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五章
7、遥かシンハを離れて
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翌日は、雨が降った。
夜中。小屋の屋根を叩きつける音に、シャールーズは目を覚ました。
隣に敷いた毛皮の上ではカイが、眉間にしわを寄せて眠っている。
時折、うなされているのは夢見が悪いせいだろう。
たった一人残された辺境の守り人。こいつの仲間はどこへ行ってしまったのだろう。
暗闇に目が慣れると、窓ガラスを伝い流れる雨が見えた。
アフタルはこの雨の音で、目を覚ましてやしないだろうか。
(右腕が……なんか、落ちつかねぇんだよな)
王宮にいた頃なら、シャールーズの腕の中でアフタルが眠っていたから。
安心しきって身を預けてくるアフタルが隣にいると、やましい気分を抱くのが申し訳なくなる。
(そっか、隙間があるから落ち着かねぇんだ)
理由が分かれば対処は簡単。シャールーズは毛布を丸めて、自分の右腕部分に置いた。
……なんか、違う。っていうか、これは絶対違う。
「なにやってんだ。俺は」
情けなさに、思わず声が出てしまった。
暗闇に目が慣れると、床に本が積み上げてあるのが分かった。
背表紙に書かれているのは、カシア語なのか、まったく読めない文字。それと平易なサラーマ語の本もある。
「……かんたん、さらーまご、かいわ。これであなたも、しんりゃくしゃ」
なんという本でサラーマ語を学んでんだよ。恐ろしいぜ、カシアって国は。
雨はいっそう強くなった。遠くで雷鳴が聞こえる。
激しい雨は好きじゃない。重く垂れこめた黒い雲も、雷も全部だ。
こんな日は、もう戻ることの叶わぬ故郷を思いだす。
百年近く前のにおいが、今もまとわりついているようで……嫌になる。
「なぁ、おばさん。アフタルとの誓いは、ちゃんとあんたに届いているよな」
◇◇◇
シンハにいた頃、シャールーズは天の女主人の元で暮らしていた。
椰子の木やバニヤンツリーの緑に囲まれた神殿の奥に、シャールーズ達の邸があった。
壁のない柱だけの、風が通り抜ける広間。
ジャスミンが、甘い香りを漂わせている。
「おばさん、おばさん」
まだ幼かったシャールーズは、天の女主人の足にしがみついた。人の姿を与えられて、さほど時が経っていなかった頃だろう。
「誰がおばさんだ。無礼であろうが」
ぱこん! と頭を叩かれた。
精霊の命を吹きこまれたばかりで、人でいうならまだ六、七歳の子どもくらいの見た目だったろうに。
よくまぁ、愛らしい精霊をためらうことなく叩けるものだ。
あれが人々に崇められる女神というのが信じられない。
南の島シンハに住む人の肌は日に焼けている。けれど女主人は、まるで雪花石膏のような肌に、透けるような淡く長い髪を、ゆったりと結い上げていた。
「いてて。おばさん、象に果物をやってきてもいいか?」
「まぁ、よかろう」
「ついでに乗ってもいいか?」
「……鼻をブランコにするのでなければな」
先手を打たれて、シャールーズはそっぽを向いた。
シンハは小さな島だが、象がたくさんいる。どの象も天の女主人になついていた。
彼女が外に出れば、自然と象が集まり、まるでひざまずくように座るのだ。
なんで、こいつらなついてんの? と尋ねたことがあったが。確か、移住する際に連れて来たとか、牙を狙って殺されそうなところを救ったとか、聞いた気がする。
「シャールーズ。そなたは、荒っぽいからな。そんなことでは、主と契約を交わした時に苦労するぞ」
「べつに、俺は心配なんてしていらねぇし」
「いや。そなたではなく主が苦労するのだ」
「契約なんて、面倒くさいことしねぇよ」
誰かの下で働くとか、命令されるとか、まっぴらだ。
宝石精霊が人間より下って、誰が決めたんだ。
「俺が仕えたくなるような大人なんて、絶対いないしさ」
「おやまぁ、絶世の美少女かもしれぬぞ」
「女はすぐ泣くから嫌いだ」
「子どもだの。シャールーズは」
くっくっと天の女主人は笑った。
夜中。小屋の屋根を叩きつける音に、シャールーズは目を覚ました。
隣に敷いた毛皮の上ではカイが、眉間にしわを寄せて眠っている。
時折、うなされているのは夢見が悪いせいだろう。
たった一人残された辺境の守り人。こいつの仲間はどこへ行ってしまったのだろう。
暗闇に目が慣れると、窓ガラスを伝い流れる雨が見えた。
アフタルはこの雨の音で、目を覚ましてやしないだろうか。
(右腕が……なんか、落ちつかねぇんだよな)
王宮にいた頃なら、シャールーズの腕の中でアフタルが眠っていたから。
安心しきって身を預けてくるアフタルが隣にいると、やましい気分を抱くのが申し訳なくなる。
(そっか、隙間があるから落ち着かねぇんだ)
理由が分かれば対処は簡単。シャールーズは毛布を丸めて、自分の右腕部分に置いた。
……なんか、違う。っていうか、これは絶対違う。
「なにやってんだ。俺は」
情けなさに、思わず声が出てしまった。
暗闇に目が慣れると、床に本が積み上げてあるのが分かった。
背表紙に書かれているのは、カシア語なのか、まったく読めない文字。それと平易なサラーマ語の本もある。
「……かんたん、さらーまご、かいわ。これであなたも、しんりゃくしゃ」
なんという本でサラーマ語を学んでんだよ。恐ろしいぜ、カシアって国は。
雨はいっそう強くなった。遠くで雷鳴が聞こえる。
激しい雨は好きじゃない。重く垂れこめた黒い雲も、雷も全部だ。
こんな日は、もう戻ることの叶わぬ故郷を思いだす。
百年近く前のにおいが、今もまとわりついているようで……嫌になる。
「なぁ、おばさん。アフタルとの誓いは、ちゃんとあんたに届いているよな」
◇◇◇
シンハにいた頃、シャールーズは天の女主人の元で暮らしていた。
椰子の木やバニヤンツリーの緑に囲まれた神殿の奥に、シャールーズ達の邸があった。
壁のない柱だけの、風が通り抜ける広間。
ジャスミンが、甘い香りを漂わせている。
「おばさん、おばさん」
まだ幼かったシャールーズは、天の女主人の足にしがみついた。人の姿を与えられて、さほど時が経っていなかった頃だろう。
「誰がおばさんだ。無礼であろうが」
ぱこん! と頭を叩かれた。
精霊の命を吹きこまれたばかりで、人でいうならまだ六、七歳の子どもくらいの見た目だったろうに。
よくまぁ、愛らしい精霊をためらうことなく叩けるものだ。
あれが人々に崇められる女神というのが信じられない。
南の島シンハに住む人の肌は日に焼けている。けれど女主人は、まるで雪花石膏のような肌に、透けるような淡く長い髪を、ゆったりと結い上げていた。
「いてて。おばさん、象に果物をやってきてもいいか?」
「まぁ、よかろう」
「ついでに乗ってもいいか?」
「……鼻をブランコにするのでなければな」
先手を打たれて、シャールーズはそっぽを向いた。
シンハは小さな島だが、象がたくさんいる。どの象も天の女主人になついていた。
彼女が外に出れば、自然と象が集まり、まるでひざまずくように座るのだ。
なんで、こいつらなついてんの? と尋ねたことがあったが。確か、移住する際に連れて来たとか、牙を狙って殺されそうなところを救ったとか、聞いた気がする。
「シャールーズ。そなたは、荒っぽいからな。そんなことでは、主と契約を交わした時に苦労するぞ」
「べつに、俺は心配なんてしていらねぇし」
「いや。そなたではなく主が苦労するのだ」
「契約なんて、面倒くさいことしねぇよ」
誰かの下で働くとか、命令されるとか、まっぴらだ。
宝石精霊が人間より下って、誰が決めたんだ。
「俺が仕えたくなるような大人なんて、絶対いないしさ」
「おやまぁ、絶世の美少女かもしれぬぞ」
「女はすぐ泣くから嫌いだ」
「子どもだの。シャールーズは」
くっくっと天の女主人は笑った。
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