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一章
1、別荘へ【1】
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晴れ渡る青空に、鮮やかな橙色ののうぜんかずらが眩しく咲き誇っています。甘い蜜をたたえているのでしょうか。ぶんぶんと蜜蜂がのうぜんかずらの花に群がっていました。
今日から旦那さまとご一緒に、別荘で過ごすのです。
旦那さまはお勉強道具も持っていくように仰ったけれど。せっかっくの別荘ですよ。お勉強なんてもったいないじゃないですか。
しかも笠井家の別荘のように、社交パーティもないんです。すべて自由に使える時間なんですよ。
あまりにも素晴らしくて、身震いしそう。
「翠子さん、寒いのかい? 炎天下だけど」
「いえ、平気ですよ」
心配してわたくしのおでこに、旦那さまがてのひらをお当てになります。
そんな、嬉しくて熱を出す子どもではないのですから。
高瀬家の門の前に、美しく磨き上げられた黒い車が停まっています。顔が映るほどにぴかぴかの車体を、わたくしは覗きこみました。
「わたくし、知っています。この車、パッカードです。乗ったことがあります」
「へぇ、さすがに詳しいな。笠井男爵と同じ車なのかい?」
旦那さまと銀司さんが、トランクを玄関から運び出しながら、運転手に渡しています。
「いえ、お父さまはT型フォードでした。あれは少しおもちゃっぽくて可愛いですよね」
わたくしはエリスの入ったかごを、後部座席に乗せます。猫と一緒に車に乗るなんて、初めて。
運転手にわたくしたち四人、それにエリスとたくさんの荷物。一台の車では到底乗れませんので、旦那さまはハイヤーを二台頼んでおられます。
どちらも上品なパッカードですよ。
「こういうところで、家柄の違いというのを感じるよ」
「ぼくには、翠子さまが何を仰っているのかさっぱりです」
この辺りでは外洋航路のお客さまが、ホテルに向かうのにタクシーやハイヤーを使う方が多いのですけど。
近場の移動なら俥の方が気楽らしく、旦那さまはあまり車をお使いになりません。
エリスはあれから、時々うちで過ごしています。そうですね。週のうち五日ほどでしょうか。
琥太郎さんは「どっちが別宅か分からへんな」と苦笑いなさっていましたけど。
それでも好きなように散歩して、気分次第で泊まる家を決めて、そういう気ままさが猫らしいと納得なさっていました。
今回、別荘に連れていくことになったのは、わたくしたちがお出かけの用意をしているのを見て、エリスはもちろん自分も連れて行ってもらえるものと信じて疑わない様子だったからです。
わたくしのトランクの中に、ちゃっかりと入りこみ。外に出すと、今度は旦那さまのトランクの中に。それも駄目だと分かると、銀司さんの部屋まで行ってやはり荷物に紛れていました。
もちろん三條邸から持参したエリス専用の布を咥えて。
琥太郎さんのお家に置いていくことなんてできますか? ええ、できっこないです。
「じゃあ、お清と銀司はそっちに乗ってくれ」
車に乗るのが初めてだという銀司さんは、それはもう煌めく瞳で自動車を眺めておいでです。
お清さんは「あたしは人力車の方が」と呟いておいでですけど。さすがに荷物も多く、別荘までは遠いので怖々という風に後部座席に乗り込みました。
わたくしと旦那さまも並んで、後部座席に座ります。膝にエリスのかごを載せて。やはり車に乗ると少し畏まってしまいますね。
前回は、縛られたまま座席に転がされていたので、あれは思い出したくもないのですけど。
車が走り出すと、わたくしはドアについている取っ手をくるくるとまわして、窓を開きます。
少し下がった窓の隙間から、心地よい風が入り込んできました。
エリスもかごから顔を出して、気持ちよさそうにおひげに夏風を受けています。
小路を抜けて、大通りを学校とは反対の方向に曲がります。海沿いの道を走っているので、車窓からはきらきらと朝の日差しを受けてきらめく海が見えました。
「おとなしく座っていたらどうだい?」
「静かですよ」
旦那さまは妙な指摘をなさいますね。わたくしとエリスは顔を見合わせました。瞬きだけでエリスは「ほんとにね」と返してくれます。
◇◇◇
久しぶりに車に乗って、別荘へ行くのが嬉しいのは分かるが。
翠子さんはエリスを抱きしめたまま、窓から顔を出している。吹き込む風をうけて、彼女の髪がなびいている。
潮の香りと茉莉花の香り。不思議な取り合わせだ。
道路に近い場所に浜が現れて、海水浴をする人がいれば、翠子さんはぴょこんと跳び上がってよく見ようとする。
また海と反対側の線路を走る列車を見つけると、俺の方へ身を乗り出してくる。
エリスは窓から飛び出さないように、前脚のつけねから背中にかけて、紐を通してあるが。翠子さんにも紐が必要かもしれない。
なんなら俺が、彼女を腕の中に閉じ込めようか。膝の上に座らせるのも、悪くないなぁ。
俺は妄想……いや、想像をめぐらせた。
「旦那さま」いや、どうせなら「欧之丞さん」と名前で呼んでもらいたい。彼女はなかなかそう呼んでくれないから、想像の中くらいはいいだろう。
膝の上に座らせる場合、翠子さんが横向きなのは寂しいなぁ。対面する形で、俺の脚をまたがらせるか? いや、きっと恥じらってそんなことはしてくれない。
仕方ないな。横座りにさせて、俺の首の辺りに翠子さんをしがみつかせておこう。
道の揺れと共に、翠子さんが「きゃ」と言いながら、さらに密着して俺の顔に顔をくっつけるんだ。
うん、悪くない。
「旦那さま。海水浴ってなさったことありますか?」
突然問いかけられて、俺は現実に引き戻された。
愛しい人よ。なぜ俺と密着せずに座っているんだい?
「いや、ないな」
俺は分別のある大人なので、平然と答える。
「ほら、ご覧になって。海で泳いでいますよ。すごいですね、女性が海水着を着ています」
水着といっても、半袖に足の方は膝の辺りまで隠れている。体の線にぴったりと沿っているわけでもなく、少しだぼっとした作りだ。しかも横縞が全体に入っているので、美しいかと問われれば言葉を濁すしかない。
「華宵先生の描かれるような、露出の多い海水着ではないんですのね」
翠子さんは、少しがっかりしたように呟いた。
「そういえば銀司は南の島にいた頃は、褌で泳いでいたらしいぞ」
普通に世間話のつもりで答えただけなのに。翠子さんは顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。
あー、済まない。銀司。翠子さんの頭の中では、今の君は半裸……いや、それ以上だ。
今日から旦那さまとご一緒に、別荘で過ごすのです。
旦那さまはお勉強道具も持っていくように仰ったけれど。せっかっくの別荘ですよ。お勉強なんてもったいないじゃないですか。
しかも笠井家の別荘のように、社交パーティもないんです。すべて自由に使える時間なんですよ。
あまりにも素晴らしくて、身震いしそう。
「翠子さん、寒いのかい? 炎天下だけど」
「いえ、平気ですよ」
心配してわたくしのおでこに、旦那さまがてのひらをお当てになります。
そんな、嬉しくて熱を出す子どもではないのですから。
高瀬家の門の前に、美しく磨き上げられた黒い車が停まっています。顔が映るほどにぴかぴかの車体を、わたくしは覗きこみました。
「わたくし、知っています。この車、パッカードです。乗ったことがあります」
「へぇ、さすがに詳しいな。笠井男爵と同じ車なのかい?」
旦那さまと銀司さんが、トランクを玄関から運び出しながら、運転手に渡しています。
「いえ、お父さまはT型フォードでした。あれは少しおもちゃっぽくて可愛いですよね」
わたくしはエリスの入ったかごを、後部座席に乗せます。猫と一緒に車に乗るなんて、初めて。
運転手にわたくしたち四人、それにエリスとたくさんの荷物。一台の車では到底乗れませんので、旦那さまはハイヤーを二台頼んでおられます。
どちらも上品なパッカードですよ。
「こういうところで、家柄の違いというのを感じるよ」
「ぼくには、翠子さまが何を仰っているのかさっぱりです」
この辺りでは外洋航路のお客さまが、ホテルに向かうのにタクシーやハイヤーを使う方が多いのですけど。
近場の移動なら俥の方が気楽らしく、旦那さまはあまり車をお使いになりません。
エリスはあれから、時々うちで過ごしています。そうですね。週のうち五日ほどでしょうか。
琥太郎さんは「どっちが別宅か分からへんな」と苦笑いなさっていましたけど。
それでも好きなように散歩して、気分次第で泊まる家を決めて、そういう気ままさが猫らしいと納得なさっていました。
今回、別荘に連れていくことになったのは、わたくしたちがお出かけの用意をしているのを見て、エリスはもちろん自分も連れて行ってもらえるものと信じて疑わない様子だったからです。
わたくしのトランクの中に、ちゃっかりと入りこみ。外に出すと、今度は旦那さまのトランクの中に。それも駄目だと分かると、銀司さんの部屋まで行ってやはり荷物に紛れていました。
もちろん三條邸から持参したエリス専用の布を咥えて。
琥太郎さんのお家に置いていくことなんてできますか? ええ、できっこないです。
「じゃあ、お清と銀司はそっちに乗ってくれ」
車に乗るのが初めてだという銀司さんは、それはもう煌めく瞳で自動車を眺めておいでです。
お清さんは「あたしは人力車の方が」と呟いておいでですけど。さすがに荷物も多く、別荘までは遠いので怖々という風に後部座席に乗り込みました。
わたくしと旦那さまも並んで、後部座席に座ります。膝にエリスのかごを載せて。やはり車に乗ると少し畏まってしまいますね。
前回は、縛られたまま座席に転がされていたので、あれは思い出したくもないのですけど。
車が走り出すと、わたくしはドアについている取っ手をくるくるとまわして、窓を開きます。
少し下がった窓の隙間から、心地よい風が入り込んできました。
エリスもかごから顔を出して、気持ちよさそうにおひげに夏風を受けています。
小路を抜けて、大通りを学校とは反対の方向に曲がります。海沿いの道を走っているので、車窓からはきらきらと朝の日差しを受けてきらめく海が見えました。
「おとなしく座っていたらどうだい?」
「静かですよ」
旦那さまは妙な指摘をなさいますね。わたくしとエリスは顔を見合わせました。瞬きだけでエリスは「ほんとにね」と返してくれます。
◇◇◇
久しぶりに車に乗って、別荘へ行くのが嬉しいのは分かるが。
翠子さんはエリスを抱きしめたまま、窓から顔を出している。吹き込む風をうけて、彼女の髪がなびいている。
潮の香りと茉莉花の香り。不思議な取り合わせだ。
道路に近い場所に浜が現れて、海水浴をする人がいれば、翠子さんはぴょこんと跳び上がってよく見ようとする。
また海と反対側の線路を走る列車を見つけると、俺の方へ身を乗り出してくる。
エリスは窓から飛び出さないように、前脚のつけねから背中にかけて、紐を通してあるが。翠子さんにも紐が必要かもしれない。
なんなら俺が、彼女を腕の中に閉じ込めようか。膝の上に座らせるのも、悪くないなぁ。
俺は妄想……いや、想像をめぐらせた。
「旦那さま」いや、どうせなら「欧之丞さん」と名前で呼んでもらいたい。彼女はなかなかそう呼んでくれないから、想像の中くらいはいいだろう。
膝の上に座らせる場合、翠子さんが横向きなのは寂しいなぁ。対面する形で、俺の脚をまたがらせるか? いや、きっと恥じらってそんなことはしてくれない。
仕方ないな。横座りにさせて、俺の首の辺りに翠子さんをしがみつかせておこう。
道の揺れと共に、翠子さんが「きゃ」と言いながら、さらに密着して俺の顔に顔をくっつけるんだ。
うん、悪くない。
「旦那さま。海水浴ってなさったことありますか?」
突然問いかけられて、俺は現実に引き戻された。
愛しい人よ。なぜ俺と密着せずに座っているんだい?
「いや、ないな」
俺は分別のある大人なので、平然と答える。
「ほら、ご覧になって。海で泳いでいますよ。すごいですね、女性が海水着を着ています」
水着といっても、半袖に足の方は膝の辺りまで隠れている。体の線にぴったりと沿っているわけでもなく、少しだぼっとした作りだ。しかも横縞が全体に入っているので、美しいかと問われれば言葉を濁すしかない。
「華宵先生の描かれるような、露出の多い海水着ではないんですのね」
翠子さんは、少しがっかりしたように呟いた。
「そういえば銀司は南の島にいた頃は、褌で泳いでいたらしいぞ」
普通に世間話のつもりで答えただけなのに。翠子さんは顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。
あー、済まない。銀司。翠子さんの頭の中では、今の君は半裸……いや、それ以上だ。
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