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四章

4、二樂荘【4】

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 二樂荘の来館者は他にもいたが、図書館の利用者は俺達だけだった。
 まぁ、そうだよな。普通は遊びに来るところだ。

 深山さんと対面の席に座りながら、俺は横目で翠子さんを見遣った。
 ああ、またそんな風に感覚で訳して。
 あなたは基礎が出来ていないんだから、ちゃんと調べなさい。
 辞書を使わずともいいのは、土台がしっかりしている人だけだよ。

 翠子さんを見ていると、きりきりと胃が痛くなりそうだ。しかも琥太兄が呑気に付き合ってくれているものだから、申し訳なくなる。

 うちの娘が済みません、くらいの気持ちだろうか。
 実際は婚約者であり、生徒なんだが。

 そして俺の目の前にいる深山さんも、なかなかに手強い。
 普段、君は翠子さんに宿題を写させてもらっているんだろうな。
 課題の提出物は、しっかりと解けているのにな。
 どうして宿題で解けている問題で、つまずくんだ?

 深山さんは、ちらっと翠子さんに目を向けて。そして、手を伸ばそうとした。

「あかんで、文子さん。訊くんやったら欧之丞がおるやろ」

 静かだが厳しい声で琥太兄がたしなめる。
 深山さんは、翠子さんの腕をつつこうとしていた指を戻し、しゅんと肩を落とした。

 ちょっとびっくりした。いや、かなりかもしれない。

 琥太兄は、深山さんを甘やかしているものだとばかり思っていたから。
 深山さんは意を決して俺を見据え「ここが分かりません。教えてください、高瀬先生」と頭を下げた。
 切り揃えた黒髪が、さらりと揺れる。

 なんだ? 君、学校にいる時よりも素直なんじゃないのか?

 そして翠子さんも「ひーぃ」というような、怖さを我慢したような表情を浮かべながら「こ、琥太郎さん。お願いします」と頭を下げたのだ。

 ああ、なんと健気な。
 俺はほろりと涙をこぼしそうになった。

 あんなにも文系科目が苦手なあなたが、しかも超がつくほど苦手な琥太兄に教えを請うだなんて。
 いじらしくて、今すぐ頭を撫でてやりたくなる。
 というか俺はすでに立ち上がっていた。

「ん? どうしたんや、欧之丞」
「いや、何でもない」

 にやにやしながら俺を見遣る琥太兄。
 これはばれているな。俺は咳払いをしながら、再び椅子に座った。

◇◇◇

 琥太郎さんは苦手なんですが。教え方はとてもお上手でした。
 だって、これまで小難しい漢字とちっちゃなカタカナの集合体でしかなかった文章が、読めるんですよ。

「ほら、この問題見てみ。送り仮名がないやろ? こういう場合は、近くに似た形の文があるんや。対句っていうんやで。それをお手本にして、おんなじ返り点をつけたら……ほら、出来上がり」
「まぁ、すごいわ。わたくし、この手の問題はいつも解けなかったのに」
「簡単なんやで? 一回覚えてしもたら、今度の試験ではええ点がとれるで」

 すごいわ。まるで自分がお利口になったみたい。
 旦那さまに数学を教えていただいた時も、とても賢くなった気がしたんですけど。
 さらにレベルが上がりそう。

「わたくし、落第しなくて済みそうです」
「そら、よかったなぁ。お役に立てて嬉しいわ」

 ふっと琥太郎さんが視線を横にずらしました。ほんの一瞬だったのですけど。その瞳に文子さんが映るのが分かったんです。

 文子さんは頭を抱え、うんうんと唸りながらも(ええ、とても数学がお嫌いなの)計算を繰り返していました。
 琥太郎さんは、その様子をご覧になって微笑みます。

 視線に気づいたのでしょうか。文子さんは琥太郎さんをちらっと見ると、頬を赤らめて間違った式を消しゴムで消しました。

「深山さん。消しゴムは使わない方がいい。どこで間違えたのが、どう間違えたのか見直せなくなるからな」

 旦那さまは、すでに高瀬先生に戻っていらっしゃいます。
 そういえば夏休みになってから、教壇に立つ姿をお見かけしていません。
 少し懐かしいかも。

 黙々と課題をこなしたので、存外早く宿題を終えることが出来ました。

「文子さん」
「翠子さん」

 わたくし達、やればできるのよ。ええ、そうなの。二人とも頑張ったわ。
 ほとんど言葉を交わすことなく、わたくしと文子さんは互いに抱き合いました。

「はいはい。えらかったから。二人とも離れなさい」
「いやですー、文子さぁん」
「邪魔しないでよ、先生」

 旦那さまったら、眉根を寄せてわたくしと文子さんを引き剥がそうとするんです。どうしてそんな意地悪をなさるの?

「君たち、エスの関係に憧れてるのか? 男なんて汚らわしいわ、とか言って、俺を避けるんじゃないだろうな」
「その手があったわね。ね、翠子さん。ホテルのわたしのお部屋で一緒に泊まらない?」
「……それ、冗談で済まないからな」
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