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六章
1、帰ってきました
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高原の別荘を後にしたわたくし達は、高瀬家へと戻ってきました。
寒いくらいに涼しかった気候が嘘のように、じめっとした暑い空気に辺りは包まれています。
そうでした。海辺の街は湿気が多いんです。
空の色も高原のように澄みきった青ではなく、滲んだような水色です。日光の直射を恐れてか、重そうに垂れたヤツデの葉の陰で、蝶が翅を休めているのが見えました。
長い間、留守にしていた所為でしょうか。この家の時間が止まってしまったかのに、のっそりと澱んだ空気が満ちていました。
お清さんと銀司さんが、ぱたぱたと走りまわっています。
これまで風の入らなかった家の中は湿ったようなにおいがこもっていました。
けれど、雨戸と窓が次々と開かれた瞬間。風がいっせいに吹き込んできて、わたしの髪をなびかせました。
潮の香りの懐かしい匂い。ああ、そうです。帰ってきたんです。
「わたくしもお手伝いします」
「え? ぼくとお清さんで大丈夫ですよ」
銀司さんはそう仰いますが。まぁ、任せてください。
午後なのに仄暗い部屋に入り、縁側の雨戸に手をかけたのですが。動きません、ええびくともしないんです。
「うーん、うーん」
眉間にしわを寄せて、両手に力をこめるわたくしを応援するかのようにエリスが足下をうろうろと歩き回りました。けれどまったく進まない作業に焦れたのか、しなやかな尻尾を揺らしながら部屋のあちこちの匂いを嗅いでいます。
いきなり雨戸が軽くなり、わたくしが手を添えただけで全開になりました。
まぁ、すごいわ。いつの間にか力持ちになっていたみたいです。
「何を感動しているのかな?」
開いた窓から声をかけて来たのは旦那さまでした。静かな陽光に照らされて、上背のある輪郭が淡い金の色に縁どられています。
「いえ、軋んだ雨戸を簡単に開けられる腕力があるのなら、薪割りもできるかしらと思ったんです。うちでもお風呂に薪を使うでしょう?」
「そうか……夢は壊さないでいてあげるよ」
旦那さまと銀司さんが手分けをして、中からも外からも雨戸を開けていきます。
どこからか迷い込んできたのか、ヤモリが柱をのろのろと歩いていて。わたくしは「ひっ」と悲鳴を上げてしまいました。
即座にエリスがやってきて、ヤモリに飛びつこうとします。
「ああ、駄目ですって。でも、外に出さなくちゃ」とおろおろとしていると、沓脱石から縁側に上がってきた旦那さまが「はいはい」と左手でエリスを抱っこしつつ、右手でヤモリを掴んでお庭に出しました。
驚く様子でもなく、嫌がるでもなく、普通にですよ? エリスを小脇に抱えたまま、旦那さまは近くの木の葉にヤモリを置きました。
「離してよぉ」とばかりに、旦那さまの腕でもがいたり爪を立てたりするエリス。猫って車の振動は苦手でしょうし、長い距離の移動でしたのに。どうしてそんなに元気なのかしら。
「こら、やめろ。痛いって」
「ぶにゃーぁ」
「お前、品のない鳴き方をするなよ」
わたくしは唖然として、戦いを続ける旦那さまとエリスを眺めていました。
「え? 触れるんですか、ヤモリ」
「え? 触れると変なのか?」
逆に旦那さまに質問されてしまいました。首を傾げながら、旦那さまはやっぱりエリスを脇と腕の間に挟んだままで、井戸のポンプに呼び水を入れています。
しばらくレバーを押し続けると、最初に濁った水が溢れました。濁りが薄れ水が澄んでから、さっきヤモリを触った手を洗っていらっしゃいます。
水の飛沫がかかるのか、エリスは盛大に鳴いて文句を言っています。
エリスはなんとか引っ掻こうとしているのに、爪がシャツに触れそうになると器用に旦那さまは体を避けたり、エリスを持った腕を離したりで、彼女の前脚は空を掻くばかりです。
とうとう「シャーッ」と本気で怒ってしまいました。
「はいはい。お前の大好きな場所に戻してやるから、そう怒るんじゃない」
背中の毛を逆立てて尻尾をぴんと立てたエリスを、旦那さまがわたくしに手渡そうとなさいます。
困るんですけど。こんなに怒っているのに。
おろおろしながら、縁側でしゃがみ込み、ためらいつつ両手をさしだします。
わたくしの方をちらっと見たエリスは、とたんに尻尾をしゅんと下ろしました。
急にごろごろと喉を鳴らして、わたくしの胸に頭をすり寄せます。
それはまるで「ひどいのよー、いじわるされたのー」と訴えつつ甘えているかのようです。
「わーぁ、いいなぁ、エリス。俺も翠子さんに抱っこしてほしいよ」と、旦那さまが手拭いで濡れた手を拭きながら仰いますが。
あの、どうして棒読みみたいに話すんですか?
けれどエリスは得意げにあごを上げて、まだお庭にいる旦那さまを見下ろしています。
「まぁ、俺は大人だからな。今回は君に譲ってあげるよ」
あの、何をですか?
寒いくらいに涼しかった気候が嘘のように、じめっとした暑い空気に辺りは包まれています。
そうでした。海辺の街は湿気が多いんです。
空の色も高原のように澄みきった青ではなく、滲んだような水色です。日光の直射を恐れてか、重そうに垂れたヤツデの葉の陰で、蝶が翅を休めているのが見えました。
長い間、留守にしていた所為でしょうか。この家の時間が止まってしまったかのに、のっそりと澱んだ空気が満ちていました。
お清さんと銀司さんが、ぱたぱたと走りまわっています。
これまで風の入らなかった家の中は湿ったようなにおいがこもっていました。
けれど、雨戸と窓が次々と開かれた瞬間。風がいっせいに吹き込んできて、わたしの髪をなびかせました。
潮の香りの懐かしい匂い。ああ、そうです。帰ってきたんです。
「わたくしもお手伝いします」
「え? ぼくとお清さんで大丈夫ですよ」
銀司さんはそう仰いますが。まぁ、任せてください。
午後なのに仄暗い部屋に入り、縁側の雨戸に手をかけたのですが。動きません、ええびくともしないんです。
「うーん、うーん」
眉間にしわを寄せて、両手に力をこめるわたくしを応援するかのようにエリスが足下をうろうろと歩き回りました。けれどまったく進まない作業に焦れたのか、しなやかな尻尾を揺らしながら部屋のあちこちの匂いを嗅いでいます。
いきなり雨戸が軽くなり、わたくしが手を添えただけで全開になりました。
まぁ、すごいわ。いつの間にか力持ちになっていたみたいです。
「何を感動しているのかな?」
開いた窓から声をかけて来たのは旦那さまでした。静かな陽光に照らされて、上背のある輪郭が淡い金の色に縁どられています。
「いえ、軋んだ雨戸を簡単に開けられる腕力があるのなら、薪割りもできるかしらと思ったんです。うちでもお風呂に薪を使うでしょう?」
「そうか……夢は壊さないでいてあげるよ」
旦那さまと銀司さんが手分けをして、中からも外からも雨戸を開けていきます。
どこからか迷い込んできたのか、ヤモリが柱をのろのろと歩いていて。わたくしは「ひっ」と悲鳴を上げてしまいました。
即座にエリスがやってきて、ヤモリに飛びつこうとします。
「ああ、駄目ですって。でも、外に出さなくちゃ」とおろおろとしていると、沓脱石から縁側に上がってきた旦那さまが「はいはい」と左手でエリスを抱っこしつつ、右手でヤモリを掴んでお庭に出しました。
驚く様子でもなく、嫌がるでもなく、普通にですよ? エリスを小脇に抱えたまま、旦那さまは近くの木の葉にヤモリを置きました。
「離してよぉ」とばかりに、旦那さまの腕でもがいたり爪を立てたりするエリス。猫って車の振動は苦手でしょうし、長い距離の移動でしたのに。どうしてそんなに元気なのかしら。
「こら、やめろ。痛いって」
「ぶにゃーぁ」
「お前、品のない鳴き方をするなよ」
わたくしは唖然として、戦いを続ける旦那さまとエリスを眺めていました。
「え? 触れるんですか、ヤモリ」
「え? 触れると変なのか?」
逆に旦那さまに質問されてしまいました。首を傾げながら、旦那さまはやっぱりエリスを脇と腕の間に挟んだままで、井戸のポンプに呼び水を入れています。
しばらくレバーを押し続けると、最初に濁った水が溢れました。濁りが薄れ水が澄んでから、さっきヤモリを触った手を洗っていらっしゃいます。
水の飛沫がかかるのか、エリスは盛大に鳴いて文句を言っています。
エリスはなんとか引っ掻こうとしているのに、爪がシャツに触れそうになると器用に旦那さまは体を避けたり、エリスを持った腕を離したりで、彼女の前脚は空を掻くばかりです。
とうとう「シャーッ」と本気で怒ってしまいました。
「はいはい。お前の大好きな場所に戻してやるから、そう怒るんじゃない」
背中の毛を逆立てて尻尾をぴんと立てたエリスを、旦那さまがわたくしに手渡そうとなさいます。
困るんですけど。こんなに怒っているのに。
おろおろしながら、縁側でしゃがみ込み、ためらいつつ両手をさしだします。
わたくしの方をちらっと見たエリスは、とたんに尻尾をしゅんと下ろしました。
急にごろごろと喉を鳴らして、わたくしの胸に頭をすり寄せます。
それはまるで「ひどいのよー、いじわるされたのー」と訴えつつ甘えているかのようです。
「わーぁ、いいなぁ、エリス。俺も翠子さんに抱っこしてほしいよ」と、旦那さまが手拭いで濡れた手を拭きながら仰いますが。
あの、どうして棒読みみたいに話すんですか?
けれどエリスは得意げにあごを上げて、まだお庭にいる旦那さまを見下ろしています。
「まぁ、俺は大人だからな。今回は君に譲ってあげるよ」
あの、何をですか?
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