松書房、ハイセンス大衆雑誌編集者、林檎君の備忘録。

中谷 獏天

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第18章 令嬢と婚約者。

4 幾人目かの婚約者。

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『そうだったのか、すまない、僕が不安を煽ったせいだね』

『いや、自分で知ったとて、同じ事になっただろう』

 俺は、誤解から婚約破棄をした。
 向こうは突然の破棄にも直ぐに応じ、コチラの誤解が解けた後も謝罪は不要だ、と。

 もし彼女が作家の娘だと知らなければ、誤解も。
 いや、知った時点で疑心暗鬼から彼女を問い詰め、同じ事になっただろう。

『謝りには、行けない、か』

 謝れば、破棄の理由を説明する事になってしまう。
 しかも彼女が傷付くだろう。

 信用が無かった事、疑った事、俺の後ろ暗い過去の事にも。

 けれど、このまま終りにして、本当に良いんだろうか。
 何も言わずに居たなら、彼女はどう思う。

『彼女は、次こそ幸せになれるんだろうか』
『彼女はクソ女と同じ女、また、今度こそ裏切られるかも知れない。なら無視するのが1番じゃないかな、どうせ結婚する気は無いんだろう、ならどうなろうとも関係無い筈だ』

『だが、彼女にも父親にも瑕疵は』
『償いや同情心で結婚される身にもなりなよ、それとも彼女は喜んで受け入れる程、バカなのかな』

『いや』

『お互いの為に忘れたら良いんじゃないかな、男嫌いでも無いんだ、ならそこそこの相手が見付かる筈。それにどんな悲惨な結婚でも、実家に逃げられるだろうしね』

『そうなって欲しくない』
『償いたいなら金でも渡せばどうだい、君のせいでも誰のせいでも無いんだ、身を守るには黙っているのが1番だよ』

『保身の為に彼女を傷付けたまま』
『だからって言って何になるんだい、自己満足の為に彼女を傷付けて、彼女まで疑心暗鬼にさせる気かい』

『いや』
『忘れたら良いんだよ、人は不都合な事を忘れられるそうだし。運が無かった縁が無かった、そう思うしか無いよ、君を守るにはそれしか無い』

 俺の為に。



『すまなかった』

 元婚約者が、左の頬を真っ赤にして。
 私達が避難している避暑地に。

「あの、その頬」
『あぁ、コレは、知り合いに叩かれたんだ』

「右利きの方に」
『あぁ、女性に』

「流石ですね、相変わらずお噂通りで安心し」
『違うんだ、君の事で、怒られた』

「どうして怒られてしまったのでしょう」
『酷い目に遭ったからと言って、酷い事をしても良い道理なんて無い。しかも加害者でも何でも無いなら、酷い目に遭わせたままなんて、アンタを酷い目に遭わせた人と同じだ』

「あの、何か誤解が」
『俺は、母親に襲われた事が有るんだ』

「ごめんなさい、何も」
『知られていたのだと俺が勘違いした、そして婚約破棄をした』

「だとしても、何故アナタが叩かれ」
『元は俺の誤解が発端で、君に酷い態度を取った、君も君の父親も悪くないにも関わらず。なのに、俺は自分の身を守る為に、君に謝るかどうか悩んでいた』

「それでどうして叩かれてしまうんですか?言いたくなかった事を、身を守って当然の」
『君の賢さと優しさを考慮しなかった、信頼しようとしていれば、少しは話し合えた筈。俺は保身から君を試し、勘違いし、傷付けたままにしようとした。人として最低だ』

「いえ私だって兄に襲われかけた、なんて、そう直ぐには言えないと思います。それに私は作家の娘、話の種にされたくないと警戒して当然ですし」
『改めて申し込みたい、婚約の申し込を、させて欲しい』

「そんな事をなさらなくても言いません、内容をボカして契約書を」
『前は情愛を求めるなと言ったけれど、今回はそれは無しにしたい』

「ですから、そんな情愛を利用して頂かなくても絶対に誰にも言いませんので」
『すまなかった、違うんだ本当に』

 色男の元婚約者様が、膝から崩れ落ちてしまい。

「良いんです、無理に今直ぐに信用しろだなんて、ソチラが用意した契約書でも勿論署名捺印血判致しますし。あ、他に何を担保に差し出せば宜しいですか?」
『君が欲しい』

「ですから結婚の事ならご心配、あ、未婚のままでと仰っていますか?」
『違う』

「では、妾に」
『違う』

「あの、お洋服が汚れてらっしゃるでしょうし、そろそろ」
『君の傍に居たいんだ、頼む』

「そんなに私は信用」
『違う、そうじゃないんだ』

「では信用して頂けるんですね?」
『している、すまなかった』

「なら」
『多分、君を、好いているかも知れないんだ』

 元婚約者様が、私を。

「あの、ですから情愛を」
『情愛を利用したいワケじゃない、最初からやり直させて欲しい』

「その、好かれる様な事は何も無かったかと」
『アレでか』

「アレで、とは」
『君は元婚約者だと言う女に、思い遣りも込めて言うべき事を言い、しっかりと俺にも釘を刺した』

「婚約者としては当然かと」
『それから例の女性の事も、治めるだけでは無く俺に不機嫌にもならず、しかも予測も当てた』

「それこそ作家の娘ですし、読んだ本で似た騒動が有りましたし。アナタ様が懸念していた通り、騒動も糧と言えば糧ですから」

『あの程度の事なら』
「嫌がる方は嫌がりますから」

『君はちゃんと約束を守る女だ』
「命が掛れば話してしまうかも知れません、だからこそ、離れていた方が宜しいかと」

『なら傍に居て守る』

「あ、父から聞いたんですけど、お薬と薬酒を合せて飲めば記憶が消えるかも知れないそうなので、今直ぐ試し」
『君は、そんなに俺が嫌いなのか』

「いえ、ですけどアナタは謝る事が出来た、私は忘れる。お互い得しか無いかと」

『俺が君を好いているかも知れない、その事は』
「償いや罪悪感、興味本位や不安が混ざり、そう勘違いしてらっしゃ。あ、抱きます?そうすれば意外と冷めるか、逆に安心するかも知れませんよ」

『そんな理由で抱かれるのか』
「ご不安はご尤もですし、後妻なら気にされない方も居るそうですから」

『君に瑕疵は無いんだ、自分を大事にしてくれないか』
「アナタもご自分を大切になさって下さい、例え他人に粗末に扱われても、アナタまでご自身を粗末に扱う必要は無いんですから」
 
『君に、俺が君を好いていると、理解して欲しい』

「あの、何処に好く要素が」
『こう優しい所だ』

「林檎さんも使用人も、皆さんこうですよ?」
『賢い』

「作家の娘なら、良く本を読むので、大概はこうかと」
『思い遣りが有る』

「皆様お客様だと思っていますから」

『君に好かれたい』
「お薬と薬酒の効能がハッキリしていませんものね」

『本当に、君を信じているんだ』
「でしたら結婚も情愛も必要無いかと」

『はぁ、堂々巡りをしている気がするんだが』
「すみません、名案が浮かばず」

『君が俺を好けば良い』

「あの、もう少し落ち着いてから考えませんか?痛みで考えが鈍る場合も有るそうですから、冷やしながら、甘い物は如何ですか?」

『あぁ、そうしよう』



 疑いから始まると、疑心暗鬼の連鎖が続く。
 しかも嘘や隠し事が有れば、更に複雑化してしまう。

「あ、切符は?それともお宿を取っているんですか?」

『いや、片道で、宿も』
「ならココがオススメですよ、信用出来る方だけ、紹介制のお宿もやってるんです」

『何でも知っているんだな』
「そうだったらどんなに良かったでしょうね、最初から知っていればお断りしましたのに」

 彼女は決して突き放しているワケでは無い、けれど、言葉が胸に突き刺さる。
 彼女の言葉を聞く度、気遣いや優しさを感じる度に、彼女を好いている事に気が付く。

 そして好いていると自覚する度に、自己嫌悪に陥る。

 あぁ、その自己嫌悪を消したいが為に、こんなにも彼女に食い下がっているのか。

『すまなかった、もう帰る』
「あ、すみません、何か不味い事を言ってしまいましたか?」

『いや、違うんだ』
「痛みますか?」

『あぁ、凄く』
「その、お忙しいのでしたらお引き止めはしませんが、汽車では冷やすのも難しいでしょうから。ギリギリまでご休憩なさっては?お泊りでなくてもココは使えますから」

『優しくされればされる程、自分が嫌になる、それを君を使って誤魔化したいだけなのかも知れない』

「それは、困りましたね、私と会わなければ収まりそうですか?」

 謝罪は済ませた、誤解も解けた。
 彼女を信用もしている。

 ただ、もし他の男と結婚したなら。
 もし、不幸な結婚になり。

 いや彼女は強い、そして賢いし、優しい。

 それこそ例の男、あの書生が相手でも、きっと彼女は上手くやるだろう。
 けれど、出来るなら俺は。

『君となら子を育てられる気がする』

 言った後に、卑怯だと気付いた。
 だが彼女は。

「それは重要な事ですから、悩まれるのも無理は無いかと」
『どうして卑怯な物言いを受け入れてしまうんだ』

「受け入れてはおりませんよ、産む、とは返事をしていませんから」

『俺は、ムキになっているだけなんだろうか』
「だからこそ、抱いてしまえば良いのでは?」

『君は』
「父が許した婚約ですし、アナタの清さを信じていますから」

『確かに検査はしたが』
「それとも誰かとなさったんですか?」

『いや、だが』
「あ、検査後にです、検査直前も困りますけど、別に童貞でなくても良いんですよ?処女膜のようなモノは無いそうですし、偽れるんですから」

 彼女の言葉に頭を抱え込んでしまった。
 そこも、誤解を解かなければ。

『いや、本当に、誰とも何も無いんだ』
「色男の、遊び人が」

『女避けに流して貰った噂なんだ』
「ふふふ、冗談ですよ、扱い慣れてらっしゃらない事は直ぐに判りましたから」

『俺は、何か失敗を』
「いえ、今はカマをかけました、ふふふ」

 初めて、女性に触れたいと思った。
 笑わせたい、喜ばせた、触れたいと初めて思った。

『少し、横になって冷やしたい』
「あ、お部屋をご案して頂きますね」

 彼女と2人だけになる。

 普通の男が考える様に、下世話な案が浮かんでしまった。
 彼女を抱き、強引に父親から許可を貰えば良いんじゃないか、と。

 けれど彼女の父親はマトモな男、しかも作家、言い包められるのは寧ろコチラになってしまうだろう。
 なら、段取りを踏むべきだ。

 手を出すべきでは無い。

『良い部屋だな』
「初めて入りました、逢引部屋なんだそうですよ」

 とんでもない事を嬉しそうに言われ、つい決心が揺らぎそうになってしまった。
 彼女は賢いが、何処か危うい。

『冗談なのか本気なのか判らないんだが』
「半分は、ですね、初めて入りましたから」

『君は何処にでも行くのかと思っていた』
「危ない場所に1人では行きませんよ、少しの油断と軽率な行動で、人生は変わってしまいますから」

『俺も男なんだが』
「情愛を求めるなと仰っていましたし、賢いアナタ様なら手は出されないかと」

『今までもそうして来たのか』
「はい、私は養われている身です、せめて父の糧になればと。皆さんに色々と楽しませて頂きました」

 こんなにも、好いた相手が遊び慣れた人だと知るだけで、こんなにも心苦しいのか。
 彼女はどんな思いで俺と。

 いや、情愛を求められないなら、せめて糧にでもと思ったとしても不思議は無い。

 本当に、余計な事を言わなければ。
 最初から、黙って様子を伺っていれば。

『余計な事を言わなければ良かったな』
「いえ、お互いに妾を持ち幸せに暮らしている者も居る筈です、私とならそう過ごせるかも知れないと思っての事かと。ふふふ、全然当てが外れましたけどね、ふふふ」

『そうした条件を君は跳ね除けるべきだ』
「あら、そうしてもっとお顔の良くない方を紹介されても困ります、条件は日々悪くなるのです。毎日見ても苦では無いお顔の方が良いかと」

『顔か』
「大事ですから、毎日何かを嫌っている様な顔は見ていては、気分の良いモノではありませんし」

『まぁ、そうだが』
「ですのでご無理をなさらないで下さい、お顔の好みは其々ですから。では、失礼致しますね」

 流れる様に去られ、思わず考え込んだままになってしまった。
 もしかして、最初に俺が拒絶したのは、顔のせいだと。

『待ってく』

 彼女は既に廊下にすら居らず。
 跳ねる様に、兎の様に外を駈けて行った。
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