123 / 194
三章
48、夕暮れのお風呂
しおりを挟む
翠子さんが、しょんぼりと沈み込んでしまった。
俺は教師なのだが。そんなに真面目ではない。
むしろ、琥太兄の方がきちんと勉強に取り組んで、期日までに仕上げて成果を出すことに重きを置いている。
しかし翠子さんが、他の教師から責められては可哀想だし。やはり彼女を引き取った事情を知っている校長に「後見人として、ちゃんと指導しなさい」と説教されるのも困る。
夕暮れの風呂場は明るく、翠子さんは髪をまとめて湯に浸かっていた。
ぷくぷく、と風呂の湯面にあぶくが浮かんでは消える。
見れば、翠子さんが手拭いに空気を含ませて、クラゲのように丸くしては押しつぶしている。
愛らしいその口は、への字に結ばれ。眉は下がり気味だ。
「わたくし、お勉強しに別荘に来たのではないの」
「まぁ、そうだが」
そもそもたいして勉強をした記憶もないが。
俺は湯から上がると、湯船に入ったままの翠子さんに背中を向かせる。
「文子さんは、琥太郎さんのことがお好きだから。しょうがないのだけれど」
「うん、まぁなぁ」
どちらかというと、琥太兄の方が深山さんのことを好きなんだよな。
俺が翠子さんを主体に考えるというか、翠子さんが喜びそうなことをしてやりたいと思うように、琥太兄も深山さんのことを考えているんだろう。
琥太兄のことは昔から知っているが。あんな風に誰かを……いや、家族や俺以外の人を優しい目で見つめる姿は、これまでなかったことだ。
――なんで誰彼構わず、付き合うんか? やって?
うーん、欧之丞には難しいかなぁ。
俺は、大学に通っていた頃のことを思い出していた。
琥太兄は、確か『麗しの君』と呼ばれていたんだよな。無論、むさ苦しい学生の間ではなく、女学校の生徒や近くのカフェーの女給たちに。
そして俺は琥太兄と対で『恐ろしの君』と、陰で呼ばれていた。
ああいうのは、隠していても伝わるんだ。
――お嬢さん達が勇気を出して告白して来るんやから。そんな無碍に断らんでもええやんか。欧之丞は、女嫌いなんか?
――別にそういうわけではない。だが、女と付き合うとか面倒だ。
琥太兄はにっこりと微笑みながら「どうせ女の子らは、親の決めた相手と結婚するんやさかい。ほんのひとときのアバンチュールってヤツやろ?」
なんで文科甲類なのに、英語じゃなくてフランス語なんだよ。
詰襟の学生服を着ていた俺は、やれやれと肩をすくめた。
琥太兄は蒼一郎おじさん……琥太兄のお父さんみたいに大事な人一筋というわけではなく、言い寄って来る女性なら先着順で付き合っていた。
そしていつも「あなたは優しいのに、わたしのことを本気で好きではないんだわ」と女性に責められる。
多分女性の方は「そんなことはない、君しかいない」と引き留めて欲しかったのだろうが。
琥太兄は「ほな、君を本気で好きな人と付き合うたらええ」と、あっさりと別れるのだ。
しかも「楽しかったで。元気でな、幸せになりや。応援するわ」と笑顔を見せて。
誰にも興味のなかった琥太兄やけど。深山さんだけは「幸せになりや、応援するわ」などと手離したりはしないのだろう。
ガキの頃から琥太兄と付き合ってきたけど。あんな執着を見せられるのも、あんな柔らかな表情を浮かべるのも、初めてだ。
「……お勉強します。でも、明日一日だけよ? 明日ですべての宿題を終わらせるから。高瀬先生、付き合ってくださいます?」
「いいよ」
なんとかご機嫌の治った翠子さんの髪の泡を、湯で流しながら。俺は微笑んだ。
だがなぁ。君が残している宿題は英語と古文、漢文じゃなかったかな? 俺が指導した数学や理科の科目は、すでに全部終えているんだよな。
あと考えたくはないが。日誌を書いていないんじゃないだろうか。
今更、夏季休暇の日誌を全部書いていないと言われたら……俺は頭を抱えるぞ。
俺は教師なのだが。そんなに真面目ではない。
むしろ、琥太兄の方がきちんと勉強に取り組んで、期日までに仕上げて成果を出すことに重きを置いている。
しかし翠子さんが、他の教師から責められては可哀想だし。やはり彼女を引き取った事情を知っている校長に「後見人として、ちゃんと指導しなさい」と説教されるのも困る。
夕暮れの風呂場は明るく、翠子さんは髪をまとめて湯に浸かっていた。
ぷくぷく、と風呂の湯面にあぶくが浮かんでは消える。
見れば、翠子さんが手拭いに空気を含ませて、クラゲのように丸くしては押しつぶしている。
愛らしいその口は、への字に結ばれ。眉は下がり気味だ。
「わたくし、お勉強しに別荘に来たのではないの」
「まぁ、そうだが」
そもそもたいして勉強をした記憶もないが。
俺は湯から上がると、湯船に入ったままの翠子さんに背中を向かせる。
「文子さんは、琥太郎さんのことがお好きだから。しょうがないのだけれど」
「うん、まぁなぁ」
どちらかというと、琥太兄の方が深山さんのことを好きなんだよな。
俺が翠子さんを主体に考えるというか、翠子さんが喜びそうなことをしてやりたいと思うように、琥太兄も深山さんのことを考えているんだろう。
琥太兄のことは昔から知っているが。あんな風に誰かを……いや、家族や俺以外の人を優しい目で見つめる姿は、これまでなかったことだ。
――なんで誰彼構わず、付き合うんか? やって?
うーん、欧之丞には難しいかなぁ。
俺は、大学に通っていた頃のことを思い出していた。
琥太兄は、確か『麗しの君』と呼ばれていたんだよな。無論、むさ苦しい学生の間ではなく、女学校の生徒や近くのカフェーの女給たちに。
そして俺は琥太兄と対で『恐ろしの君』と、陰で呼ばれていた。
ああいうのは、隠していても伝わるんだ。
――お嬢さん達が勇気を出して告白して来るんやから。そんな無碍に断らんでもええやんか。欧之丞は、女嫌いなんか?
――別にそういうわけではない。だが、女と付き合うとか面倒だ。
琥太兄はにっこりと微笑みながら「どうせ女の子らは、親の決めた相手と結婚するんやさかい。ほんのひとときのアバンチュールってヤツやろ?」
なんで文科甲類なのに、英語じゃなくてフランス語なんだよ。
詰襟の学生服を着ていた俺は、やれやれと肩をすくめた。
琥太兄は蒼一郎おじさん……琥太兄のお父さんみたいに大事な人一筋というわけではなく、言い寄って来る女性なら先着順で付き合っていた。
そしていつも「あなたは優しいのに、わたしのことを本気で好きではないんだわ」と女性に責められる。
多分女性の方は「そんなことはない、君しかいない」と引き留めて欲しかったのだろうが。
琥太兄は「ほな、君を本気で好きな人と付き合うたらええ」と、あっさりと別れるのだ。
しかも「楽しかったで。元気でな、幸せになりや。応援するわ」と笑顔を見せて。
誰にも興味のなかった琥太兄やけど。深山さんだけは「幸せになりや、応援するわ」などと手離したりはしないのだろう。
ガキの頃から琥太兄と付き合ってきたけど。あんな執着を見せられるのも、あんな柔らかな表情を浮かべるのも、初めてだ。
「……お勉強します。でも、明日一日だけよ? 明日ですべての宿題を終わらせるから。高瀬先生、付き合ってくださいます?」
「いいよ」
なんとかご機嫌の治った翠子さんの髪の泡を、湯で流しながら。俺は微笑んだ。
だがなぁ。君が残している宿題は英語と古文、漢文じゃなかったかな? 俺が指導した数学や理科の科目は、すでに全部終えているんだよな。
あと考えたくはないが。日誌を書いていないんじゃないだろうか。
今更、夏季休暇の日誌を全部書いていないと言われたら……俺は頭を抱えるぞ。
0
お気に入りに追加
449
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R18】黒髪メガネのサラリーマンに監禁された話。
猫足02
恋愛
ある日、大学の帰り道に誘拐された美琴は、そのまま犯人のマンションに監禁されてしまう。
『ずっと君を見てたんだ。君だけを愛してる』
一度コンビニで見かけただけの、端正な顔立ちの男。一見犯罪とは無縁そうな彼は、狂っていた。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
【完結】お義父様と義弟の溺愛が凄すぎる件
百合蝶
恋愛
お母様の再婚でロバーニ・サクチュアリ伯爵の義娘になったアリサ(8歳)。
そこには2歳年下のアレク(6歳)がいた。
いつもツンツンしていて、愛想が悪いが(実話・・・アリサをーーー。)
それに引き替え、ロバーニ義父様はとても、いや異常にアリサに構いたがる!
いいんだけど触りすぎ。
お母様も呆れからの憎しみも・・・
溺愛義父様とツンツンアレクに愛されるアリサ。
デビュタントからアリサを気になる、アイザック殿下が現れーーーーー。
アリサはの気持ちは・・・。
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる