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番外編
5、家路を急ごう
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最後の花火が終わり、一気に人の波が引いた。
まだ花火が上がるのではないかと期待した子どもが、何度も何度も振り返りながら戻っていく。
時刻は夜の九時を過ぎた頃だろうか。風は止み、湿気の多い肌にまとわりつくような大気だ。
「さぁ、我らも帰るぞ」
空蝉に促されて、螢は石垣から地面へと降りた。
「いたっ」
足の指を襲った痛みに、思わず眉をひそめてしまう。
硬い鼻緒に擦れた指の間が、少し歩いただけでもひりついた。
「脱いで、見せてみろ」
「え?」
螢は思わず身構えて、後ずさった。そのせいでまた痛みが走る。
「何を誤解しておるのだ。下駄のことだ。たとえ私でも、見る者がいるかもしれぬ人前で、そなたの着ているものを剥いだりはせぬ」
螢の反論を待つ間もなく、空蝉は石垣に螢を座らせて、下駄を脱がせた。
暗がりでも左右の親指と人差し指の間が、赤くなっているのが見て取れる。
山を登って家に戻るのは到底無理だろう。
「ふむ。しばし我慢するのだぞ。揺れるかもしれんが、しがみついておれ」
下駄を右手に持ち、螢を左腕で抱えた状態で、空蝉は歩き出した。
「大丈夫だから。重いよ、わたし」
「重いというのなら、もっと出るところが出てから言ってもらおう」
「どうせ貧相ですよ」
螢は口を尖らせたが、それが空蝉なりの優しさであることに気付いている。
気を使わせないために、あえて軽口をたたいたり意地悪を言うのだ。この人は。
「ありがとう」と小さく呟いて、螢は彼の頭を抱きしめた。
「なんだ? 急に甘えん坊になったのか? そなたもそこそこ年を取っているのだぞ。そろそろ大人にならぬか」
「千年以上生きてるおじいさんの空蝉に比べたら、ずっと若いもの」
「……じいさん。そうか、そうだな」
心なしか、空蝉の歩みが遅くなった気がする。それに声も張りがないというか、落ち込んでいるような。
「はぁー」とため息をついた後、「そうか、じいさんか」と、また空蝉は洩らした。
「ごめんなさい。言い過ぎだったわ」
慌ててフォローをしようとするが、すでに一度口から出てしまった言葉は、もう取り戻せない。
「いや、いいのだ。事実だからな」
「ううん。思ってもいないことを言ったわたしが悪いの。空蝉は全然おじいさんじゃないわ」
「では、螢には私はどう見えるのだ?」
「そんなの言わなくたって」
「言ってもらわないと分からない。私は万能の神ではないのだからな」
しょげた口調で、ちらりと螢に視線を向けてくる。
そんな捨てられた犬のような目で見られたら、良心がちくちくどころか、ずきずきと盛大に痛んでしょうがない。
すん、と空蝉が鼻を鳴らした。
ああ、もしかして泣かせてしまったのだろうか。なんてひどいことを言ったのだろう。
螢は思わず空蝉の頭を抱きしめた。
今は夜だけれど、彼はお日さまのにおいがした。
こんな心優しいあなたを、傷つけてしまうなんて。
「空蝉は素敵よ。わたしにとって一番かっこよく見えるわ。だからほとんどの人にあなたの姿が見えなくて、正直ほっとしているの。美しい女性が空蝉に恋したら、わたしなんて勝てないもの」
「そなたは、私を独り占めしたいのか?」
螢はうなずいた。
恥ずかしいけれど、ちゃんと言葉で伝えないと空蝉の傷が癒せない。
「今は益神として、信仰してくれる人もいるけれど。あなたがなんであっても、わたしにとっては一番大事な人よ」
空蝉は横を向いて、肩を震わせている。怒っているのだろうか、それとも気に障ることでも言ってしまったのだろうか。
もっと言葉を重ねた方がいいかもしれない。
「わたしはあなたを愛しているわ」
「……もう、よい」
「でも」
「これ以上、耳元で愛を囁かれると恥ずかしくてしょうがない」
ん? 螢はそっぽを向いてしまった空蝉のあごに手をかけて、自分の方を向かせた。
怒ってませんね。どちらかというと、これは笑いをかみ殺している状態です。
「なによ。わたしは真剣に!」
「そう。螢は真剣に愛の言葉を並べてくれた。なんと光栄なことか、我が妻よ」
仰々しい物言いで、空蝉は頭を下げた。
恥ずかしいのはこっちよ。
「恥ずかしいのは、こっちよ!」
螢が頭の中で思ったことと、まったく同じセリフが背後から聞こえた。
脳内の言葉が、こぼれてしまったのかと思ったが。そうではなかった。
振り返ると、京香が立っていた。杖をつき、うちわを持った秋杜も一緒だ。
派手な黄色のワンピースを着ている京香だが、いつものようなハイヒールではなく、足元はスニーカーだ。
珍しい。河川敷よりもっと悪路である山道も、ハイヒールで難なく登ってくるのに。
まだ花火が上がるのではないかと期待した子どもが、何度も何度も振り返りながら戻っていく。
時刻は夜の九時を過ぎた頃だろうか。風は止み、湿気の多い肌にまとわりつくような大気だ。
「さぁ、我らも帰るぞ」
空蝉に促されて、螢は石垣から地面へと降りた。
「いたっ」
足の指を襲った痛みに、思わず眉をひそめてしまう。
硬い鼻緒に擦れた指の間が、少し歩いただけでもひりついた。
「脱いで、見せてみろ」
「え?」
螢は思わず身構えて、後ずさった。そのせいでまた痛みが走る。
「何を誤解しておるのだ。下駄のことだ。たとえ私でも、見る者がいるかもしれぬ人前で、そなたの着ているものを剥いだりはせぬ」
螢の反論を待つ間もなく、空蝉は石垣に螢を座らせて、下駄を脱がせた。
暗がりでも左右の親指と人差し指の間が、赤くなっているのが見て取れる。
山を登って家に戻るのは到底無理だろう。
「ふむ。しばし我慢するのだぞ。揺れるかもしれんが、しがみついておれ」
下駄を右手に持ち、螢を左腕で抱えた状態で、空蝉は歩き出した。
「大丈夫だから。重いよ、わたし」
「重いというのなら、もっと出るところが出てから言ってもらおう」
「どうせ貧相ですよ」
螢は口を尖らせたが、それが空蝉なりの優しさであることに気付いている。
気を使わせないために、あえて軽口をたたいたり意地悪を言うのだ。この人は。
「ありがとう」と小さく呟いて、螢は彼の頭を抱きしめた。
「なんだ? 急に甘えん坊になったのか? そなたもそこそこ年を取っているのだぞ。そろそろ大人にならぬか」
「千年以上生きてるおじいさんの空蝉に比べたら、ずっと若いもの」
「……じいさん。そうか、そうだな」
心なしか、空蝉の歩みが遅くなった気がする。それに声も張りがないというか、落ち込んでいるような。
「はぁー」とため息をついた後、「そうか、じいさんか」と、また空蝉は洩らした。
「ごめんなさい。言い過ぎだったわ」
慌ててフォローをしようとするが、すでに一度口から出てしまった言葉は、もう取り戻せない。
「いや、いいのだ。事実だからな」
「ううん。思ってもいないことを言ったわたしが悪いの。空蝉は全然おじいさんじゃないわ」
「では、螢には私はどう見えるのだ?」
「そんなの言わなくたって」
「言ってもらわないと分からない。私は万能の神ではないのだからな」
しょげた口調で、ちらりと螢に視線を向けてくる。
そんな捨てられた犬のような目で見られたら、良心がちくちくどころか、ずきずきと盛大に痛んでしょうがない。
すん、と空蝉が鼻を鳴らした。
ああ、もしかして泣かせてしまったのだろうか。なんてひどいことを言ったのだろう。
螢は思わず空蝉の頭を抱きしめた。
今は夜だけれど、彼はお日さまのにおいがした。
こんな心優しいあなたを、傷つけてしまうなんて。
「空蝉は素敵よ。わたしにとって一番かっこよく見えるわ。だからほとんどの人にあなたの姿が見えなくて、正直ほっとしているの。美しい女性が空蝉に恋したら、わたしなんて勝てないもの」
「そなたは、私を独り占めしたいのか?」
螢はうなずいた。
恥ずかしいけれど、ちゃんと言葉で伝えないと空蝉の傷が癒せない。
「今は益神として、信仰してくれる人もいるけれど。あなたがなんであっても、わたしにとっては一番大事な人よ」
空蝉は横を向いて、肩を震わせている。怒っているのだろうか、それとも気に障ることでも言ってしまったのだろうか。
もっと言葉を重ねた方がいいかもしれない。
「わたしはあなたを愛しているわ」
「……もう、よい」
「でも」
「これ以上、耳元で愛を囁かれると恥ずかしくてしょうがない」
ん? 螢はそっぽを向いてしまった空蝉のあごに手をかけて、自分の方を向かせた。
怒ってませんね。どちらかというと、これは笑いをかみ殺している状態です。
「なによ。わたしは真剣に!」
「そう。螢は真剣に愛の言葉を並べてくれた。なんと光栄なことか、我が妻よ」
仰々しい物言いで、空蝉は頭を下げた。
恥ずかしいのはこっちよ。
「恥ずかしいのは、こっちよ!」
螢が頭の中で思ったことと、まったく同じセリフが背後から聞こえた。
脳内の言葉が、こぼれてしまったのかと思ったが。そうではなかった。
振り返ると、京香が立っていた。杖をつき、うちわを持った秋杜も一緒だ。
派手な黄色のワンピースを着ている京香だが、いつものようなハイヒールではなく、足元はスニーカーだ。
珍しい。河川敷よりもっと悪路である山道も、ハイヒールで難なく登ってくるのに。
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