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四章

8、忘れていたの【2】※文子視点

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 琥太郎さんは「ごめんな」と謝ってくれた。
 それでも決まりが悪いのか、左の指で頬を掻いている。右手はわたしの半袖を掴んだまま。
 
 でも、別に悪いことをしたわけじゃないの。単にあなたは聡い人ってだけだもの。
 
「なんやろ。人に嫌われるのを怖いと思ったことはないけど。前にも言うたけど、私は文子さんに嫌われるんが怖いんや」
「嫌ってなんかないです」

 勢い込んでいうと、琥太郎さんはへにゃっと珍しく情けない笑みを浮かべた。
 情けないというか、今にも泣きだしそうというか。

「私は、大人が多い環境で育ってきたから。利発とか聡い子ぉとか周囲に言われてきたけど。実際はそんなことはないねん」
「琥太郎さん?」
「子どもの頃は、思い上がっとったんやな。自分は何でも知っとうって。相手の考えは読めても、それにどう対応してええんか分からへん」

 わたし達が立ち止まっている間に、他のお客さんがホテルのエントランスから中へと入っていった。
 喧嘩しているわけでもないし、大声で話しているわけでもないから。
 お客さんもドアボーイも特に気にしない。もしかしたら、気にしないように振る舞ってくれているのかしら。

「私は多分、これからも失敗すると思う。文子さんの機嫌を損ねることもあると思う。実際、翠子さんは私の所為で苦手意識を抱いてしもとうから」

 確かに、翠子さんは琥太郎さんに対して一定の距離を保っているわ。
 それに、彼が翠子さんに関わろうとしたら、高瀬先生が間に入るもの。翠子さんも先生の背中から出てこないし。

 琥太郎さん。あなた、翠子さんをどれだけ揶揄からかったの?

「翠子さんに関しては、わたしだって怒りますよ」
「あー」

 琥太郎さんが何か言葉を飲み込んだ。
 別段聡くはないわたしにだって、分かるのよ。「ほんまに文子さんは、翠子さんが一番なんやなぁ」って。

「ほんまに文子さんは、翠子さんが一番なんやなぁ」

 ほら、思った通り。
 でも、琥太郎さんの話には続きがあった。

「私もその一番の中の一人にならせてもらえるやろか?」

 そうして、わたしの袖から指を離したと思うと。今度は手を持ち上げて、わたしの手の甲にキスしたの。

 一瞬、時が止まったかと思った。
 エントランスから出てくる紳士とご婦人も、ドアボーイも目を丸くして立ち止まっている。

 わたしもきっと目がまん丸になっているわ。

「い、いちばんは、その」
「一番が複数でもええやろ? ええって言うてくれたら、キスはやめるで」

 なに、それ脅迫っ。
 ほんと琥太郎さんって我儘。高瀬先生だけじゃなくって、わたしまでその我儘に巻き込まれてしまっているの。

 再び、琥太郎さんがわたしの手を持ち上げる。
 だめっ。見られちゃう。

「いいですから。琥太郎さんは一番の中の一人です」
「一番の中というか、同率で一位にしといて」

 もう、同じじゃないですか。わたしは顔が真っ赤になるのを感じた。
 だって、手の甲にキスは中断したけれど。わたしの手を握ったまま離してくれないんだもの。

「ほな、明日には日記の宿題をしよか」
「でも、どう書いたらいいのかしら。それに天気や気温のことも」
「ん? 家族で避暑地に来てるて書いたらええやん」

「家族」と、琥太郎さんはさらりと言った。
 わたしには分かるの。それは詭弁じゃなくて、将来琥太郎さんとわたしが家族になるから。
 わたしがちゃんとお見合いの返事をしたら、彼の妻になるから。

「それから、しょーもない天気や気温は他人に任せたらええねん。些末なことやろ」
「はぁ……」

 琥太郎さんは真面目なのか不真面目なのか、分からなくなるわ。
 はっ、これもまた彼に翻弄されているのかしら。
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