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三章

48、夕暮れのお風呂

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 翠子さんが、しょんぼりと沈み込んでしまった。
 俺は教師なのだが。そんなに真面目ではない。

 むしろ、琥太兄の方がきちんと勉強に取り組んで、期日までに仕上げて成果を出すことに重きを置いている。

 しかし翠子さんが、他の教師から責められては可哀想だし。やはり彼女を引き取った事情を知っている校長に「後見人として、ちゃんと指導しなさい」と説教されるのも困る。

 夕暮れの風呂場は明るく、翠子さんは髪をまとめて湯に浸かっていた。

 ぷくぷく、と風呂の湯面にあぶくが浮かんでは消える。
 見れば、翠子さんが手拭いに空気を含ませて、クラゲのように丸くしては押しつぶしている。

 愛らしいその口は、への字に結ばれ。眉は下がり気味だ。

「わたくし、お勉強しに別荘に来たのではないの」
「まぁ、そうだが」

 そもそもたいして勉強をした記憶もないが。
 俺は湯から上がると、湯船に入ったままの翠子さんに背中を向かせる。

「文子さんは、琥太郎さんのことがお好きだから。しょうがないのだけれど」
「うん、まぁなぁ」

 どちらかというと、琥太兄の方が深山さんのことを好きなんだよな。
 俺が翠子さんを主体に考えるというか、翠子さんが喜びそうなことをしてやりたいと思うように、琥太兄も深山さんのことを考えているんだろう。

 琥太兄のことは昔から知っているが。あんな風に誰かを……いや、家族や俺以外の人を優しい目で見つめる姿は、これまでなかったことだ。

――なんで誰彼構わず、付き合うんか? やって?
  うーん、欧之丞には難しいかなぁ。

 俺は、大学に通っていた頃のことを思い出していた。
 琥太兄は、確か『麗しの君』と呼ばれていたんだよな。無論、むさ苦しい学生の間ではなく、女学校の生徒や近くのカフェーの女給たちに。

 そして俺は琥太兄と対で『恐ろしの君』と、陰で呼ばれていた。
 ああいうのは、隠していても伝わるんだ。

――お嬢さん達が勇気を出して告白して来るんやから。そんな無碍に断らんでもええやんか。欧之丞は、女嫌いなんか?
――別にそういうわけではない。だが、女と付き合うとか面倒だ。

 琥太兄はにっこりと微笑みながら「どうせ女の子らは、親の決めた相手と結婚するんやさかい。ほんのひとときのアバンチュールってヤツやろ?」

 なんで文科甲類なのに、英語じゃなくてフランス語なんだよ。
 詰襟の学生服を着ていた俺は、やれやれと肩をすくめた。

 琥太兄は蒼一郎おじさん……琥太兄のお父さんみたいに大事な人一筋というわけではなく、言い寄って来る女性なら先着順で付き合っていた。
 そしていつも「あなたは優しいのに、わたしのことを本気で好きではないんだわ」と女性に責められる。

 多分女性の方は「そんなことはない、君しかいない」と引き留めて欲しかったのだろうが。
 琥太兄は「ほな、君を本気で好きな人と付き合うたらええ」と、あっさりと別れるのだ。
 しかも「楽しかったで。元気でな、幸せになりや。応援するわ」と笑顔を見せて。

 誰にも興味のなかった琥太兄やけど。深山さんだけは「幸せになりや、応援するわ」などと手離したりはしないのだろう。

 ガキの頃から琥太兄と付き合ってきたけど。あんな執着を見せられるのも、あんな柔らかな表情を浮かべるのも、初めてだ。

「……お勉強します。でも、明日一日だけよ? 明日ですべての宿題を終わらせるから。高瀬先生、付き合ってくださいます?」
「いいよ」

 なんとかご機嫌の治った翠子さんの髪の泡を、湯で流しながら。俺は微笑んだ。
 
 だがなぁ。君が残している宿題は英語と古文、漢文じゃなかったかな? 俺が指導した数学や理科の科目は、すでに全部終えているんだよな。

 あと考えたくはないが。日誌を書いていないんじゃないだろうか。
 今更、夏季休暇の日誌を全部書いていないと言われたら……俺は頭を抱えるぞ。
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