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一章

6、最悪な日

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「御者は? 彼は大丈夫なんですか?」

 前方を見やるが、さっきまで御者が座っていた席は空だ。
 倒されたにしては、物音も悲鳴も聞こえなかった。
 
「おいおい、他人の心配なんかしている場合じゃないだろ。そもそもお前を売ったのは、あの御者だぞ」
「いい加減なことを言わないでください!」

 アフタルは二人の大男を見据えた。
 たとえ泥まみれの地面とはいえ、座っていてよかった。もし立っていたら、恐ろしさで膝が震えているに違いない。

 サラーマ王家の花は蓮。
 たとえ泥の中にいたとしても、凛と気品を保って咲き誇る蓮の花であれと、今は亡き父王やお妃さまから教えられている。

「おとなしそうな顔をして、気丈なもんだ」

 アフタルの顎に手をかけて、男が顔を近づける。酒臭い息に、気分が悪くなる。
 男の息と体臭に混じるのは、えた腐臭。
 空が暗くなるほどに多いカラス。その羽ばたきは、澱んだ空気をただかき混ぜるだけだ。

(ああ、ここは闘技場なのですね)

 サラーマ王国は闘技が盛んだ。現在では主に闘犬や、牛同士が争う闘牛だが。古代には人と猛獣を戦わせたり、人を争わせたりという見世物があった。
 どちらかが亡くなるまでが勝負。それは人と人の戦いでも同じこと。

「おい、急げよ」
「ああ、そうだな。もう時間だ」

 男たちはうなずきあうと、アフタルを肩に担いだ。まるで荷物のように。

「何をするのです。下ろしなさい」
「おいおい、我儘言わんでくれよな。下ろしたら逃げるんだろ? あんたの代金はもう貰っちまってんだ。こっちも金額分は働かないとな」

 ぐへへ、と下卑た笑いを洩らしながら、男は闘技場へと入っていく。

「最近は、なんでだか王家の取り締まりもゆるくてな。古代みたいに剣闘士も復活してよ。楽しみも増えたってもんよ」
「そうそう。この間の少年とライオンの戦いは良かったな。まぁ、ちぃと最期がえげつなかったが」
「吐いてる女もいたからな。まぁ、懐古主義っつうか、それも含めて風情ってもんだ」


 男たちはアフタルを担いだまま、闘技場の中へと入った。

 一度、闘技を見に来たことはある。二人の姉ヤフダとミトラ、そして弟ティルダードと一緒だった。
 あの時は王家専用の入り口と、観覧席だったが。男たちは薄汚れた通用門を入っていった。

 奥の広間に運命の女神、フォルトゥーナの像があった。右手に舵、左手に豊穣の角を持つ石像だ。女神の足元に、力なく座りこむ剣闘士たちが見えた。

「場違いな娘が来やがった」

 剣闘士はどろりとした目で、アフタルを一瞥する。戦いに倦んでいるが、戦わねば命がない……その疲労感が辺りの空気を重くしている。

「場違いじゃねぇぜ」

 ふんっ、とアフタルを担いだままの男が鼻息を荒くした。

「出し物が変更になったのさ。確か豹いたよな。あれを使うか」

 楽し気な男の言葉に、剣闘士たちに緊張が走った。
 皆、憐みの瞳でアフタルを見つめては、深いため息をつく。神に祈りを捧げる形に手を組む者もいる。

(わたくしが……見世物になるということなの?)

 絶望で目の前が暗くなる。

「その子には、ちゃんと扱えんだろうが。せめて盾と剣くらいは持たせてやってくれんか」
「はぁぁ? この女は剣奴けんどじゃねぇんだ。剣なんざ重くて、持ち上げることもできんだろうさ。ムダ、ムダ」

 アフタルは言葉もなかった。
 王家が隠蔽している、王の崩御について明らかにしろと脅されるのか。あるいは次代の王であるティルダードに関することだと思っていた。
 

(甘かったのですね。わたくしを殺すのが目的だったのですね)

 今日は人生で最悪の日だ。
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