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五章

2、南からの風

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 欧之丞の小さい手をきゅっと握って、道を歩く。
 瓦斯燈はとうに通り過ぎたけど、手はつないだままや。
 ふと、海岸沿いの松林がざわざわっと音を立てた。それから、ひゅうと生あたたかい風が吹き抜ける。

 母さんの着物の袂がひらりとひるがえって、ぼくらの髪も乱れてしまった。

 これは普段の風とちがう。
 潮の匂いが強くて、しかも秋やのに妙にあったかい。南からの風や。

「なぁ母さん。もしかして颱風がくるん?」
「え? ええ、測候所の気象電報が、颱風の接近を知らせていたと新聞に載っていたわね。でも、どうして琥太郎さんがそのことを知っているの?」

 本当に疑問に思ったって感じで、母さんがぼくと欧之丞の髪を直しながら尋ねてくる。
 どうやら浜の砂がついてしまったみたいで、母さんは手で梳いて砂を落としてくれる。

 ふふん、待ってました。とばかりに、ぼくはあごを上げた。
 さすがに賢いぼくやけど、五歳やから新聞はよう読まん。
 けどな、やっぱりぼくは賢いから。大人の話(とくに父さんの話)を、よう聞いてるねん。

 庭で竹馬をしとう時も(欧之丞は、とんでもない速さで竹馬で走っていくけど。ぼくはちょっと……ほんまにちょっとだけ慎重になって、ゆっくりと進む)耳は大人の会話を聞いている。

――なんや、怖いくらいの夕焼けですね。
――ん? 波多野は知らんのか。燃えてるみたいな夕焼けの日は、翌日は雨が降るんや。

 波多野に教えながら、父さんは西の空を仰いだ。ぼくも竹馬から降りて、父さんの視線をたどる。
 幾重にもたなびく雲は灰色やのに。空があまりにもはなやいだ色やから、びっくりした。茜や赤紫や緋色や朱色の色に染まってるんや。

 ほんまに目を見張るほどきれいな空やのに。仄かに黒い闇がまじっていて、心の奥底がしんと静かに冷える気がした。

――この空やと、近いうちに颱風がくるんとちゃうかな。
――颱風? 野分のことですか。それやったら雨戸を打ち付けたり、用意しないといけませんね。

 そうか、こんな赤い瑪瑙に閉じ込められたみたいな空は、颱風の前触れなんや。
 ぼくは頭の中の帳面に、それを書き記した。

 瑪瑙やのうて琥珀やけど。すっごい古い古い時代の虫が閉じ込められてることがある。
 もしその虫が生きてたら、世界はこんな風に見えるんかもしれへん。

――あー。こたにい、さぼってる。

 やっぱり竹馬で走って来た欧之丞に言われて、我に返った。
 っていうか、竹馬をさぼるってなんなん?

◇◇◇

「こたにいは、なんでも知ってるんだよ」

 母さんの問いに答えたのは、欧之丞やった。
 しかも、やっぱりあごを上げてふんぞり返ってる。

 うん、信じてくれるんはうれしいけど。なんで自分の手柄みたいになってんの?
 なぁ、欧之丞分かってる?
 君とぼくとは別人なんやで?

「きのう、竹馬をしてる時に、こたにいが虫の名前を教えてくれた」とか「庭の梅の実は、そのまま食べたら毒だから食べないようにって教えてくれたよ」と、身を乗り出して母さんに言い募ってる。

 褒めてくれる度に、つないだ手にぎゅうって力がこもるから。ほんまに心からそう思ってくれてるのが分かる。
 そして母さんは「そうだったの」と微笑んでるんや。

「欧之丞さんと琥太郎さんは、竹馬の友になるのねぇ」
「ちくわのとも? ちくわ、好きだよ」
「そうねぇ。たけうまと書いて『ちくば』なのよ」

「うんっ。こたにいとは、たけうまともだち。大のなかよしなんだよ、今もこたにいがつなぎたいって言うから、ちゃんと手をつないであげてるんだ」

 やめてぇ、恥ずかしいやんか。
 手で顔を隠したくなったけど、欧之丞と手をつないでるから、それもできひんかった。
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