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十章
3、嬉しい嘘
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アフタルは自分が陸に上がったのだと気付いた。
濡れた服や髪が、急に重みを増したからだ。
「アフタル」
また彼の声が届く。本当に神さまは寛大だ。シャールーズの声を何度も聞かせてくれるのだから。
低くて、微かに甘さを含んだ彼の声をいつまでも覚えておこう。
けれど吹く風にさらされ、アフタルは歯が噛みあわずにガチガチと音を立てた。
「寒い……寒い」
アフタルの唇は紫で、肌も青白い。
シャールーズはアフタルを抱き上げて、日当りのいい場所へと連れて行った。
つま先にカツンと何かが当たり、シャールーズは足下を見た。
それは短剣だった。
水晶の柄は、ほんのりと光を宿している。
「少し、我慢しろよ。他の奴らに見えねぇように気をつけるから」
シャールーズはアフタルの耳元で囁き、彼女の服のボタンを外した。
手慣れているはずなのに、うまく外れない。
指先が定まらず、爪で引っかけながらようやくボタンを外す。
「何をしているの! アフタルを池に戻しなさい」
エラが命じる声がする。
だが近衛騎士は動く気配がない。
「さぁ、早く!」
庭を吹き抜け、池の水面を波立たせる風に、エラの命令がさらわれる。
シャールーズは自分の背でアフタルの姿を隠しながら、濡れた服を脱がせた。
すぐに自分の上着で彼女をくるむ。
「これで少しはましか?」
アフタルは安堵の息をついた。
まだ寒いけれど、懐かしいにおいに、心が落ち着くのが分かる。
シャールーズの香りだ。
「夢みたい……本当にあなたが、いてくださるのですね」
冷えきった手を伸ばし、覗きこんでくるシャールーズの頬に触れる。
滲む視界の向こうに、不安そうな琥珀の宝石のような瞳が見えた。
「わたくしを受け入れてくださるのですか?」
「当り前だ」
「もう、わたくしのことを嫌っていないのですか?」
「……一度も嫌ったことなどない」
武骨な指が、アフタルの頬に触れる。
その指を温かいと思うほどに、体温が下がってしまっていた。
「嘘だったのですね?」
「ああ、嘘だ」
「嬉しい」
アフタルは微笑んだ。
信じていた、きっと理由があるのだと。それでも、もしかしたら自分に都合のよい解釈なのかもしれないと、不安になることも多かった。
もっともっとシャールーズと話したい。なのに。
「……寒い」
口から出てきた言葉は、望んだものではなかった。
「……寒い……です」
陽光の温もりすらも、凍えたアフタルを癒してはくれない。
◇◇◇
「アフタル」
シャールーズは、アフタルをきつく抱きしめた。懸命に抱き返してくれるけれど。
その力の弱さに胸が詰まる。
(俺が人なら。もっと体温が高ければ、温めてやれるのに)
アフタルはシャールーズを人として愛してくれる。
けれど。精霊の力なんて、たった一人の愛する人を温めることすらできやしない。
「シャールーズ! 姉さまを中に。暖炉に火を入れさせました」
王宮の窓から、ティルダードが叫ぶ。状況を判断して、すぐに使用人に命じてくれたのだろう。
アフタルを抱き上げて、中へ向かおうと歩きだした時。
エラが立ちはだかった。
「アフタルをお放しなさい。シャールーズ」
「へぇ、もうあの気持ち悪い呼び方をしねぇのかよ」
赤い唇を歪ませて、エラがシャールーズを睨みつける。
けれどすぐに艶然とした笑みを浮かべた。若い頃は、その惑わすような表情が魅力だったのかもしれないが。
エラの極端に変わる表情に、ぞっとするほどの薄気味悪さを覚える。
「あんた、情緒不安定なんじゃねぇの」
「今なら、気の迷いだと許してあげるわ。さぁ、戻っていらっしゃい」
腕の中のアフタルが、シャールーズの首にしがみついた。
「安心しろ。俺はもうお前を離したりしねぇよ」
濡れた服や髪が、急に重みを増したからだ。
「アフタル」
また彼の声が届く。本当に神さまは寛大だ。シャールーズの声を何度も聞かせてくれるのだから。
低くて、微かに甘さを含んだ彼の声をいつまでも覚えておこう。
けれど吹く風にさらされ、アフタルは歯が噛みあわずにガチガチと音を立てた。
「寒い……寒い」
アフタルの唇は紫で、肌も青白い。
シャールーズはアフタルを抱き上げて、日当りのいい場所へと連れて行った。
つま先にカツンと何かが当たり、シャールーズは足下を見た。
それは短剣だった。
水晶の柄は、ほんのりと光を宿している。
「少し、我慢しろよ。他の奴らに見えねぇように気をつけるから」
シャールーズはアフタルの耳元で囁き、彼女の服のボタンを外した。
手慣れているはずなのに、うまく外れない。
指先が定まらず、爪で引っかけながらようやくボタンを外す。
「何をしているの! アフタルを池に戻しなさい」
エラが命じる声がする。
だが近衛騎士は動く気配がない。
「さぁ、早く!」
庭を吹き抜け、池の水面を波立たせる風に、エラの命令がさらわれる。
シャールーズは自分の背でアフタルの姿を隠しながら、濡れた服を脱がせた。
すぐに自分の上着で彼女をくるむ。
「これで少しはましか?」
アフタルは安堵の息をついた。
まだ寒いけれど、懐かしいにおいに、心が落ち着くのが分かる。
シャールーズの香りだ。
「夢みたい……本当にあなたが、いてくださるのですね」
冷えきった手を伸ばし、覗きこんでくるシャールーズの頬に触れる。
滲む視界の向こうに、不安そうな琥珀の宝石のような瞳が見えた。
「わたくしを受け入れてくださるのですか?」
「当り前だ」
「もう、わたくしのことを嫌っていないのですか?」
「……一度も嫌ったことなどない」
武骨な指が、アフタルの頬に触れる。
その指を温かいと思うほどに、体温が下がってしまっていた。
「嘘だったのですね?」
「ああ、嘘だ」
「嬉しい」
アフタルは微笑んだ。
信じていた、きっと理由があるのだと。それでも、もしかしたら自分に都合のよい解釈なのかもしれないと、不安になることも多かった。
もっともっとシャールーズと話したい。なのに。
「……寒い」
口から出てきた言葉は、望んだものではなかった。
「……寒い……です」
陽光の温もりすらも、凍えたアフタルを癒してはくれない。
◇◇◇
「アフタル」
シャールーズは、アフタルをきつく抱きしめた。懸命に抱き返してくれるけれど。
その力の弱さに胸が詰まる。
(俺が人なら。もっと体温が高ければ、温めてやれるのに)
アフタルはシャールーズを人として愛してくれる。
けれど。精霊の力なんて、たった一人の愛する人を温めることすらできやしない。
「シャールーズ! 姉さまを中に。暖炉に火を入れさせました」
王宮の窓から、ティルダードが叫ぶ。状況を判断して、すぐに使用人に命じてくれたのだろう。
アフタルを抱き上げて、中へ向かおうと歩きだした時。
エラが立ちはだかった。
「アフタルをお放しなさい。シャールーズ」
「へぇ、もうあの気持ち悪い呼び方をしねぇのかよ」
赤い唇を歪ませて、エラがシャールーズを睨みつける。
けれどすぐに艶然とした笑みを浮かべた。若い頃は、その惑わすような表情が魅力だったのかもしれないが。
エラの極端に変わる表情に、ぞっとするほどの薄気味悪さを覚える。
「あんた、情緒不安定なんじゃねぇの」
「今なら、気の迷いだと許してあげるわ。さぁ、戻っていらっしゃい」
腕の中のアフタルが、シャールーズの首にしがみついた。
「安心しろ。俺はもうお前を離したりしねぇよ」
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