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五章
4、海坊主
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夕方になり、空がにわかにくもってきた。
苔みたいな湿った匂い。重い灰色の雲がたれこめたと思うと、雨の粒が落ちてくる。
それも大きい粒やから、乾いた地面に点々と水玉もようみたいになって雨が吸いこまれていく。
「土のにおいがする。それと、なんか海のにおいだ」
大きいヤツデの葉が雨に叩かれて上下に揺れるのを、欧之丞は縁側で眺めとった。
屋根や葉に当たった雨は、ばしばしと音が聞こえるほどや。
「土のにおいは雨のせいやで。それと海のにおいは、颱風は海の方からくるからやで」
「へぇ」
今日は早いうちにお風呂に入るように言われて、まだ暗ないのに、二人とももう浴衣姿や。
母さんはぼくらの後でお風呂に入って、晩ご飯はこれから一緒にとることになった。
「蒼一郎さん、遅くならなければいいんですけど」
今日は父さんは用事で出かけてる。
颱風が来るから、早くに帰るって言ってたのに。まだ帰ってこぉへん。
「おじさん、遅くなったらどうなるの?」
「風にぴゅーっととばされるんかな」
「そんな楽しいことではないですよ。瓦が飛んできたりして、とても危ないんです」
母さんは心配そうに、何度も時計に目をやっている。
◇◇◇
今日の晩御飯はおにぎりときゅうりのお漬物、かきたま汁、それと冷ややっこやった。
かきたま汁のたまごはふわふわで、澄んだお汁はほんのりと甘い味がする。冷ややっこは薬味に大葉と茗荷が刻んでのせてあった。
「料理番が時間をかけられへんかったみたいで。こんなもんで、済みません」
「いいえ、充分ですよ。ありがとうございます。波多野さんも早く召し上がってくださいね」
ぼくらといっしょに座卓についた母さんが、正座をした波多野に声をかける。広い座卓の端には、布巾を被せたお盆が置いてある。父さんの分の晩ご飯や。
「おじさん遅いなぁ」
欧之丞はご飯の最中やいうのに、何度も立っては廊下に顔を出したり、縁側から庭を眺めたりする。
一瞬、辺りがびっくりするほど明るくなった。簾をはめこんだ夏障子の向こうにおる欧之丞の影が映るほどに。
少し遅れて、バリバリと激しい音がする。耳の奥が痛くて、夏障子も襖も震えてる。
「きゃあ」「うわぁ」と叫び声が重なって、ぼくと母さんはひしっと抱き合った。
「こたにい、すごいぞ。ものすごく光った」
なぜか一人だけ嬉しそうな欧之丞が部屋に飛び込んできた。
その目はきらきらと輝いてる。まるでギンヤンマとかミヤマクワガタを見つけた時みたいに。
「だめですよ、欧之丞さん。窓に近づいては。危ないです」
「えー、でも家の中だし」
「わたしが抱っこしてあげますから。いらっしゃい」
母さんに手招きされて、欧之丞は渋々やってきた。
でも、ぼくは知ってる。
ぼく一人を抱っこするよりも、欧之丞も一緒に抱っこしたほうが、母さんは雷が怖ないんや。
「お部屋の部屋の真ん中に移動しましょうね」
「おにぎり持って行っていい?」
「ええ、いいです。抱っこしながらでも食べられます……きゃあ」
今度は光るのと音が鳴るのが一緒やった。激しい衝撃みたいな音をお腹に感じて、ぼくは耳を塞いだ。母さんの手にいっそう力がこもってる。
せやのに欧之丞だけが「見てくる」といって、母さんの腕をすり抜けていった。海苔を巻いた俵型のおにぎりを持ったままで。
なんでそないに怖いもの知らずなん?
ガラス窓がびりびり震えるのにも構わずに、欧之丞が横殴りの雨の降る庭を見つめている。
「だめですよ、欧之丞さん。窓際は危ないんです」
ぼくに部屋の真ん中におるように言い置いてから、母さんは縁側にいる欧之丞のところに向かった。
風が突然強なって、高価やっていうガラス窓をしたたかに叩く。また空が光る。
喜んで歓声を上げる欧之丞と、及び腰になりながらも欧之丞に手を伸ばす母さん。
その時やった。暗い影がにゅうっと窓ガラスの向こうに見えたのは。
母さんの悲鳴とぼくの「うわぁ」という声が重なる。
その仄暗いのは、ぼたぼたと水を滴らせていた。
妖怪? 海坊主? いやや、怖いっ。
ぼくは母さんにしがみついた。
苔みたいな湿った匂い。重い灰色の雲がたれこめたと思うと、雨の粒が落ちてくる。
それも大きい粒やから、乾いた地面に点々と水玉もようみたいになって雨が吸いこまれていく。
「土のにおいがする。それと、なんか海のにおいだ」
大きいヤツデの葉が雨に叩かれて上下に揺れるのを、欧之丞は縁側で眺めとった。
屋根や葉に当たった雨は、ばしばしと音が聞こえるほどや。
「土のにおいは雨のせいやで。それと海のにおいは、颱風は海の方からくるからやで」
「へぇ」
今日は早いうちにお風呂に入るように言われて、まだ暗ないのに、二人とももう浴衣姿や。
母さんはぼくらの後でお風呂に入って、晩ご飯はこれから一緒にとることになった。
「蒼一郎さん、遅くならなければいいんですけど」
今日は父さんは用事で出かけてる。
颱風が来るから、早くに帰るって言ってたのに。まだ帰ってこぉへん。
「おじさん、遅くなったらどうなるの?」
「風にぴゅーっととばされるんかな」
「そんな楽しいことではないですよ。瓦が飛んできたりして、とても危ないんです」
母さんは心配そうに、何度も時計に目をやっている。
◇◇◇
今日の晩御飯はおにぎりときゅうりのお漬物、かきたま汁、それと冷ややっこやった。
かきたま汁のたまごはふわふわで、澄んだお汁はほんのりと甘い味がする。冷ややっこは薬味に大葉と茗荷が刻んでのせてあった。
「料理番が時間をかけられへんかったみたいで。こんなもんで、済みません」
「いいえ、充分ですよ。ありがとうございます。波多野さんも早く召し上がってくださいね」
ぼくらといっしょに座卓についた母さんが、正座をした波多野に声をかける。広い座卓の端には、布巾を被せたお盆が置いてある。父さんの分の晩ご飯や。
「おじさん遅いなぁ」
欧之丞はご飯の最中やいうのに、何度も立っては廊下に顔を出したり、縁側から庭を眺めたりする。
一瞬、辺りがびっくりするほど明るくなった。簾をはめこんだ夏障子の向こうにおる欧之丞の影が映るほどに。
少し遅れて、バリバリと激しい音がする。耳の奥が痛くて、夏障子も襖も震えてる。
「きゃあ」「うわぁ」と叫び声が重なって、ぼくと母さんはひしっと抱き合った。
「こたにい、すごいぞ。ものすごく光った」
なぜか一人だけ嬉しそうな欧之丞が部屋に飛び込んできた。
その目はきらきらと輝いてる。まるでギンヤンマとかミヤマクワガタを見つけた時みたいに。
「だめですよ、欧之丞さん。窓に近づいては。危ないです」
「えー、でも家の中だし」
「わたしが抱っこしてあげますから。いらっしゃい」
母さんに手招きされて、欧之丞は渋々やってきた。
でも、ぼくは知ってる。
ぼく一人を抱っこするよりも、欧之丞も一緒に抱っこしたほうが、母さんは雷が怖ないんや。
「お部屋の部屋の真ん中に移動しましょうね」
「おにぎり持って行っていい?」
「ええ、いいです。抱っこしながらでも食べられます……きゃあ」
今度は光るのと音が鳴るのが一緒やった。激しい衝撃みたいな音をお腹に感じて、ぼくは耳を塞いだ。母さんの手にいっそう力がこもってる。
せやのに欧之丞だけが「見てくる」といって、母さんの腕をすり抜けていった。海苔を巻いた俵型のおにぎりを持ったままで。
なんでそないに怖いもの知らずなん?
ガラス窓がびりびり震えるのにも構わずに、欧之丞が横殴りの雨の降る庭を見つめている。
「だめですよ、欧之丞さん。窓際は危ないんです」
ぼくに部屋の真ん中におるように言い置いてから、母さんは縁側にいる欧之丞のところに向かった。
風が突然強なって、高価やっていうガラス窓をしたたかに叩く。また空が光る。
喜んで歓声を上げる欧之丞と、及び腰になりながらも欧之丞に手を伸ばす母さん。
その時やった。暗い影がにゅうっと窓ガラスの向こうに見えたのは。
母さんの悲鳴とぼくの「うわぁ」という声が重なる。
その仄暗いのは、ぼたぼたと水を滴らせていた。
妖怪? 海坊主? いやや、怖いっ。
ぼくは母さんにしがみついた。
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