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第九話
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王家の墓所は城の北側、城壁の外に広がる森の中にあった。
アガリエに導かれて石畳の奥に続く階段をのぼる。日差しが強く、じわりと体が汗ばんだが、先を行くアガリエの足取りに変化は見られない。城を離れて長いと聞いている。通い慣れているというわけではないだろうから、意外と脚力があるのか。
高い石壁の向こうに王家の墓がある。
ここにアガリエやイリ、そして第二王子の母であり王妃であった女性が眠るのだそうだ。
アガリエの姿を認めた門番が、巨大な門を厳かに開く。事前に訪問の連絡を入れていたため、内側の安全はすでに確認されているらしい。護衛たちは門の外で待機を命じられたが、ゼンが知る中で唯一、何の抵抗もなくその命に従ったように見えた。
墓守だという老婆の儀礼的な挨拶を受け、アガリエとふたり、前庭の中腹を横切る石塀の、さらに奥を目指す。
珊瑚の欠片が敷き詰められた前庭は驚くほど広い。歩くたびに足の下でじゃりじゃりと音が鳴った。
「城にいた頃、一人になりたい時はよくここへ来ていたものです。ここなら傍に誰もいないことが一目でわかりますので」
「それで俺を連れてきてくれたの? ……本当に、それだけ?」
アガリエが目を丸くする。
「ゼン様がわたくしを疑うなんて。熱でもあるのですか?」
「ないよ! ……ないけど、反省はしてる。第二王子がマヤーを気にかけてたのって、何か意味があるのか?」
「わたくしが思うに、皆の前でマヤーに騎乗してみせて、魔物さえも従える武勇に秀でた世継ぎを演出したいのではないかと。それに魔物の生態を知っていれば、退治する時に役立つかもしれませんし、どのように些細なことでも知っていて損はありません」
ゼンが良かれと思って第二王子に教えたことは、魔物たちにとっては弱点を教えたことになってしまったのか。
「マヤー、城に置いてきちゃったけど大丈夫かな」
「わたくしの手の者が守っているのでご安心ください。むしろゼン様こそ本当に大丈夫なのですか? 月神女に何を言われたらそこまで落ち込むのか、ぜひお聞かせいただきたいものです」
「まあ、いろいろね」
なんとか笑顔を取り繕う。けれど覇気がなさすぎたらしく、アガリエは眉間の皺をさらに深くしただけだった。
話題を変えよう。
けれどここは墓所で、話題になりそうなものは眼前の墓しかない。
「そういえばアガリエのお母さんって亡くなってたんだな。どういう人だったの?」
「母はわたくしが殺したのです」
その言葉の意味を理解するのに、しばらくかかった。
「わたくしを産んだために、母は命を落としました」
「……ごめん。適切な話題じゃなかったな」
「適しているも何も、純然たる事実で、昔の話ですからお気になさらず」
墓所だからだろうか。ここには静謐な空気が満ちている。
そんな中でアガリエの声はひどく無機質で、異質だった。
「王の寵愛が深い方で、第二王子を産んだ翌年にわたくし達を身籠ったのですが、宵の口にイリを産み落とした直後、容体が急変し、息を引き取ったのだそうです。皆が落胆する中、産婆が腹のふくらみに違和感を覚え、そこでようやくもう一人腹の中に赤子が取り残されていると分かり、妃の腹を切り裂いた、と聞いております」
「裂いたって、腹を?」
「さようです。周囲は血の海で、まるで処刑場のような有様だったとか。……戦場ではなく処刑場と形容するあたりが、外をほとんど見ることがない城仕えの者らしいですよね」
問題はそこではないだろう、と思ったが、声にはならなかった。
俄かには信じがたい話だ。
子を産むということは命がけの行為だ。初産や難産、それに産婆や医術師がいない地域では母子ともに助からない場合も多いと聞く。ゼンもマナ使いとして出産にまつわる様々な祈りを耳にしてきた。
けれど腹を裂き、赤子を取り上げた話など前代未聞だ。まだぬくもりが残っていたであろう妃の腹に刃を立てるなど、正気の沙汰とは思えない。
気分が悪い。
状況は理解できる。自力では腹から出てくることができない赤子を救うための唯一の方法だ。
産婆は一体どのような心持ちで決断を下したのか。
太陽が沈み、宵闇に包まれ明かりの乏しい部屋で、産まれたばかりのイリと、事切れた王妃。そしてそのふくらんだままの腹。
王族の出産だ。その場に居合わせたのは産婆と神女、あとは王妃に近しい女たちだろう。刃物など碌にそろっていなかったはずだ。そして戦場に出たこともないであろう非力な女の手で肉を裂くのは、相当大変だったに違いない。
漂う血の匂い。女たちの悲鳴。それが脳裏に浮かんで眩暈がした。
ゼンが足を止めると、アガリエもそれに気づいて立ち止まった。
「その腹から取り出された赤子がわたくしだということは、もうお分かりですね。ちなみに産婆は逆上した父王に殺されたそうです。当時の月神女がお諫めしなければ、その場にいた他の者も命を落としていただろう、と」
三段だけの階段を一つずつ上がる。
眼前に広がる墓は、遠目からは石造りの巨大な一つの箱のような建物だったが、実際はその中でいくつかの墓に分かれていたらしい。石塀の前にいくつも階段があるのは、階段に応じた数の墓があるからなのだとか。
塀の内側は思ったよりも狭かった。十人ほどが入れるだろう空間を抜けた先に、こちらもまた石造りの扉がある。その向こうにアガリエの母たる女性が眠っている。
扉の前でアガリエは膝を折り、目を閉じた。
「幼い頃は、血塗れの姫チィアカンは魔物の子だと、よく陰口をたたかれたものです。死人の腹の中で生きていられるわけがないから、王家を呪う魔物が、自らの子と本当の姫を取り換えたのだろう、というのです。わたくしが幼少の頃より神女として突出した才能を現していたことも、信憑性を高めることになったのでしょう」
「アガリエの真名って、チィアカンっていうんだ」
「今の話を聞いて一番気になったのがそこですか?」
だって他に何を言えばいいのかわからない。
「チィアカンはいわば俗称です。父王はわたくしを疎んでおられますけど、さすがに赤子にそのような非道な名をつけるほど耄碌してはおられません。妹姫ウタという名をくださいました」
「大差ない……」
ゼンは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
アガリエと彼女の母の身に起こった悲劇は、いくつもの不運が重なったゆえの出来事だと言える。
産気づいたのが明るい昼間であれば、腹の中の赤子は双子であるともっと早くに気づいていれば、あるいはイリより先にアガリエが産まれていたならば。
何か違っていたかもしれない。
今更何を言っても詮無いことだ。それでも思わずにはいられない。
ゼンは膝の上に頬杖をつくと、こちらを覗き込んでくるアガリエを見やる。
相変わらず愛らしい顔をしている。口を開けば嘘ばかりで、きっと腹の中は黒いのだろうけれど。
彼女の生まれを考えれば致し方ないこと――、だったのだろうか?
ふと、彼女が髪に挿している赤い花が目に留まる。ひとつひとつが大きなその花弁は、毒々しいほど鮮やかな赤だ。
「いつも髪に挿すのはユウナの花なんだな」
「藪から棒にどうなさったのですか。魔を退けると云われている花ですので、神女は好むのですよ」
「でもアガリエは、どっちかっていうとマツリカだよな」
「え?」
「マツリカの葉っぱはさ、わりかし尖ってて切れ味があるけど、花は小ぶりで、白くてかわいいし。それに煎じてお茶にすれば気持ちが落ち着く効能があるくせに、飲みすぎると逆に体に害を成すから扱いが難しいってところとかも似てる。チィアカンより、ユウナより、マツリカのほうがぴったりだと思う」
「……わたくしが、マツリカ」
そう反復した後、アガリエは不意に黙り込んだ。
ゆるく瞬くその漆黒の双眸にはどんな感情も読み取れない。
そのはずなのに、ゼンにはなぜか彼女が泣いているような気がして、いつになく狼狽えた。
「なんだよ、急に泣くなよ!」
動揺の反動で思い切り怒鳴ってしまい、慌てて口元をふさぐ。
アガリエは今度はわかりやすく怪訝そうな表情をした。柳眉を寄せ、己の頬を撫ぜると、さらに眉間の皺を深くする。
「泣いてなどおりません」
真実その言葉通り彼女の頬は乾いている。
けれどゼンには彼女の瞳が潤んだように見えたのだ。見間違いではない。ならばそれは瞬きの合間に消えてしまうような儚げなものだったのか。
無意識のうちに、ゼンはアガリエの頬に触れ。
彼女の華奢な体を抱きしめていた。
マヤーと違い、アガリエからは花の香りがした。抱きしめた背中をぽんぽんと軽くたたく。
「よしよし。俺が傍にいるから、もう泣かなくて大丈夫だよ」
「ですから泣いてなどおりません。……周囲の視線を気にしたり、本当に今日は、一体どうなさったのですか?」
「べつに。ただ俺はアガリエのこと何も知らないんだってわかったから、もっと知りたいと思っただけ。あとは誰が間諜かわからないから、背後にも注意しようかと」
「誰も味方ではないと思っていれば、少しは気が楽になりますよ」
「えっ、こんなにたくさん人がいる王城で? ……周りは敵ばっかりだって、アガリエはそう思ってるのか?」
「敵ではなくとも、味方にも成りえないであろうと、全てを疑うようにしています。信じているから裏切られるのがつらいのです。はじめから裏切る可能性があると構えていれば、実際裏切られたところで、どうということはありません」
「俺は絶対にアガリエを裏切らないよ」
腕の中のアガリエがびくりと震えた。
やっぱり俺のことも疑ってたのか。
抱きしめた腕にさらに力を込める。この気持ちが伝わるように。この想いが本物だと信じてもらえるように。
けれどアガリエは何も言わなかった。
ただ小さく震える指が、ゼンの着物をぎゅっとつかんでいた。
アガリエに導かれて石畳の奥に続く階段をのぼる。日差しが強く、じわりと体が汗ばんだが、先を行くアガリエの足取りに変化は見られない。城を離れて長いと聞いている。通い慣れているというわけではないだろうから、意外と脚力があるのか。
高い石壁の向こうに王家の墓がある。
ここにアガリエやイリ、そして第二王子の母であり王妃であった女性が眠るのだそうだ。
アガリエの姿を認めた門番が、巨大な門を厳かに開く。事前に訪問の連絡を入れていたため、内側の安全はすでに確認されているらしい。護衛たちは門の外で待機を命じられたが、ゼンが知る中で唯一、何の抵抗もなくその命に従ったように見えた。
墓守だという老婆の儀礼的な挨拶を受け、アガリエとふたり、前庭の中腹を横切る石塀の、さらに奥を目指す。
珊瑚の欠片が敷き詰められた前庭は驚くほど広い。歩くたびに足の下でじゃりじゃりと音が鳴った。
「城にいた頃、一人になりたい時はよくここへ来ていたものです。ここなら傍に誰もいないことが一目でわかりますので」
「それで俺を連れてきてくれたの? ……本当に、それだけ?」
アガリエが目を丸くする。
「ゼン様がわたくしを疑うなんて。熱でもあるのですか?」
「ないよ! ……ないけど、反省はしてる。第二王子がマヤーを気にかけてたのって、何か意味があるのか?」
「わたくしが思うに、皆の前でマヤーに騎乗してみせて、魔物さえも従える武勇に秀でた世継ぎを演出したいのではないかと。それに魔物の生態を知っていれば、退治する時に役立つかもしれませんし、どのように些細なことでも知っていて損はありません」
ゼンが良かれと思って第二王子に教えたことは、魔物たちにとっては弱点を教えたことになってしまったのか。
「マヤー、城に置いてきちゃったけど大丈夫かな」
「わたくしの手の者が守っているのでご安心ください。むしろゼン様こそ本当に大丈夫なのですか? 月神女に何を言われたらそこまで落ち込むのか、ぜひお聞かせいただきたいものです」
「まあ、いろいろね」
なんとか笑顔を取り繕う。けれど覇気がなさすぎたらしく、アガリエは眉間の皺をさらに深くしただけだった。
話題を変えよう。
けれどここは墓所で、話題になりそうなものは眼前の墓しかない。
「そういえばアガリエのお母さんって亡くなってたんだな。どういう人だったの?」
「母はわたくしが殺したのです」
その言葉の意味を理解するのに、しばらくかかった。
「わたくしを産んだために、母は命を落としました」
「……ごめん。適切な話題じゃなかったな」
「適しているも何も、純然たる事実で、昔の話ですからお気になさらず」
墓所だからだろうか。ここには静謐な空気が満ちている。
そんな中でアガリエの声はひどく無機質で、異質だった。
「王の寵愛が深い方で、第二王子を産んだ翌年にわたくし達を身籠ったのですが、宵の口にイリを産み落とした直後、容体が急変し、息を引き取ったのだそうです。皆が落胆する中、産婆が腹のふくらみに違和感を覚え、そこでようやくもう一人腹の中に赤子が取り残されていると分かり、妃の腹を切り裂いた、と聞いております」
「裂いたって、腹を?」
「さようです。周囲は血の海で、まるで処刑場のような有様だったとか。……戦場ではなく処刑場と形容するあたりが、外をほとんど見ることがない城仕えの者らしいですよね」
問題はそこではないだろう、と思ったが、声にはならなかった。
俄かには信じがたい話だ。
子を産むということは命がけの行為だ。初産や難産、それに産婆や医術師がいない地域では母子ともに助からない場合も多いと聞く。ゼンもマナ使いとして出産にまつわる様々な祈りを耳にしてきた。
けれど腹を裂き、赤子を取り上げた話など前代未聞だ。まだぬくもりが残っていたであろう妃の腹に刃を立てるなど、正気の沙汰とは思えない。
気分が悪い。
状況は理解できる。自力では腹から出てくることができない赤子を救うための唯一の方法だ。
産婆は一体どのような心持ちで決断を下したのか。
太陽が沈み、宵闇に包まれ明かりの乏しい部屋で、産まれたばかりのイリと、事切れた王妃。そしてそのふくらんだままの腹。
王族の出産だ。その場に居合わせたのは産婆と神女、あとは王妃に近しい女たちだろう。刃物など碌にそろっていなかったはずだ。そして戦場に出たこともないであろう非力な女の手で肉を裂くのは、相当大変だったに違いない。
漂う血の匂い。女たちの悲鳴。それが脳裏に浮かんで眩暈がした。
ゼンが足を止めると、アガリエもそれに気づいて立ち止まった。
「その腹から取り出された赤子がわたくしだということは、もうお分かりですね。ちなみに産婆は逆上した父王に殺されたそうです。当時の月神女がお諫めしなければ、その場にいた他の者も命を落としていただろう、と」
三段だけの階段を一つずつ上がる。
眼前に広がる墓は、遠目からは石造りの巨大な一つの箱のような建物だったが、実際はその中でいくつかの墓に分かれていたらしい。石塀の前にいくつも階段があるのは、階段に応じた数の墓があるからなのだとか。
塀の内側は思ったよりも狭かった。十人ほどが入れるだろう空間を抜けた先に、こちらもまた石造りの扉がある。その向こうにアガリエの母たる女性が眠っている。
扉の前でアガリエは膝を折り、目を閉じた。
「幼い頃は、血塗れの姫チィアカンは魔物の子だと、よく陰口をたたかれたものです。死人の腹の中で生きていられるわけがないから、王家を呪う魔物が、自らの子と本当の姫を取り換えたのだろう、というのです。わたくしが幼少の頃より神女として突出した才能を現していたことも、信憑性を高めることになったのでしょう」
「アガリエの真名って、チィアカンっていうんだ」
「今の話を聞いて一番気になったのがそこですか?」
だって他に何を言えばいいのかわからない。
「チィアカンはいわば俗称です。父王はわたくしを疎んでおられますけど、さすがに赤子にそのような非道な名をつけるほど耄碌してはおられません。妹姫ウタという名をくださいました」
「大差ない……」
ゼンは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
アガリエと彼女の母の身に起こった悲劇は、いくつもの不運が重なったゆえの出来事だと言える。
産気づいたのが明るい昼間であれば、腹の中の赤子は双子であるともっと早くに気づいていれば、あるいはイリより先にアガリエが産まれていたならば。
何か違っていたかもしれない。
今更何を言っても詮無いことだ。それでも思わずにはいられない。
ゼンは膝の上に頬杖をつくと、こちらを覗き込んでくるアガリエを見やる。
相変わらず愛らしい顔をしている。口を開けば嘘ばかりで、きっと腹の中は黒いのだろうけれど。
彼女の生まれを考えれば致し方ないこと――、だったのだろうか?
ふと、彼女が髪に挿している赤い花が目に留まる。ひとつひとつが大きなその花弁は、毒々しいほど鮮やかな赤だ。
「いつも髪に挿すのはユウナの花なんだな」
「藪から棒にどうなさったのですか。魔を退けると云われている花ですので、神女は好むのですよ」
「でもアガリエは、どっちかっていうとマツリカだよな」
「え?」
「マツリカの葉っぱはさ、わりかし尖ってて切れ味があるけど、花は小ぶりで、白くてかわいいし。それに煎じてお茶にすれば気持ちが落ち着く効能があるくせに、飲みすぎると逆に体に害を成すから扱いが難しいってところとかも似てる。チィアカンより、ユウナより、マツリカのほうがぴったりだと思う」
「……わたくしが、マツリカ」
そう反復した後、アガリエは不意に黙り込んだ。
ゆるく瞬くその漆黒の双眸にはどんな感情も読み取れない。
そのはずなのに、ゼンにはなぜか彼女が泣いているような気がして、いつになく狼狽えた。
「なんだよ、急に泣くなよ!」
動揺の反動で思い切り怒鳴ってしまい、慌てて口元をふさぐ。
アガリエは今度はわかりやすく怪訝そうな表情をした。柳眉を寄せ、己の頬を撫ぜると、さらに眉間の皺を深くする。
「泣いてなどおりません」
真実その言葉通り彼女の頬は乾いている。
けれどゼンには彼女の瞳が潤んだように見えたのだ。見間違いではない。ならばそれは瞬きの合間に消えてしまうような儚げなものだったのか。
無意識のうちに、ゼンはアガリエの頬に触れ。
彼女の華奢な体を抱きしめていた。
マヤーと違い、アガリエからは花の香りがした。抱きしめた背中をぽんぽんと軽くたたく。
「よしよし。俺が傍にいるから、もう泣かなくて大丈夫だよ」
「ですから泣いてなどおりません。……周囲の視線を気にしたり、本当に今日は、一体どうなさったのですか?」
「べつに。ただ俺はアガリエのこと何も知らないんだってわかったから、もっと知りたいと思っただけ。あとは誰が間諜かわからないから、背後にも注意しようかと」
「誰も味方ではないと思っていれば、少しは気が楽になりますよ」
「えっ、こんなにたくさん人がいる王城で? ……周りは敵ばっかりだって、アガリエはそう思ってるのか?」
「敵ではなくとも、味方にも成りえないであろうと、全てを疑うようにしています。信じているから裏切られるのがつらいのです。はじめから裏切る可能性があると構えていれば、実際裏切られたところで、どうということはありません」
「俺は絶対にアガリエを裏切らないよ」
腕の中のアガリエがびくりと震えた。
やっぱり俺のことも疑ってたのか。
抱きしめた腕にさらに力を込める。この気持ちが伝わるように。この想いが本物だと信じてもらえるように。
けれどアガリエは何も言わなかった。
ただ小さく震える指が、ゼンの着物をぎゅっとつかんでいた。
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