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一章

5、散歩【1】

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 風が出てきたのか、窓ガラスがかたかたと音を立てています。そして木の葉の揺れる音も。高瀬家の庭よりも木々が多いので、葉のざわめきがよく聞こえます。

「えっと、その。わたくしを抱っこしたいのですか?」
「正確には抱きたいね」

 旦那さまは、わたくしを引き寄せると腕の中に閉じ込めました。

「だが別荘に来たばかりで、することも多いし。あなたも長距離の移動で疲れているだろう」
「え、ええ」
「だから夜まで我慢するよ」

 頬と耳にキスを降らせながら、旦那さまが耳元で囁きます。その低い声は、背筋や腰の辺りを甘く痺れさせます。

「あなたは『早くに言ってほしい』と言っていたから。だから、先に予約を入れさせてもらう。いいね」
「は……はい」

 わたくしは、くちごもってしまいました。
 これまで強引に抱かれることも、何度かありました。ええ、強引でしたら流されてしまうのです。
 でも、こうしてわたくしの意思を改めて確認されると。
 何と申しますか……その。

「翠子さん。顔が真っ赤だよ」
「し、知っています」
「自分では見えないのに?」

 わたくし腕の中に閉じ込めたままで、旦那さまが口の端を上げました。
 窓の外、カラマツの細い葉が、風に吹かれてさらさらと音を立てています。
 こんなきれいな場所でも、旦那さまは意地悪を仰います。

 でも、本当は分かっているんです。
 わたくしをからかったり、意地悪を言うことで、旦那さまなりに緊張をほぐそうとなさっていることを。

「散歩にでも行こうか。服はまぁ、後で片づければいいだろう」

 旦那さまは書斎につながる寝室を覗くと「エリスはよく眠っているから、二人で行こう」と仰いました。
 
 階段を下りてお清さんたちに声をかけ、外に出ます。
 玄関の扉を開けると、いつもの海の匂いではなく、緑深い森の香りが立ちこめています。

「この辺りは別荘が少ないんですね」
「そうだな。少し歩けば別荘と店があるが。夜は静かだぞ。フクロウの鳴く声も聞こえる」
「素敵ですね」

「はて?」という風に、旦那さまは首をかしげました。

「翠子さん。フクロウの鳴き声を聞いたことがあるのか?」
「ないですよ。でも森の賢者と異名があるのでしょう?」
「そうか……」
 
 旦那さまと並んで歩いていると、微かに指先が触れました。車の中では恥ずかしかったのですが、今は寄り添いたいと思いましたけど、午後の日差しを浴びる旦那さまの横顔がとても美しくて。
 この静けさを、わたくしの甘えで乱してしまってはいけないような気がしました。

「肩を抱こうか?」

 突然尋ねられて、わたくしはたいそう驚きました。
 どうして考えていることが分かったのでしょう。
 わたくしは、小さくこくりと頷きました。

 不思議なんです。慣れた場所ではないからでしょうか。こんなにも辺りが静かだからでしょうか。
 いつもなら、旦那さまに存分に甘えておりますのに。
 
 戸惑うわたくしの肩を、旦那さまの大きな手が包み込みました。その拍子に、びくっと肩をすくめてしまいます。

初心うぶで可愛いな。翠子さんは」
「だって。旦那さまがあんなことを仰るから……です」
「あんなこと? 何だったかな」
「もうっ。分かっていらっしゃるのに、すぐにはぐらかすんですもの」

 旦那さまは少し屈みこむと、わたくしの耳元に唇をお寄せになります。

「言葉にしてもらわないと、分からないなぁ」
「だ、だから、その」
「夜が待ち遠しい?」

 そんなの返事できません。わたくしは、頬が染まるのを感じました。
 旦那さまは口の端を上げて「睡眠不足は覚悟しておきなさい」なんて仰るんですもの。頬だけでなく、耳まで熱くなってしまいます。

◇◇◇

 少し歩くと、水の匂いが鼻をかすめました。川でもあるのでしょうか。ですが、聞こえてくる音はせせらぎの音ではなく、たゆたうようなさざ波の音です。
 海からは遠く離れた場所ですのに。
 そう思いつつ進むと、ふいに足下が柔らかくなりました。

「え?」

 まさか外に絨毯が敷いてあるわけでもないでしょうに。そう思って下を見ると、地面はさっきまでの土ではなく、少し白っぽい砂へと変化していました。

「ほら、ご覧。翠子さん」

 旦那さまが指さす先には、南海のような碧い碧い湖が広がっていました。
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