上 下
39 / 71
七章 所詮は軍人、姫になどなれません

39 総司令官補佐とその秘書

しおりを挟む
ギィと開いた扉の先は、いつも休憩時間に使っている部屋のはずだった。しかし、同じ部屋とは思えない圧迫感に思わずレーヴは息を飲む。

 部屋の一番奥、もっとも位が高い客人が座る席に男が座っていた。

 レーヴには、男が天井に頭が付くんじゃないかというくらい、大きく見えていた。威圧感に、息を飲む。猫に睨まれたネズミはこんな気持ちだろうか。レーヴは逃げ出したくなる気持ちをなんとか堪えて、入室を果たした。

 末席とはいえレーヴも軍人である。動揺をなんとか押し殺しながら、彼女は出頭する罪人のように男の前に立った。

「レーヴ・グリペンでございます。遅れて、大変申し訳ございません!」

 そう言って、深く頭を下げる。断頭台に立つような心地で、レーヴは男の反応を待った。

「……かぁわいいわねぇ」

「へ?」

 頭上から聞こえてきた野太い声に、レーヴは思わず素っ頓狂な声を上げた。聞き間違いだろうかと思わず前髪の隙間から見上げる。

 だが、指揮官は背が高すぎて、顔を確認することが出来なかった。代わりに、その隣へ視線を移す。彼の隣に腰掛けていた女性が「あーあ」という顔をして額を押さえていた。

「特にお尻がいいわぁ。馬ならやっぱりお尻よね!」

 重圧感のある視線が、レーヴのお尻に向けられている。上官とはいえ、これはセクハラに値しないだろうか。思わずレーヴが両手でお尻を押さえると、「あぁん、残念」と野太い声が聞こえた。

(え……おねぇ……?)

 頰がひくひくと引きつっている気がする。笑いたいのを我慢しているのか、それともあまりのことに驚愕しているのか。分からないけれど、とにかく今の表情を見せることは得策ではない。レーヴは、更に深々と頭を下げた。

「補佐官。こちらも暇ではないので、さっさと用事を済ませましょう」

 そんなレーヴの前で、補佐の隣に座る女性が呆れたような声で提案した。不満そうに「えぇ~」と騒ぐ補佐官の声をピシャリと跳ね除け、女性は言う。

「レーヴさん。あなたに任務を与えます。魔の森を挟んだ隣国、ディンビエが魔獣を殲滅するために魔の森を焼き払う作戦を計画している、という情報が入りました。あなたには一刻も早く、この書状を隣国に届けて貰いたい。全ての魔獣が害をなすわけではないと伝えなくてはいけません。獣人であるデュークが一緒なら、魔の森も一日と掛からず抜けることが出来ましょう」

 こっそり見上げれば、補佐官がぶりっ子のようにイヤイヤと曲げた腕の間にむっちりとした大胸筋を挟んでいた。豊満な女性の胸だったら様になっただろうが、男性の豊かな胸筋では如何ともし難い気持ちになる。鍛え抜かれた上腕はボンレスハムのようにムチムチしていた。

 おねぇでなければ、この国で大人気だっただろう。強い者に憧れるお国柄、筋肉隆々の男性は大層おモテになる。だというのに、ちゅんちゅんと騒がしい朝の小鳥のように囀る王都の乙女たちがこの肉体を噂しないのは、巧妙に補佐官の存在を隠しているとしか思えなかった。

 レーヴは見なかったことにした。そうだ、彼女は見ていない。ムチムチの大胸筋も、上腕二頭筋や上腕三頭筋も見ていないのだ。総司令官補佐ともあろう者がまさかの“おねぇ”だなんて、知ってはいけないことに違いない。

「あぁん、もう!アタシが言いたかったのにぃ!でも、そうね。獣人と一緒ならあっという間よぉ。ディンビエは最近出来たばかりの新しい国だから、獣人の存在を知らないみたいなの。だから、デュークのような存在がいるってことを、見せつけてきてちょうだい」

 レーヴが必死になって見ない聞かない言わないを実践しているというのに、補佐官はそれを軽々と打ち破ってくる。場違いにも笑いそうになるのを我慢しているせいで、レーヴの腹筋はプルプルしてきた。

(笑うのを全力で耐えるのって、腹筋運動よりしんどい……!)

 プルプル震えるレーヴに憐れみの視線を向け、女性ーー補佐官秘書は嫌そうに補佐官を見上げた。素手で熊をも倒しそうな見た目のくせに、おねぇ。残念すぎて、悲しくなってくる。

 補佐官秘書は補佐官に憧れてその隣まで登ってきたのに、中身を知ってだいぶ損した気分だった。レーヴもきっとそうに違いない。本当にレーヴが思っているか分からないのに、勝手に決めつけた彼女は「うんうん分かるよ」とこっそり同意した。

 そうとなれば、さっそく撤退あるのみである。一刻も早く、この悪夢を夢で終わらせてあげなくてはいけない。人間、あまりに奇異なことに出くわすと自分の常識を疑いたくなるものである。彼女にそんな思いをさせるのは忍びない。そんな思いをするのは、自分だけで十分なのだ。

 補佐官秘書は善は急げと早々に立ち上がった。理知的な眼鏡の奥の目が、いやんいやんと品を作る補佐官へ蔑むような視線を向ける。

「補佐官、もうそれくらいにしておいて下さい。あんたのせいで総司令部全員がおねぇだなんて思われたら心外です」

 出来るだけ、辛辣そうに忠告する。けれど、補佐官は頰を膨らませてプンプンするものだから、秘書官補佐は思わず頰を緩ませて「可愛い」と呟いてしまった。そしてハッと我に返ると、悔しそうに上官を睨みつける。

「んもう!可愛い顔してイケズなんだから!分かったわよう、帰りますぅ」

 筋肉隆々の男がすっくと立ち上がる。言葉遣いはおねぇだが、その行動はしっかりと鍛え抜かれた男性軍人のものだ。そんな補佐官のお尻をペンペン叩きながら、補佐官秘書は追い立てるように歩かせる。

「はい、そうしましょう。仕事が待っていますので。えぇ、仕事が、あなた様を待っていますのでね!」

「はぁい」

 唇を尖らせて不満そうではあるが、補佐官とて多忙の身である。補佐官秘書の行動を咎めるでもなく、おとなしく歩き始めた。レーヴの横を通り過ぎる際にそっと彼女の頭を撫でていくのも忘れない。

「頼んだわよ」

「はいっ」

 補佐官の激励に、レーヴは大きな声で答えた。

 そんなレーヴに、補佐官秘書はまたしてもうんうんと頷いていた。補佐官はおねぇではあるが、その激励はとても励みになるのだ。そうしてうっかり彼女は補佐官に恋をしてしまったわけだが、レーヴはどうだろうかと心配になった。

 そっと後ろを振り返ると、別の男の名を呟く彼女が見えた。

 心配など無用だった。見目麗しい獣人に恋をする少女が、補佐官なんぞにうつつを抜かすわけがないのだ。

 恋をする相手に失礼なことを思いながら、補佐官秘書は部下を引き連れ早馬部隊王都支部を後にしたのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

陛下の溺愛するお嫁様

さらさ
恋愛
こちらは【悪役令嬢は訳あり執事に溺愛される】の続編です。 前作を読んでいなくても楽しんで頂ける内容となっています。わからない事は前作をお読み頂ければ幸いです。 【内容】 皇帝の元に嫁ぐ事になった相変わらずおっとりなレイラと事件に巻き込まれるレイラを必死に守ろうとする皇帝のお話です。 ※基本レイラ目線ですが、目線変わる時はサブタイトルにカッコ書きしています。レイラ目線よりクロード目線の方が多くなるかも知れません(^_^;)

英国紳士は甘い恋の賭け事がお好き!

篠原愛紀
恋愛
『賭けは私の勝ちです。貴方の一晩をいただきます』  親の言いつけ通り生きてきた。『自分』なんて何一つ持って いない。今さら放り出されても、私は何を目標に生きていくのか分からずに途方にくれていた。 そんな私の目の前に桜と共に舞い降りたのは――……。 甘い賭け事ばかりしかけてくる、――優しくて素敵な私の未来の旦那さま? 国際ショットガンマリッジ! ―――――――――――――― イギリス人で外交官。敬語で日本語を話す金髪碧眼 David・Bruford(デイビット・ブラフォード)二十八歳。 × 地味で箱入り娘。老舗和菓子『春月堂』販売員 突然家の跡取り候補から外された舞姫。 鹿取 美麗 (かとり みれい)二十一歳。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~

柊木 ひなき
恋愛
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。 その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!  この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!? ※シリアス展開もわりとあります。

辺境の娘 英雄の娘

リコピン
恋愛
魔物の脅威にさらされるイノリオ帝国。魔の森に近い辺境に育った少女ヴィアンカは、大切な人達を守るため魔との戦いに生きることを選ぶ。帝都の士官学校で出会ったのは、軍人一家の息子ラギアス。そして、かつて国を救った英雄の娘サリアリア。志を同じくするはずの彼らとの対立が、ヴィアンカにもたらしたものとは― ※全三章 他視点も含みますが、第一章(ヴィアンカ視点)→第二章(ラギアス視点)→第三章(ヴィアンカ視点)で進みます ※直接的なものはありませんが、R15程度の性的表現(セクハラ、下ネタなど)を含みます ※「ざまぁ」対象はサリアリアだけです

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

【完結】身を引いたつもりが逆効果でした

風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。 一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。 平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません! というか、婚約者にされそうです!

処理中です...