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一章

8、あなたは誰

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「まぁ、どう思おうがあんたの勝手だけどな。教えてやったんだから、恨むなよ」
「嘘です。嘘に決まっています。絶対に、有り得ないことです」

 アフタルは反論した。言葉にありったけの力を込めて。
 
 王女三人で、まだ幼いティルダードを支えていこうと誓ったのだ。

 父王亡き後、たった十歳のティルダードにサラーマ国を統治できるはずがない。弟が傀儡にされぬよう、即位する日までこの国を守れるように。アフタルは経済的な支援を求めて、ロヴナに嫁ぐことを決めたのだ。

  ロヴナに嫌われていることは、最初から知っていた。お金目当ての王女と、爵位目当ての商人の息子。
 この縁談がうまくいくはずはない。

 でも、国のためを思えば愛のない結婚も耐えられると思った。
 己を立たせる基盤……二人の姉と弟、彼らへの愛情があれば、苦難も乗り越えられると。

「わたくしは信じます。お姉さま方が裏切ることなどないと」

 そうでなければ、生きていられない。
 自分の考えに、アフタルは苦笑した。

(ああ、愚かなことを。これから豹の餌にされるのに、わたくしに未来があるはずがありませんね)

 姉のことは信頼している。けれど卑劣な男の口から、その名が出たことでアフタルは気力を削がれた。
 頑張ったところで逃げ切れるはずもない。生き残れるような力も剣技もない。

 ぱた、と石の床に雫が落ちた。

「わたくし……泣いているの?」

 ぱた……ぱたた。
 それが涙だと気付いた途端に、止まらなくなった。

 せめて、みっともなく声を上げて泣くことだけはやめよう。

 嗚咽を噛み殺し、アフタルは肩を震わせてただ泣いた。手に持っていた箱が床に転がり落ち、中の宝石が投げ出された。
 声もなく静かに涙をこぼれさせる王女を、剣闘士たちは申し訳なさそうに眺めている。
 誘拐犯は、もう用が済んだとばかりに控えの間から姿を消した。

 その時だった。
 辺りに光が満ちたのは。

 金の粒、銀の粒、水晶の粒、琥珀の粒。それらを豪勢に空中に撒いたかのように、空気が煌めいている。
 清浄な光に、気だるそうな剣闘士たちは目を見開いた。

「……まぁ、泣くなよ。可愛い顔が台無しだぜ」

 光の中からアフタルに手を差し伸べてきたのは、一人の男性だった。サラーマには珍しい琥珀の肌。伸びかけの髪は金で、顎には無精ひげが生えている。

「嬢ちゃん、名前は?」
「ア、アフタルです」
「俺は、シャールーズ。覚えといてくれ」

 シャールーズは、他の剣闘士のように鎖帷子を肩と腕にまとっていない。上下ともに白い服に、腰には金糸銀糸で緻密な模様が織られた布を巻いている。

「あなたは剣闘士ではないのですか?」

 誘拐犯の話では、最近は古代の闘技が復活しているとのことだ。
 ならば、闘いが終わった剣闘士は命があっても、ひどい怪我をしているものだろうし、闘いのない剣闘士が控えのにいるのもおかしい。

「剣闘士ってやつじゃねぇな。嬢ちゃんに選ばれたから、出てきたのさ」
「わたくしが?」
「俺を拾い、俺を見つめ、俺を求めた。違うか?」

 そんなこと、あるはずがない。こんな印象的な男性と出会って、覚えていないなんておかしい。

「……いえ、違います」
「違わねぇよ」

 まっすぐに見つめてくる、深い琥珀に金の混じった瞳。
 力強い言葉と視線に、アフタルは言葉を失った。

「あんたが望んだから、俺がいるんだ。それ以外に俺の存在する意味はない」

 シャールーズは身を乗りだして、アフタルの耳元で囁いた。
 心に直接響くような、低く甘い声。

「俺は、お前のもんだぜ。アフタル」

 彼から目が離せない。
 こんなことは、生まれて初めてだ。
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