掛けは羽衣の様に、その笑みは無垢なる出迎に、そして他の客の歓声は雅楽の様に。
僕は、極楽浄土に足を踏み入れてしまったのでは無いか、と。
《あぁ、やっぱり僕には敷居が高いよ》
「大丈夫ですってば。すみません、先日世話になった方からお礼をと、ですけどこう人見知りでして」
『なら小上がりを、どうぞ、取って食べたりしませんから』
《こんな天女に食われるのは構わないんですけど、僕はあんまりにも世間知らずで》
「女性に騙されてしまったんですよね、中々に巧妙に。それですっかり泣き崩れてしまって、僕がお世話した次第なんです」
『あら、世には酷い女も居ますけど、良い女も居ますよ。さ、先ずはお腹を満たしてから、どうぞ』
「そうですよ、こんなに良い匂いなのに、ココで帰るのは勿体無いですよ」
緊張のあまり閉じていた鼻孔を広げてみると、出汁や煮付けの良い香りが。
『あら、体は正直で安心しました、オススメを直ぐに用意しますね』
「はい、ありがとうございます」
担当君に手を引かれ、帳場に並んだお万菜に目が釘付けになりながら。
つい、そのまま小上がりに座ってしまった。
《あぁ、僕は本当に》
「ですから、確かに騙されてしまいましたけど、騙される方が悪いだなんて理不尽の極みです。それに騙そうとしている方を安々と見抜けたら、警官の方々は今頃は忙しく無いですよ」
《それは、そうとは分かってはいるのだけれど》
「じゃあ、もう三井先生に言ってしまいますね。読み込んでもダメでした、と世を儚んでいる方がいらっしゃいますよと」
《いや、だから僕の不出来が》
「そうした方の為の指南書なんですし、先生は真摯に受け止めて下さいますから大丈夫ですよ」
《けれど、こんな一作家のせいで、細君との時間を》
『失礼しますね、日本酒と麦酒、どちらが良かったかしら』
「あ、では日本酒で」
『はい、どうぞ』
「麦酒まで、すみません、気が付かなくて」
『いえいえ、コレは店へのお礼と言う事で頂きますから。さ、乾杯致しましょう』
「はい、ありがとうございます」
《はい、お世話になりまして、ありがとうございます。乾杯》
『はい乾杯、頂きます』
彼女はグイグイと飲み込み、硝子の器の3割は飲んだだろうか。
そして終わりには少し器を持ち上げ、そのまま料理を並べ始めると、1つ1つ丁寧に説明をしてくれた。
「ありがとうございます」
『いえいえ、好みが有りましたら仰って下さい、気が向いたら作るかも知れませんから』
《なら、あの、お出汁の効いた出汁巻きなんかも出ますでしょうか》
『ふふふ、丁度仕込んでいた所ですから、直ぐにお出ししますね』
《あ、すみません》
「ありがとうございます」
『いえいえ、ふふふ』
彼女の料理は、どれも僕の口に合ってしまい。
失敗の後悔は、店を出るまで忘れてしまっていた。
《ありがとう、すまない、こう女々しくて》
「いえ寧ろ騙されて落ち込まない方がどうかしているんです、ですけどあまりご自分を責めないで下さい、一等に悪いのは騙した方なんですから」
《けれど》
「どうしたら見抜けたか、コレには僕も非常に興味が有ります。ですから、1度、お伺いしてみましょう?」
《そうだね、僕の様な思いを他にさせたくは無い》
「では後日、またご連絡致しますね」
《ありがとう》
それから数日後、三井先生とお会いさせて頂き、原因を追究してみた。
けれど、やはり婚約の無い付き合いで有るなら、騙される事も覚悟の上でいるしか無いとの事だった。
《けれど、巧妙に婚約をはぐらかされてはもう、お手上げだ。見抜くも何も、暗月の闇夜で鰻を捕まえられるのは職人のみだろう、つまりは警官や探偵だけだ》
《調査員を雇うのは、良く有る事なのでしょうか》
《まぁ、都会ではね、有象無象が集まる場所だ。けれどそれらは親が隠れてする事、下手に燃え上がらせても困るからね。けれど君の様な若い者の仕事を受けるとなれば、時間が掛かる、先ずは君の単なる片思いなら受ける事は損に繋がる。だが、その間に勘付かれ、大概は逃げ出されてしまうだろうね》
《つまり、顔見知りの探偵を作るしか無い、と言う事でしょうか》
《石橋を叩いて渡るか、泥舟だとしても乗るかは、君次第だ》
《ご紹介を、して頂けますでしょうか》
《君は少し遠慮が過ぎるね、そう言う時こそ、先ずは担当君だよ》
「そうですよ、僕らは先生方の為に働いているんですから」
《それは、僕らの原稿の》
「同じです、先生方は原稿の生みの親、育ての親なんですから」
《その結婚相手であり、世話人が担当君と言うワケだ、君にはしっかり世話になれるワケが有るんだよ》
《すみません、ありがとうございます》
《いやいや、どうか懲りずに、夫婦とは実に良いものだよ。復讐の為にも、自分の為にも、先ずは君が幸福になる事から取り戻した方が良い。どうせ相手はコチラを忘れ、餡蜜でも食べているだろう、先ずは君から切り離すべきだ》
《はい》
それから作家先生は、数日置きに来て下さった。
『はい、どうぞ』
《あの、婚約されている方は、いますでしょうか》
『いいえ、何せこの器量ですから』
《あぁ、やっぱり良い方が居るんですね》
『あ、いえ、逆ですよ。婚約者も恋人も、私には居ません』
《そうですか、ありがとうございます、お時間を取らせました》
『いえいえ、では今日もオススメにしますか?それとも何かご要望は』
《オススメでお願いします》
『はい』
それからは来る度、素面で一問一答をし。
お酒は1本で済ませ、後を付けたり付け文も厄介な贈り物も無く、3ヶ月が過ぎた頃。
《手紙を、書いて参りました》
その手紙を、私に読ませるのでは無く、声を上ずらせながら読み上げ。
『ありがとうございます』
《婚約を考えて頂けるのでしたら、コチラもお受け取り下さい》
彼が手紙に追加したのは、どうやら身上書。
『はい、考えさせて頂きます』
《ありがとうございます》
嬉しさ半分、不安も半分。
可愛い人。
あぁ、可愛い人だとは分っていたけれど。
コレが、誰もが溺れると言う情愛。
何と言う心地なのだろうか。
分かる、分ってしまう。
何故、どうして、嬉しさ半分不安半分なのかも。
『お返事は』
《あ、あの、住所も書いて有るので。もし、断りの場合は、着払いで届けてくれて構いませんから》
『はい、分かりました』
僕は今、極上の夫婦生活を満喫させて貰っている。
どうしようも無い位に僕の口に合う食事と、品と無邪気さの有る昼の顔と、夜の顔と。
多分、彼女を妻に出来た事で、僕の運は全て使ってしまったと思う。
「はー、本当に良かったです、すっかり肥えられて頂けて」
《いや、はは、やっぱり分ってしまうよね》
「良いんです良いんです、以前は酷くやつれて、いつ倒れてしまうか怖くて仕方が無かったんですから。もう少し肥えて下さっても全然構いません、寧ろお裾分けさえ頂けたら、お医者先生が止めるまで僕は何にも言いません」
《そこは食いに来てくれたらだ、妻の料理は僕だけのモノ、女将の料理は皆のモノだからね》
「本当にお幸せそうで、羨ましい限りです」
《いつか君にも誰かを紹介出来たら、とは思うのだけれど、すまないね仕事と妻で忙しくて》
「はいはい、ありがとうございます、原稿を頂けるだけで十分です」
《はい、今月の分と、予備です》
「はい、いつもありがとうございます、拝見させて頂きます」
彼は僕よりも世渡りが上手い。
しかも真面目で、誠実だ。
その彼より先に結婚出来た事も、やはり運、だけなのだろうか。
《君は、本当に結婚する気が有るんだろうか》
「一応は、ですね、何せ物語と既に婚約してますから」
『おはようございます』
前日に共に飲んでいた女が、どうしてココに。
「あの、どうして、君がココに」
『あぁ、やっぱり、深酒をしてらしたから。コレですコレ、覚えてらっしゃいません?』
彼女が差し出したのは。
「婚姻、届け」
『はい、君と結婚するんだと。ですけど届け出るには、やはりお酒が抜けるか、翌日にと思いまして』
思い出した。
思い出した思い出した、確かに婚約はしていなかったが、付き合いの有った女に。
「すまない」
『いえ、父を深酒で亡くしたので、気になってコチラに居ただけですから。では』
「いや、待ってくれ、先ずは礼をさせて欲しい」
『では、六三亭にお越し下さい』
あぁ、思い出した。
なんて事を。
「すまなかった、世話をさせてしまって」
『いえいえ、良いんですよ、お辛い事が有ったんですし。私も、一時の良い夢を見れましたから』
結婚を申し込みに行こうとした矢先だった、自分の女だと思っていた筈の女が、他の男と腕を組み歩いていた。
落胆と混乱と悔しさから、はしご酒をし、酔いが回った頃に適当な店へと。
そうして、いつもなら入らぬ様な少し敷居の高い店に入り、美味い美味いと。
「念の為に聞きたい、支払いは」
『あぁ、良いんですよ、残り物でしたから』
「だとしてもだ、すまない、支払いをさせてくれ」
『じゃあ、この位で』
値段は良心的だった。
あぁ、そうだった、もっと高くても良いと僕は言ったんだ。
「詫び代も受け取って欲しい」
『あぁ、いえ、そんな』
「いや、本当にすまなかった」
『やっぱり、結婚の申し込みの事まで忘れてくれ、そう言われ』
「いや」
『良いんです、愛嬌と料理の腕だけですから、ありがとうございました』
「いや、結婚はしたい、したいんだが」
『良いんです、何も無かったんですし、ありがとうございました。仕込みがまだ有るので、失礼しますね』
「こんな男で構わないなら、結婚してくれないだろうか」
最初から、良いと思っていた。
自棄っぱちで言ったが、本心だった。
もし、彼女が妻なら。
『ですけど、誰かにご相談なさったりだとか、言っては』
「あぁ、保証人の事なら、もう書いて貰っていたのは大家さんと仕事場の人だけれど。すまない、まだ言っていないんだ」
『あぁ、昨日の今日でいきなりは、少し。なので少し間を空けた方が、お互いの為になるかと』
「あぁ、すまない。いや、いや、僕と結婚してくれるのかい?」
『もし、しっかりと内密にして下さったら』
「分かった、けれどどうか通わせてくれないか、ココに」
『はい、勿論』
そうして僕は六三亭に通う事になった。
彼女の愛嬌の有る笑顔に、若いながらに店を回せる度量。
その全てに、毎日想いを募らせていった。
そうして3ヶ月が過ぎた頃。
「そろそろ、構わないだろうか」
『ええ、勿論』
酔って結婚を口にする者に、碌な者はいない。
結婚や恋愛に興味が無かったから、と三井先生の指南書も読まず、周りからも学ぼうとせず。
あんな見え透いたアバズレに惚れた男に、どうしてマトモな女が惚れるだろうか。
見る目も無い、学ぶ知恵の無い男の子を、どうして身に宿したい等と思えると言うのだろうか。
あまり馬鹿にされるのは好きでは無い、安く見られ、見下げられるだなんて以てのほか。
はぁ、惚れるにしても、せめて身を弁えて欲しいもの。
《アンタにも惚れたものの、失恋し、田舎に帰ったらしい》
『あぁ、真面目に約束を守った事だけ、は褒めてあげないとね』
《だが、だけ、じゃな。アンタを安く見積もり過ぎだ、自身を高く見積もり過ぎた》
『本当に、顔も何も平凡で凡庸、かと言って優しさも賢さも特段の経験も無い。まぁ、平々凡々な家に育った悲運、とでも言うしか無いけれど。こんなんじゃ、種馬にも使えやしない』
《全くだ、だが凡人も来るのが都会のマヨイガだ、仕方ねぇな》
『まぁ、健康でしょうし、使い道は有るでしょう』
《だな、じゃ》
『はい、またね』
どう使われるのかは、忘れた頃にオサキモチから伝えては貰えるけれど。
あんまり役に立たなかったのを送り込んだとなると、申し訳無さの方が大きくなる。
運でしか無い、とは分かってはいるけれど。
「お邪魔します」
『はい、はいはい』
「夜分遅くにすみません、知り合いが近くで酔い潰れてしまって、お水を頂けませんか」
『ならウチに寄越して下さって大丈夫ですよ、今日はもう店仕舞いをするだけですから』
「いえいえとんでもない、汚してしまってもアレですし、碗で構いませんから」
良い子ね。
『じゃあ、はい、また足りなくなったら来て下さい。暫く片付けだけですから』
「はい、ありがとうございます」
こう、良い子だけが来てくれたら良いのだけれど。
玉石混淆、ココは誰でも来れる場所、都会の六三亭。
「ココですココ、女将さんは若いのに気立てが良くてしっかり者で、しかも料理も絶品なんですよ」
外観は僕の様な庶民にしてみれば、敷居が高く見える。
立派な門構えに、小洒落た生地の暖簾、中からは程良い塩梅の酔語がチラホラ。
《担当君、本当に》
「大丈夫ですって、1度お礼に来た時も確認しましたから。さ、行きましょう」
《あ》
「どうも、2人なのですが、空いてらっしゃいますか」
『あぁ、いらっしゃい』
僕には、女将が天女に見えた。
白いたすき掛けは羽衣の様に、その笑みは無垢なる出迎に、そして他の客の歓声は雅楽の様に。
僕は、極楽浄土に足を踏み入れてしまったのでは無いか、と。
《あぁ、やっぱり僕には敷居が高いよ》
「大丈夫ですってば。すみません、先日世話になった方からお礼をと、ですけどこう人見知りでして」
『なら小上がりを、どうぞ、取って食べたりしませんから』
《こんな天女に食われるのは構わないんですけど、僕はあんまりにも世間知らずで》
「女性に騙されてしまったんですよね、中々に巧妙に。それですっかり泣き崩れてしまって、僕がお世話した次第なんです」
『あら、世には酷い女も居ますけど、良い女も居ますよ。さ、先ずはお腹を満たしてから、どうぞ』
「そうですよ、こんなに良い匂いなのに、ココで帰るのは勿体無いですよ」
緊張のあまり閉じていた鼻孔を広げてみると、出汁や煮付けの良い香りが。
『あら、体は正直で安心しました、オススメを直ぐに用意しますね』
「はい、ありがとうございます」
担当君に手を引かれ、帳場に並んだお万菜に目が釘付けになりながら。
つい、そのまま小上がりに座ってしまった。
《あぁ、僕は本当に》
「ですから、確かに騙されてしまいましたけど、騙される方が悪いだなんて理不尽の極みです。それに騙そうとしている方を安々と見抜けたら、警官の方々は今頃は忙しく無いですよ」
《それは、そうとは分かってはいるのだけれど》
「じゃあ、もう三井先生に言ってしまいますね。読み込んでもダメでした、と世を儚んでいる方がいらっしゃいますよと」
《いや、だから僕の不出来が》
「そうした方の為の指南書なんですし、先生は真摯に受け止めて下さいますから大丈夫ですよ」
《けれど、こんな一作家のせいで、細君との時間を》
『失礼しますね、日本酒と麦酒、どちらが良かったかしら』
「あ、では日本酒で」
『はい、どうぞ』
「麦酒まで、すみません、気が付かなくて」
『いえいえ、コレは店へのお礼と言う事で頂きますから。さ、乾杯致しましょう』
「はい、ありがとうございます」
《はい、お世話になりまして、ありがとうございます。乾杯》
『はい乾杯、頂きます』
彼女はグイグイと飲み込み、硝子の器の3割は飲んだだろうか。
そして終わりには少し器を持ち上げ、そのまま料理を並べ始めると、1つ1つ丁寧に説明をしてくれた。
「ありがとうございます」
『いえいえ、好みが有りましたら仰って下さい、気が向いたら作るかも知れませんから』
《なら、あの、お出汁の効いた出汁巻きなんかも出ますでしょうか》
『ふふふ、丁度仕込んでいた所ですから、直ぐにお出ししますね』
《あ、すみません》
「ありがとうございます」
『いえいえ、ふふふ』
彼女の料理は、どれも僕の口に合ってしまい。
失敗の後悔は、店を出るまで忘れてしまっていた。
《ありがとう、すまない、こう女々しくて》
「いえ寧ろ騙されて落ち込まない方がどうかしているんです、ですけどあまりご自分を責めないで下さい、一等に悪いのは騙した方なんですから」
《けれど》
「どうしたら見抜けたか、コレには僕も非常に興味が有ります。ですから、1度、お伺いしてみましょう?」
《そうだね、僕の様な思いを他にさせたくは無い》
「では後日、またご連絡致しますね」
《ありがとう》
それから数日後、三井先生とお会いさせて頂き、原因を追究してみた。
けれど、やはり婚約の無い付き合いで有るなら、騙される事も覚悟の上でいるしか無いとの事だった。
《けれど、巧妙に婚約をはぐらかされてはもう、お手上げだ。見抜くも何も、暗月の闇夜で鰻を捕まえられるのは職人のみだろう、つまりは警官や探偵だけだ》
《調査員を雇うのは、良く有る事なのでしょうか》
《まぁ、都会ではね、有象無象が集まる場所だ。けれどそれらは親が隠れてする事、下手に燃え上がらせても困るからね。けれど君の様な若い者の仕事を受けるとなれば、時間が掛かる、先ずは君の単なる片思いなら受ける事は損に繋がる。だが、その間に勘付かれ、大概は逃げ出されてしまうだろうね》
《つまり、顔見知りの探偵を作るしか無い、と言う事でしょうか》
《石橋を叩いて渡るか、泥舟だとしても乗るかは、君次第だ》
《ご紹介を、して頂けますでしょうか》
《君は少し遠慮が過ぎるね、そう言う時こそ、先ずは担当君だよ》
「そうですよ、僕らは先生方の為に働いているんですから」
《それは、僕らの原稿の》
「同じです、先生方は原稿の生みの親、育ての親なんですから」
《その結婚相手であり、世話人が担当君と言うワケだ、君にはしっかり世話になれるワケが有るんだよ》
《すみません、ありがとうございます》
《いやいや、どうか懲りずに、夫婦とは実に良いものだよ。復讐の為にも、自分の為にも、先ずは君が幸福になる事から取り戻した方が良い。どうせ相手はコチラを忘れ、餡蜜でも食べているだろう、先ずは君から切り離すべきだ》
《はい》
それから作家先生は、数日置きに来て下さった。
『はい、どうぞ』
《あの、婚約されている方は、いますでしょうか》
『いいえ、何せこの器量ですから』
《あぁ、やっぱり良い方が居るんですね》
『あ、いえ、逆ですよ。婚約者も恋人も、私には居ません』
《そうですか、ありがとうございます、お時間を取らせました》
『いえいえ、では今日もオススメにしますか?それとも何かご要望は』
《オススメでお願いします》
『はい』
それからは来る度、素面で一問一答をし。
お酒は1本で済ませ、後を付けたり付け文も厄介な贈り物も無く、3ヶ月が過ぎた頃。
《手紙を、書いて参りました》
その手紙を、私に読ませるのでは無く、声を上ずらせながら読み上げ。
『ありがとうございます』
《婚約を考えて頂けるのでしたら、コチラもお受け取り下さい》
彼が手紙に追加したのは、どうやら身上書。
『はい、考えさせて頂きます』
《ありがとうございます》
嬉しさ半分、不安も半分。
可愛い人。
あぁ、可愛い人だとは分っていたけれど。
コレが、誰もが溺れると言う情愛。
何と言う心地なのだろうか。
分かる、分ってしまう。
何故、どうして、嬉しさ半分不安半分なのかも。
『お返事は』
《あ、あの、住所も書いて有るので。もし、断りの場合は、着払いで届けてくれて構いませんから》
『はい、分かりました』
僕は今、極上の夫婦生活を満喫させて貰っている。
どうしようも無い位に僕の口に合う食事と、品と無邪気さの有る昼の顔と、夜の顔と。
多分、彼女を妻に出来た事で、僕の運は全て使ってしまったと思う。
「はー、本当に良かったです、すっかり肥えられて頂けて」
《いや、はは、やっぱり分ってしまうよね》
「良いんです良いんです、以前は酷くやつれて、いつ倒れてしまうか怖くて仕方が無かったんですから。もう少し肥えて下さっても全然構いません、寧ろお裾分けさえ頂けたら、お医者先生が止めるまで僕は何にも言いません」
《そこは食いに来てくれたらだ、妻の料理は僕だけのモノ、女将の料理は皆のモノだからね》
「本当にお幸せそうで、羨ましい限りです」
《いつか君にも誰かを紹介出来たら、とは思うのだけれど、すまないね仕事と妻で忙しくて》
「はいはい、ありがとうございます、原稿を頂けるだけで十分です」
《はい、今月の分と、予備です》
「はい、いつもありがとうございます、拝見させて頂きます」
彼は僕よりも世渡りが上手い。
しかも真面目で、誠実だ。
その彼より先に結婚出来た事も、やはり運、だけなのだろうか。
《君は、本当に結婚する気が有るんだろうか》
「一応は、ですね、何せ物語と既に婚約してますから」
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