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一章
9、クヌギの木【1】
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父さんが、せっせと庭の木になんか塗っとう。
夕暮れ時で、しかも庭の端の草の多い方に入っていくから。母さんが「蒼一郎さん。蚊取り線香をお持ちになった方が」と追いかけた。
「うーん。両手がふさがっとうから、足音に置いといて」
うなずいた母さんは、父さんの指示通りにブタの蚊遣りを地面に置いた。
すっと伸びた草の中にちんまりと座るブタ。しかも口から白い煙を吐いとうから、妙に間抜けやった。
「父さん、なにしてんの?」
「んー? これで虫を集めるんや」
父さんの答えに、ぼくと母さんは揃って「ひっ」と引きつった声を出した。
何が嬉しくて、父さんは虫を集めるんや。
訊けば、砂糖水を刷毛で木の幹に塗って、それにクワガタとかが集まってくるらしい。
「あのー、頭。お言葉を挟むようですが、クワガタやカブトムシを集めるなら、クヌギがええと思うんですけど」
「クヌギ? この木、クヌギとちゃうで」
「はい。それは槇ですね。そちらのは梅の古木です」
組員が教えてくれると、父さんは肩を落とした。
「なんでうちにはクヌギがないんや。そういえば庭でクワガタを捕った記憶がないわ」
「先代とか先々代に言ってください」
「親父も爺さんも、もうおらへん。あの人ら、クワガタが嫌いやったんか」
「知りませんよ」と詰め寄られた組員は、おろおろとぼくと母さんを見遣った。
「あの、蒼一郎さん。クヌギって大きくて帽子がとげとげしたドングリの木ですよね」
「せや。絲さん、よう知っとうな」
ぼくも知ってる。秋になったら、母さんと散歩がてらドングリを拾うから。
「わたしが通っていた女學院の近くに、クヌギの木がありましたよ。少し道から外れた場所ですけど。湧水の近くです」
「絲さん、ドングリなんか興味あったんか?」
ぼくも、女學生のお姉さんだった頃に母さんがドングリを拾う姿は想像できない。
でも、父さんはそっちじゃなかったみたいだ。
「ドングリは躑躅みたいに蜜が吸われへんで? あんなん、美味しないやろ」
母さん、何しとったん?
「お爺さまが拾ってきてくださって。子どもの頃に、お友達とお店やさんごっこをしていたんです。ドングリは硬貨です。お会計はちゃんと算盤を使って計算するんですよ」
「……夢があるんかないんか、分からんような遊びやな」
父さんは苦笑したけど、とても優しい瞳で母さんを見つめとった。
年が離れとうけど、母さんの小さい頃を知っとったんやろか。
「よし、琥太郎。今から湧水んとこに行くぞ」
「えー? 明日でええやん」
「虫はな、夜の間に行動するんや。まだ暗なるまでには時間がある」
「ぼく、虫とか興味ない」
「また、そういうこと言うて」と父さんは目をすがめた。
「琥太郎は賢いから、子どもっぽい遊びはあほらしいやろ。けどな、子どもの内にしか経験できへんことは、しといた方がええ。きっと将来、懐かしなるから」
そんな大人になって思い出す為だけに、虫を捕るのは嫌だけど。
でも、やっぱり母さんもぼくが本ばっかり読んでるのを心配してるもんな。
「……分かった。ついてってあげる」
「ほんまか? ありがとうな」
一瞬にして、父さんが笑顔になった。
しゃあないな。親を喜ばすんは子どもの務めやと思て、つきあったるわ。
夕暮れ時で、しかも庭の端の草の多い方に入っていくから。母さんが「蒼一郎さん。蚊取り線香をお持ちになった方が」と追いかけた。
「うーん。両手がふさがっとうから、足音に置いといて」
うなずいた母さんは、父さんの指示通りにブタの蚊遣りを地面に置いた。
すっと伸びた草の中にちんまりと座るブタ。しかも口から白い煙を吐いとうから、妙に間抜けやった。
「父さん、なにしてんの?」
「んー? これで虫を集めるんや」
父さんの答えに、ぼくと母さんは揃って「ひっ」と引きつった声を出した。
何が嬉しくて、父さんは虫を集めるんや。
訊けば、砂糖水を刷毛で木の幹に塗って、それにクワガタとかが集まってくるらしい。
「あのー、頭。お言葉を挟むようですが、クワガタやカブトムシを集めるなら、クヌギがええと思うんですけど」
「クヌギ? この木、クヌギとちゃうで」
「はい。それは槇ですね。そちらのは梅の古木です」
組員が教えてくれると、父さんは肩を落とした。
「なんでうちにはクヌギがないんや。そういえば庭でクワガタを捕った記憶がないわ」
「先代とか先々代に言ってください」
「親父も爺さんも、もうおらへん。あの人ら、クワガタが嫌いやったんか」
「知りませんよ」と詰め寄られた組員は、おろおろとぼくと母さんを見遣った。
「あの、蒼一郎さん。クヌギって大きくて帽子がとげとげしたドングリの木ですよね」
「せや。絲さん、よう知っとうな」
ぼくも知ってる。秋になったら、母さんと散歩がてらドングリを拾うから。
「わたしが通っていた女學院の近くに、クヌギの木がありましたよ。少し道から外れた場所ですけど。湧水の近くです」
「絲さん、ドングリなんか興味あったんか?」
ぼくも、女學生のお姉さんだった頃に母さんがドングリを拾う姿は想像できない。
でも、父さんはそっちじゃなかったみたいだ。
「ドングリは躑躅みたいに蜜が吸われへんで? あんなん、美味しないやろ」
母さん、何しとったん?
「お爺さまが拾ってきてくださって。子どもの頃に、お友達とお店やさんごっこをしていたんです。ドングリは硬貨です。お会計はちゃんと算盤を使って計算するんですよ」
「……夢があるんかないんか、分からんような遊びやな」
父さんは苦笑したけど、とても優しい瞳で母さんを見つめとった。
年が離れとうけど、母さんの小さい頃を知っとったんやろか。
「よし、琥太郎。今から湧水んとこに行くぞ」
「えー? 明日でええやん」
「虫はな、夜の間に行動するんや。まだ暗なるまでには時間がある」
「ぼく、虫とか興味ない」
「また、そういうこと言うて」と父さんは目をすがめた。
「琥太郎は賢いから、子どもっぽい遊びはあほらしいやろ。けどな、子どもの内にしか経験できへんことは、しといた方がええ。きっと将来、懐かしなるから」
そんな大人になって思い出す為だけに、虫を捕るのは嫌だけど。
でも、やっぱり母さんもぼくが本ばっかり読んでるのを心配してるもんな。
「……分かった。ついてってあげる」
「ほんまか? ありがとうな」
一瞬にして、父さんが笑顔になった。
しゃあないな。親を喜ばすんは子どもの務めやと思て、つきあったるわ。
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