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四章
41、下宿時代の思い出【4】
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林檎を食べていた琥太兄は、ふと手を止めた。
「そうや」と何かを思いついたように立ち上がり、隣の自分の部屋へと戻る。
ようやく帰る気になったか。
ほっと息をついたのも束の間。一分も経たぬ間に、琥太兄は戻ってきた。
「廊下は寒いなぁ。私の部屋も冷えきっとったわ」
「待て待て。寒いからって、俺のところに居座る気か?」
「いややわぁ。そんな無粋なことはせぇへんって」
琥太兄は手になぜか焼き網を持っていた。
「ふんふふふふーん」と鼻歌を歌いながら、それを当然のように火鉢の上に置く。
何を焼くつもりだろうか。とくに餅とかを持参しているわけでもない。
魚の干物……あれは勘弁してくれ。部屋に魚のにおいがこもる。
じーっと見据えていると、琥太兄が「いややわぁ」と目を細めた。
「そんなに見つめられたら、兄ちゃん恥ずかしいやん」
「見つめてるんじゃなくて、見据えてるんだが」
「まぁまぁ、欧之丞にも分けたるからな。ちょーっと待っとき」
そう言うと琥太兄は、ウサギ林檎を焼き網の上に載せた。
一つずつ丁寧に。
「え? 何をしてるんだ」
「焼き林檎」
焼き林檎って、絲おばさんに作ってもらって、少しだけ食べたことがあるが。そんなんだったか?
確か丸ごと焼いてあって……というかそういう意味の焼くとは違う気がするんだが。
「んー、ニッキが欲しいなぁ。欧之丞、八ッ橋持ってない?」
「八ッ橋って菓子の? 硬くて甘い煎餅みたいな?」
「せやで。あれ、ニッキが入ってるやろ。まぁ、欧之丞は甘いもん食べへんから、持ってるわけないか」
「しゃあないな。我慢しよ」と呟きながら、琥太兄はウサギ林檎を焼いている。
なかなかにシュールな光景だ。
しばらくして琥太兄は、皮が変色して耳がしなびたウサギ林檎をひとくち齧った。
「あかん。思てたのんとちゃう」
「明らかに作業工程が違うと思うけど」
「うーん。兄ちゃんはお洒落がしたかったんやけどな。これはただの、ぬくい林檎や」
腕を組んで唸る琥太兄を、俺は一瞥した。
「責任をもって全部食えよ」
「うーん。欧之丞、半分やるわ」
「いらん」
「もーぉ、遠慮して。あかんで、兄ちゃんに遠慮なんかしたら」
琥太兄は、網目に焼き色のついたウサギ林檎を手にして俺の口に入れさせた。
意地でも口を開くまいと思ったのに。
あんの野郎、俺の脇腹をくすぐったんだ。
「ひっ」
「よっしゃ、隙あり」
口の中にねじ込まれる、生ぬるい林檎。しなびて丸まったウサギの耳部分。
一度口に入れた物は出したらいけない。
ああ、こんなところで行儀の良さが出るとは、己が憎らしい。
頼むから、誰かこいつを……傍若無人な男を何とかしてくれ。
「ええ匂いがしてるけど。何してはるんですか?」と、半開きになった扉から下宿人が覗いてくる。
俺は琥太兄から逃れようと、その学生に手をのばした。
だが琥太兄は馬鹿だから。「調教やで」と平然と言い放ったんだ。
下宿人は笑顔をこわばらせて「あー、ご無事を祈ってます」と扉を閉めた。
パタン、という音。わずかな希望が、はかなく消えていく。
やめろ。俺を置いていくな。
この馬鹿をなんとかしろ。
結局俺は「助けて……」と言いながら、妙な甘さになった生ぬるい林檎を食わされる羽目になった。
「そうや」と何かを思いついたように立ち上がり、隣の自分の部屋へと戻る。
ようやく帰る気になったか。
ほっと息をついたのも束の間。一分も経たぬ間に、琥太兄は戻ってきた。
「廊下は寒いなぁ。私の部屋も冷えきっとったわ」
「待て待て。寒いからって、俺のところに居座る気か?」
「いややわぁ。そんな無粋なことはせぇへんって」
琥太兄は手になぜか焼き網を持っていた。
「ふんふふふふーん」と鼻歌を歌いながら、それを当然のように火鉢の上に置く。
何を焼くつもりだろうか。とくに餅とかを持参しているわけでもない。
魚の干物……あれは勘弁してくれ。部屋に魚のにおいがこもる。
じーっと見据えていると、琥太兄が「いややわぁ」と目を細めた。
「そんなに見つめられたら、兄ちゃん恥ずかしいやん」
「見つめてるんじゃなくて、見据えてるんだが」
「まぁまぁ、欧之丞にも分けたるからな。ちょーっと待っとき」
そう言うと琥太兄は、ウサギ林檎を焼き網の上に載せた。
一つずつ丁寧に。
「え? 何をしてるんだ」
「焼き林檎」
焼き林檎って、絲おばさんに作ってもらって、少しだけ食べたことがあるが。そんなんだったか?
確か丸ごと焼いてあって……というかそういう意味の焼くとは違う気がするんだが。
「んー、ニッキが欲しいなぁ。欧之丞、八ッ橋持ってない?」
「八ッ橋って菓子の? 硬くて甘い煎餅みたいな?」
「せやで。あれ、ニッキが入ってるやろ。まぁ、欧之丞は甘いもん食べへんから、持ってるわけないか」
「しゃあないな。我慢しよ」と呟きながら、琥太兄はウサギ林檎を焼いている。
なかなかにシュールな光景だ。
しばらくして琥太兄は、皮が変色して耳がしなびたウサギ林檎をひとくち齧った。
「あかん。思てたのんとちゃう」
「明らかに作業工程が違うと思うけど」
「うーん。兄ちゃんはお洒落がしたかったんやけどな。これはただの、ぬくい林檎や」
腕を組んで唸る琥太兄を、俺は一瞥した。
「責任をもって全部食えよ」
「うーん。欧之丞、半分やるわ」
「いらん」
「もーぉ、遠慮して。あかんで、兄ちゃんに遠慮なんかしたら」
琥太兄は、網目に焼き色のついたウサギ林檎を手にして俺の口に入れさせた。
意地でも口を開くまいと思ったのに。
あんの野郎、俺の脇腹をくすぐったんだ。
「ひっ」
「よっしゃ、隙あり」
口の中にねじ込まれる、生ぬるい林檎。しなびて丸まったウサギの耳部分。
一度口に入れた物は出したらいけない。
ああ、こんなところで行儀の良さが出るとは、己が憎らしい。
頼むから、誰かこいつを……傍若無人な男を何とかしてくれ。
「ええ匂いがしてるけど。何してはるんですか?」と、半開きになった扉から下宿人が覗いてくる。
俺は琥太兄から逃れようと、その学生に手をのばした。
だが琥太兄は馬鹿だから。「調教やで」と平然と言い放ったんだ。
下宿人は笑顔をこわばらせて「あー、ご無事を祈ってます」と扉を閉めた。
パタン、という音。わずかな希望が、はかなく消えていく。
やめろ。俺を置いていくな。
この馬鹿をなんとかしろ。
結局俺は「助けて……」と言いながら、妙な甘さになった生ぬるい林檎を食わされる羽目になった。
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