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一章

10、クヌギの木【2】

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 父さんは「たおりーぃて、ゆーかん」と歌を口ずさみながら(多分『野ばら』やと思う。「手折りて、往かむ」かな?)ぼくの手を引いて坂を上った。

「この坂は、絲さんが小さい頃から女學生まで通とったんやで」
「急だよね、この坂」
「そう。せやから、途中で休憩しつつな。他の女學生が絲さんに声を掛けようとして、傍に居る俺のことが怖いんか、そそくさと逃げて行ってたわ」

 え? もしかして父さんが、母さんを學校まで送り迎えしとったってこと?
 う、うーん。確かに母さんは虚弱やけど。父さんの過保護っぷりもどうかと思う。

 手にカンテラと、砂糖水入りの瓶と刷毛を持つ父さん。そしてブタの蚊遣りを持つぼくを通りがかりの人がちらちらと見ていく。
 うう、恥ずかしいなぁ。
 そうでなくても父さんは顔が広いから。

「父さん。いるかなぁ、蚊取り線香」
「いるいる。うちの庭とちごて、森や林の中は藪蚊とか虻にブヨがおるで。ん? 蚊取り線香は蚊やから、虻には効かへんのやろか」
「虻とかブヨには薄荷油がええらしいよ」

「へーぇ。琥太郎は物知りやなぁ。俺の自慢の子ぉやで」

 父さんはぼくを嬉しそうに見つめてる。
 ふふ、ほめられた。
 ぼくの足取りは軽くなり、一緒に豚の口から出る煙もふよふよと楽しそうに揺れる。

「ほんまに琥太郎がおってくれて、嬉しいわ」
「そ、そうかな?」

 他の大人は、もっと子どもに偉そうにしとう。子どもが口を挟むと「なんも分かってへんくせに、知った風な口をきくな」と怒られとう子どもを何度か見たことがある。

 でも、父さんはそんなことは言わへん。母さんやぼくに対しても「おんな子どもは黙っとけ」なんて、一回も言うたことがない。

 ヤクザの組長で、怖いように思われとうけど。実際は他の家の父親の方が怖いんとちゃうかな。
 ん? 父さんは強いから、相手を怖がらせる必要がないんかな?
 よう分からんけど、難しいなぁ。

 怒鳴り散らす方が弱いとか、逆やん。

 坂の上の教会から、鐘の音が聞こえた。もう七時なんや。
 女學院に隣接しとう教会で、母さんは「御御堂おみどう」っていうとった。

「あと三十分ほどで日が暮れるな。琥太郎、さっさと済ますで」
「うん」

 ぼくは蚊遣りのブタを捧げ持ち、父さんについて行く。
 外はまだ昼の気配があるのに。森の中はすでに夜みたいやった。

 けど眼下を見下ろすと、海は凪いできらきらと夕陽に輝いとう。白帆を上げて進む舟。見慣れた光景に、ほっと安心した。
 そろそろ家の明かりが灯る頃なんか、こちら側の街も、対岸の島もちらほらと光が見える。

 あっちの島にも人が暮らしとって、今から晩ご飯を食べるんやなぁ。

「きれいやなぁ」
「ほんまやな。このきれいな街は守っていかなあかんな」

 ぽつりと父さんが呟いた。
 たったその一言で、父さんが背負っとうもんにぼくは気がついたんや。

「……ぼくみたいな、ひょっろとした子ぉは父さんの跡を継ぐん、みんな心配やんな」

 せやから、もっと息子がおった方が、とか妾が何とかって言う奴がおるんや。

「琥太郎には、あんまり向かへんよな。きな臭い世界っていうんは。けど、別にうちがヤクザでおらんとあかんわけでもないんやけどな」
「え? でも」

「組員とその家族の生活が保障できるような仕組みを作ったら、別に暴力の世界でのうてもええと思わへんか?」

「すぐには難しいけどな」と、父さんは呟いた。

 そっか。うん、そうかも。
 
「じゃあ、その新しい世界に欧之丞がおったら、安心かも」
「せやろ」

 父さんは嬉しそうに答えながら、クヌギの幹に砂糖水を塗っていった。
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