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一章 一年目なつの月

11 なつの月11日、泉の女神③

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女神が宿る泉は、妖精の棲む森の入り口にあった。
 イーヴィンはポケットからシルキーお手製のビスケットを取り出す。
 丁寧にラッピングされたそれは、女神への貢物である。彼女はそれを、躊躇いもなくぽちゃんと泉に投げ入れた。

「……」

 透明度の高い水を有する泉は、森の木々を写して青々としている。エメラルドグリーンの水面みなもを見つめることしばし。

 不意に、泉の水面に波紋が広がる。どこからともなく光の粒が現れたかと思えば、次の瞬間には水面に女神が現れていた。

「……」

「……」

 イーヴィンは沈黙した。
 女神も沈黙していた。
 静かな泉の上を、小鳥たちがさえずりながら飛んでいく。

 信じ難いことに、イーヴィンの目の前にいる女神は、ほのかとして死んだ直後に湖で会った女神と同じに見えた。

 互いに互いを見て、目を見開く。
 沈黙に耐えかねてイーヴィンが声を掛けようと口を開くと同時に、女神はスライディングするように彼女の目の前でズシャアと勢いよく土下座した。

「……は?」

 意味が分からず、イーヴィンは開いた口をそのままに、女神を見つめた。ポカンと開いた口から、吐息のような問いのような声が漏れる。

 女神の髪につけられた鈴のような装飾品が、シャランシャランと鳴り響いた。
 見れば女神は震えているようで、イーヴィンはますますどうしてこうなっているのか分からず、立ち尽くす。

「申し訳ございません。わたくしの、私の力が及ばないばかりに、このようなことになってしまい……謝ろうとは思っていたのですが、どう謝ろうかと悩んでいるうちに貴女あなたがやって来てしまって……いえ、あの、責めているわけではこざいません。全て、私が悪いのです。私が妹神でなければ、姉神や兄神に悪戯をされることなどありませんでした。貴女は何も悪くないのに……姉神と兄神の悪戯に巻き込むことになって、本当に申し訳ございません」

 酸素不足にならないのだろうかと心配になるような長々とした謝罪を口にした女神は、言い終わるとチラリとイーヴィンを見て、それから丁寧に手を揃えて再び頭を下げた。
 イーヴィンはそれを、相変わらずポカンと口を開けたまま見ていた。

「……あの」

 黙ったまま身動きもしないイーヴィンを、女神は戸惑いながらそっと見上げた。

「え?あ、ごめんなさい。びっくりしちゃって。あの、土下座なんてしちゃって大丈夫なんですか?あなたは、女神様なのに」

 女神の声にようやく我に返ったイーヴィンは、見上げてくる彼女に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
 女神は泉の水面のようなエメラルドグリーンの目からはらはらと涙を零し、「なんて優しい人っ」とイーヴィンの手をギュッと握ってきた。

「いえ、良いのです。私が弱い神なばかりに貴女には大変なご迷惑を……乙女ゲームの悪役令嬢をご所望でしたのに、全く違う世界の……主役とはいえ、牧場生活と華やかな貴族生活では戸惑ったでしょう?」

「いや、快適に過ごしてるので……大丈夫ですよ?」

 シルキーとの生活は、大変快適である。今となっては悪役令嬢の生活じゃなくて良かったと思っているくらいだ。

 そんなイーヴィンに、女神は眩しいものでも見るように目をすがめた。

「あぁぁ……なんと、聖女のような方なのでしょう。やはり貴女は希望の世界へ転生させてあげねばなりません。少々長い道のりではございますが、この世界の生を全うした暁には、必ずや乙女ゲームの悪役令嬢へ転生させてみせますわ」

 イーヴィンの手からそっと手を離した女神は、すっくと立ち上がると涙を拭った。
 どこかスッキリとした表情を浮かべ、女神はそれはそれは麗しい笑みでこう言った。

「では、失礼致します。私は神々に対抗する力をつけて参りますゆえ。御用の際は、この鈴でお呼び下さいませ。それでは」

 ポゥッと宙に現れた手のひらサイズの大きな鈴をイーヴィンが手に取っている間に、女神は泉へと姿を消した。

「えぇぇ……」

 あっという間の出来事に、思うことは一つ。
 やはり神は、気まぐれだ。
 言いたいことを言うだけ言って、さっさと消えてしまった。

「なんというか……全部予想外すぎて、ついてけない。さすが、神様」

 どうやらイーヴィンは神々の悪戯によって転生先が変わってしまったらしい。
 悪役令嬢の逆転人生を楽しめないのは残念である。
 しかし、まったり牧場生活も悪くはない。

「せっかくの第二の人生、楽しまないと損だよね」

 なってしまったものは、仕方がない。
 またしても「まぁいっか」で済ませたイーヴィンは、鈴をポケットに詰め込んで、踵を返した。
 自分の人生だというのに、まぁいっかとは、大雑把過ぎる。とはいえ、切り替えの早さは彼女の利点でもあった。

「今日のお昼はなぁにかなぁー」

 フンフンと楽しげに帰り道を辿るイーヴィンの背後で、怪しい影が彼女を見つめていたのだが、お昼ご飯の予想を立てる彼女がそれに気づくことはなかった。
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