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一章

17、朝風呂【1】

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 離れの風呂に併設してある脱衣所で、俺は翠子さんを下ろした。
 木の匂いがかぐわしい風呂だ。

 彼女の帯紐をするりと解くと今更なのに恥じらって、背中を向ける。

「いい加減に慣れたら?」

 翠子さんはふるふると首を振るだけで、答えはしない。

 その細い背中にも腰にも、そして腿の辺りにも俺のつけたくちづけの痕が、花びらの様に散っている。
 
「み、見ないでください。恥ずかしいです」
「俺は、あなたよりもあなたの体に詳しいけど?」
「……仰らないで」

 今にも消え入りそうな声で、翠子さんは呟いた。俺が脱がせた寝間着で、今も体の前面を隠している。
 こんな時は、さすがに意地悪はしないし、できない。
 
「先に入っているから。後から来なさい」

 俺はそう言って、風呂の戸を開けた。

◇◇◇

 脱衣所は存外明るくて、二の腕の内側にも、胸の膨らみにも、お腹や下腹部にも、そして腿と腿の間にも散らされた、南国の花びらのような痣が嫌でも目に入りました。

 旦那さまに愛されることは嫌いではないのです。
 でも、やっぱり明るいところでその痕を見ると、もう恥ずかしくてなりません。

 夜の気配を、今もこの体はまとっているようで。
 とうてい口に出しては言えませんけど。今もなお、旦那さまの気配が体の奥に残っているように思えるのです。

 手ぬぐいを胸の辺りから垂らして、わたくしは浴室へと入りました。

 まぁぁ。なんて美しいんでしょう。
 さっきの羞恥もどこへやら、わたくしは辺りを見回しました。ええ、浴室自体は華美でも何でもないんです。
 でも、壁の二面が大きな窓になっており、今は両方とも開かれています。
 
 霧が晴れてきたのでしょうか。木々の緑も白樺のひらりと樹皮の剥がれかけた幹も、はっきりと見えます。
 風が浅みどりの葉を揺らすと、さわさわと涼しい音が立ちます。
 この時季、まちなかではもう聞くことのできない鶯も、森では高らかにさえずっています。

 しかも木々の隙間から、湖が見えているんです。碧玉のような澄んだ湖面が、それはそれは美しくて。

「翠子さん。素っ裸で恥ずかしくないのか?」
「え? きゃあっ!」

 なんということでしょう。いつの間にか、手拭いが床に落ちておりました。
 いけません。ついお風呂からの眺めに見とれて、はしたないことをしてしまいました。

 高瀬邸よりも浴槽は小さいですけど、二人で入っても狭くはなさそうです。

「いいですね。素敵なお風呂です」
「笠井家の別荘はどうだったんだ?」
「猫脚の浴槽が、専用の部屋に置いてありましたよ。眺めがいいわけでもなかったですし、お風呂が素敵だと思ったこともありませんでした」

「ふーん。実用第一なんだな」

 なにやら旦那さまが、心ここにあらずという喋り方です。「どうなさったんですか」と問いかけると「俺も眺めがいい方が好きだ」と仰るんです。
 それも、にやにやしながら。
 その眺めって、外の風景ではないですよね。
 
 もう、人の失敗を楽しまないでください。わたくしは手拭いで体を隠しました。
 
 朝の清らかな光が、湯の面でゆらゆらと揺らめいて。その反射した光が、こげ茶色の天井を柔らかく照らしています。

「朝風呂なんて贅沢ですね」
「そうだな。こっちへおいで、翠子さん」

 先にお湯に入っていらっしゃる旦那さまに手招きされて、わたくしは掛け湯をして湯舟に入りました。
 普段よりも少し熱めなのは、外気が下界よりもずいぶんと涼しいからでしょうか。銀司さんが気を利かせてくれたのですね。

「後でパンを買いに行くように、お清に頼まれているんだ」
「わたくしもご一緒していいですか?」
「一緒に行かないという選択肢はないぞ」

 それもそうですね。

「あなたは俺の手の届く範囲にいなさい。まったくここ最近は、一人で学校に行っていたものだから……」
「行っていたから、なんですか?」
「いや、別に」

 旦那さまは口ごもると、わざとらしく咳払いをなさいました。

 あらまぁ、旦那さまったら。お一人で仕事に行ったのが、よほど寂しかったのでしょうか。
 甘えるなんて、可愛らしいこと。
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